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安岐郷誌 - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-03-28T14:16:43Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.19.0
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ファイル:美濃恵那郡阿木風神社.png
2021-10-08T10:29:37Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div></div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E9%A2%A8%E7%A5%9E%E7%A5%9E%E7%A4%BE_%E9%A2%A8%E7%A9%B4%E7%A5%AD%E4%B9%8B%E5%9C%96.png
ファイル:風神神社 風穴祭之圖.png
2021-10-08T10:07:44Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div></div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E8%A1%80%E6%B4%97%E7%A5%9E%E7%A4%BE
血洗神社
2021-05-01T11:16:05Z
<p>Torao:/* 伝承と四方山話 */</p>
<hr />
<div>{{infobox<br />
|タイトル=神社仏閣<br />
|画像=血洗神社01.jpg<br />
|名称=血洗神社<br />
|住所=岐阜県中津川市阿木字血洗6872-1<br />
|位置=<map name="血洗神社" lat="35.42594" lon="137.5035" label="short"/><br />
|標高=835m<br />
|祭神={{ruby|[[w:天照大神|天照大神]]|アマテラスオオミカミ}}<br/>{{ruby|[[w:大山祇神|大山祇神]]|オオヤマツミノカミ}} ([[龍泉寺跡|龍泉寺]]山祇神社より遷座)<br />
}}<br />
{{ruby|'''血洗神社'''|ちあらいじんじゃ}}は[[国道363号]]で[[広岡]]から[[川上]]に向かうに途中に位置する神社。日の神が子を産んだ時にその産穢を{{ruby|<strong>血洗池</strong>|ちあらいいけ}}で洗い浄めたという伝説が名の由来となっている。<br />
<br />
血洗神社は美濃国神名帳 {{note|(平安時代)}} に記されている[[阿気明神]]とも言われており地元では{{ruby|血洗様|ちあらいさま}}の名で呼ばれている。夏になると隣接している[[名古屋市キャンプ場|キャンプ場]]や[[フォーティーンヒルズCC|ゴルフ場]]が賑わいを見せる。<br />
<br />
このページでは血洗神社と関連の深い血洗池も併せて説明する。<br />
<br />
== 血洗池跡 ==<br />
'''血洗池'''<map name="血洗池跡" lat="35.42397" lon="137.501847"/>は血洗神社から国道を西に 200m ほど下った場所に存在した池。現在の血洗池跡はほぼ完全に埋没しており、流入する小さな沢と湿地のみが池の痕跡を残している (江戸時代頃の古文書などにも載っているが、大正生まれの人によれば昭和の初め頃にはかなり小さくなっていたと聞いている)。血洗神社は元々この血洗池の湖畔に祀られた神社であったが、土砂の流入による池の変形や土砂崩れによって現在の位置に遷座したと伝えられる。<br />
<br />
血洗という名は{{ruby|[[w:天照大神|天照大神]]|アマテラスオオミカミ}}を出産した{{ruby|[[w:イザナミ|伊邪那美命]]|イザナミノミコト}}が産の血をこの池で清めたという伝説に由来している。またこの時に{{ruby|[[w:胞衣壺|胞衣]]|えな}} {{note|(胎盤)}} を納めた山が胞衣岳 (恵那山) と呼ばれるようになったという[[天照大神の胞衣伝説]]を示す遺跡の一つである。<br />
<br />
現在の血洗池跡は {{年号|1986}} の国道363号の拡張工事で整備されたものである。この時に血洗池の南にあった腰掛け岩を現在の位置に移動している。腰掛け岩の側面に現れている×状の文様は古代のペトログラフ (岩刻文字) とも言われている。<br />
<br />
血洗池から国道を挟んだ向かいに平らに造成された場所があり、ここにかつて湯屋があったと言われている。<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
{| style="font-size:0.9em;line-height:115%;padding:0px;"<br />
|-<br />
| {{年号|1738}} || 美濃明細記に血洗社と胞衣伝説の記。<br />
|-<br />
| {{年号|1916}} || 12月 本堂・境内改築。御大典記念碑。<br />
|-<br />
| {{年号|1934}} || [[龍泉寺]]の山祇神社から{{ruby|大山祇神|オオヤマツミノカミ}}を遷座。 <br />
|-<br />
| {{年号|1986}} || 国道整備に伴い本殿遷座、履舎造営、血洗池跡の整備。<br />
|}<br />
<br />
== 風景 ==<br />
<gallery><br />
File:血洗神社 境内01.jpg|2009/12 血洗神社境内。<br />
File:血洗神社 境内02.jpg|2009/12 血洗神社境内。<br />
File:血洗神社 境内03.jpg|2009/12 階段。<br />
File:血洗神社 境内04.jpg|2009/12 拝殿。<br />
File:血洗神社 境内05.jpg|2009/12 拝殿の中。<br />
File:血洗神社01.jpg|<map title="血洗神社" lat="35.42594" lon="137.5035"/>09/02/21 血洗神社。シンプルな神明鳥居は天照大神を祀っているため。<br />
File:血洗神社 村社石柱01.jpg|<map tilte="血洗神社" lat="35.42594" lon="137.5035"/>09/02/21 血洗神社。村社血洗神社の石柱。<br />
File:血洗神社 拝殿01.jpg|<map title="血洗神社" lat="35.42594" lon="137.5035"/>09/02/21 血洗神社拝殿と本殿。<br />
</gallery><br />
<gallery><br />
File:血洗池 跡地04.jpg|2009/12 血洗池。<br />
File:血洗池 跡地05.jpg|2009/12 血洗池。<br />
File:血洗池 跡地06.jpg|2009/12 血洗池。<br />
File:血洗池 跡地01.jpg|<map title="血洗池" lon="137.502014" lat="35.423913"/>09/02/21 血洗池跡。山からの小さな沢が流れ込み湿地のようになっている。<br />
File:血洗池 跡地02.jpg|<map title="血洗池" lon="137.502014" lat="35.423913"/>09/02/21 血洗池跡。腰掛け岩は跡地の整備で写真に移動している。元の場所は不明。<br />
File:血洗池 跡地03.jpg|<map title="血洗池" lon="137.502014" lat="35.423913"/>09/02/21 血洗池跡。腰掛け岩の文様はペトログラフを成していると言われている。<br />
File:Chiaraiike Yuyaato.JPG|<map title="血洗池 湯屋跡" lat="35.4238016667" lon="137.5015983333"/>13/08/12 血洗池から国道を挟んで向かいの平坦な場所が湯屋跡。<br />
</gallery><br />
<br />
== 血洗池の由緒書き ==<br />
血洗池に建てられている由緒書きには以下のように記されている。<br />
<br />
<hibun photo="09/02/21=血洗池 由緒書き01.jpg"><br />
<div>'''安岐明神御由緒と旧跡血洗池、腰掛岩の傅承'''</div><br />
<div><br />
神代の或る御神 (伊装册命) 御子 (天照大神) を産み給ひその御胞衣 (胎児を包んでいる膜と胎盤) を洗いしに池の水赤くにぞなりけり。血洗の池と呼名され、{{ruby|胞衣|えな}}は恵那嶽に納む。胞山の名これより起る。我国に漢字移入以前の神代文字<br />
{{ruby|[[File:血洗池 由緒書きホツマ.png|37x12px|ホツマ]]|ホツマ}} ({{ruby|秀眞伝|ホツマツタエ}}) の記録に判然として残る。又日本名勝地誌、新撰美濃誌にも明らかなり。産終わりて母神、岩に腰掛け、御心地爽にして、安らかにぞなり給い、今よりこの処を安気野の里と名付けよと宣り給う。和名抄に恵那六郷の内安岐郷はこの地に起因す。後安気から安岐となり明治以降阿木となる。住時は深さ五米広さ一ヘクタールの大池にして、その周囲は古木うっそうと茂り幽邊の霊池たりしが、宝永年間の大雨など度重なる水禍により土砂混入し、昭和初期には一坪足らず小池となり何時しか埋没してその姿無し。池の近くに安産を深謝して安気明神を祀る。美濃国明神帳に恵那郡七社の内従四位上安気明神とあるは血洗神社是なり。今天照大神、大山祇神を併せ祀る。安産、育児、山林守護の神として霊験あらたかなること普く世人の尊崇する由縁なり。壬申の乱 (672) の折 {{ruby|大海人皇子|おゝあまのおうじ}} (天武天皇) は伊勢の大廟を拝し、美濃地に入りて当社を遙拝して戦勝を祈願し給ふと云う。今度改修されたる国道三六三号線は古くより東山道と三河路を結ぶ重要道路にして俗に中馬街道とも呼ばれ明治中頃までは人馬かろうじて通る山路であり亦式内恵那神社 (権現様) 詣での参道でもあった。国道改修により社地の一部が道路敷地となりその代償を以て血洗神社本殿を奥深く遷座し奉り、履舎を造営、腰掛岩の移築、血洗池の復原を育行し天皇在位六十年記念事業として之を建つ。<br />
<div style="text-align:right;">昭和六十一年五月三日 血洗神社氏子一同</div><br />
</hibun><br />
<br />
以下はこの由緒書きを現代風に書き直したものである。<br />
<br />
<blockquote class="translated"><br />
昔々の神の時代、{{ruby|伊邪那美命|イザナミノミコト}}が {{ruby|天照大神|アマテラスオオミカミ}}を出産した折に、胞衣 {{note|(胎盤やへその緒など)}} の血を池で洗い流して山に納めた。伊邪那美命はこの腰掛け岩に腰をかけホッと一息、この地を安気野と里と名付けるよう命じた。阿木という名はここから来ている。また血を洗った池は後に血洗池と、 {{ruby|胞衣|エナ}}を納めた山は恵那山 (昔は胞山などと書いた)<br />
と呼ばれるようになった。<br />
</blockquote><br />
<br />
神話の時代の出来事と、阿木、恵那、血洗の名前の由来について書かれている。ここで恵那山の由来の根拠として挙げているホツマツタヱ、日本名勝地誌 {{note|(1896/明治29年)}}、新撰美濃志 {{note|(1931年/昭和6年)}} には実際に恵那の由来が天照大神の胞衣であると記されている。<br />
<br />
<blockquote class="translated"><br />
当時の血洗池はうっそうとした森の中にあり、深さ 5m、広さ 1 ヘクタール {{note|(10,000㎡)}} ほどの大きな池だったが、山からの土砂の流入によって昭和の時代に埋没してしまった。この血洗池の近くには安産を祈願して現在の血洗神社である安気明神を祀りっている。美濃国明神帳に恵那郡七社の内従四位上安気明神とあるは血洗神社の事である。壬申の乱 ({{年号|627}}) には美濃の地を訪れた大海人皇子 (天武天皇) も訪れて戦勝を祈願したと云われている。<br />
</blockquote><br />
<br />
[[w:濃飛両国通史|濃飛両国通史]] {{note|(1923年/大正12年)}} では帳内社[[阿気明神|安気明神]]が阿木村にあったと推定しているが、その安気明神が血洗神社の事であるとした根拠はこれだけでは分からない。<br />
<br />
[[w:壬申の乱|壬申の乱]]で[[w:天武天皇|大海人皇子]]が押さえたのは同じ美濃でも滋賀県の県境、不破の道 (関ヶ原)。阿木から見ると美濃の正反対に位置する。記紀によれば主に東山道・東海道から美濃の兵を集め、遠くは長野からも来たと言われている。東山道は大井-坂下から[[w:神坂峠|神坂峠]] (恵那山トンネルの真上) を越えるルートである。もし大海人皇子本人が徴兵に回ったのであれば[[安岐郷]]の近くを通った事になるが、実際に東山道を駆け抜けたのは伝令使のような人たちであろう。<br />
<br />
壬申の乱においては、不破関の徴兵令から援兵到着までの期間が短いことから、美濃地方の多くの地域に大海人皇子の天領や屯倉のようなものが存在していたと考えられている<ref><strong>岐阜の歴史</strong>, <i>松田之利 他</i>, 株式会社 山川出版, 2000, ISBN 4-634-32210-2</ref>。このことは壬申の乱から 5 年後の {{年号|677}} に恵那郡から天武天皇 {{note|(大海人皇子)}} へ新嘗祭に使う米が献上されている事からも推測できる ([[飛鳥池の木簡]])。また阿木地内にも宮田や両伝寺 (領天神) などの天領を示唆する地名があり、それぞれに古い[[天神神社 (宮田)|天神神社]]、[[天神神社 (両伝寺)|天神神社]]があることから、阿木にも天皇家領地があって壬申の乱の伝令使が来ていたかもしれない。<br />
<br />
<blockquote class="translated"><br />
国道363号は古くから東山道と三河路をつなぐ重要な道路で中馬街道と呼ばれていた。明治中頃までは馬がやっと通れる程度の道であり、また恵那神社への参道でもあった。国道の拡張工事で血洗神社の敷地を提供したお金で神社の改築と血洗池跡の碑石を建て、天皇在位六十年記念事業とする。<br />
</blockquote><br />
<br />
中馬街道としての国道363号は岩村か、せいぜい阿木小学校前の交差点までかと思われる。血洗神社の前を通って中津川に出る道は中馬街道から見ればかなりの裏ルート的な扱いだったのではないだろうか。<br />
<br />
血洗神社前を通る国道363号は[[龍泉寺古道]]であり、[[龍泉寺]]や[[恵那神社]]、[[恵那山]]詣の参道でもあった。日本地名大辞典<ref><strong>角川日本地名大辞典 21 岐阜県</strong>, <i>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三</i>, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040014906</ref>には龍泉寺の馬頭観音堂に馬で参拝したと記述されていることから、江戸時代初期の頃には馬の通れる程の道があったと推測できる。<br />
<br />
<references/><br />
<br />
== 御大典記念碑 ==<br />
血洗神社境内、鳥居左側の石碑には[[w:大正天皇|大正天皇]]の[[w:即位の礼|御大典]] {{note|(1915年11月10日)}} を記念して血洗神社の改築を行った碑が建てられている。{{年号|1916}} 12月の日付と寄付者の芳名が刻まれている。<br />
<br />
<hibun photo="09/02/21=血洗神社 御大典記念碑01.jpg,血洗神社 御大典記念碑02.jpg"><br />
<div>'''御大典記念'''</div><br />
<div><br />
本堂及境内改築寄附芳名<br/><br />
<span class="smaller"><br />
一金五円 鷹見弥市<br />
一金四円 鷹見弥吉 鷹見?一<br />
一金三円 西尾?美 本多?酒 増尾仙治<br />
一金二円五十銭 鷹見?? 安藤巳之助 森兵蔵<br />
一金二円 ???吉 血洗??場 鷹見?蔵 鷹見金三郎 大井久? 大森兼吉 後藤賢治 安藤長次郎 足立金治 佐々木惣兵ヱ<br />
一金一円七十銭 佐々木?治<br />
一金一円?十銭 〜 田並典? 鷹見?次郎 鷹見健治 梅村?? 丸山?治 丸山?? 安藤?? 〜<br />
一金一円二十銭 石川菊蔵 <br />
一金〜<br />
</span><br />
<div class="right">大正五年十二月</div><br />
</hibun><br />
<br />
== 文献 ==<br />
<br />
=== 美濃明細記 ===<br />
{{年号|1738}} に編纂された[[美濃明細記]] 第三巻 ''神社'' の最後のページに'''血洗社'''として記述されている。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div>[[File:血洗神社 美濃明細記01.png]]</div><br />
<div><br />
恵奈郡阿木山麓大野平<br/><br />
一 血洗社 上古神ノ胞洗之池云々 恵奈之名起于此歟<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
太古に神の胞衣を洗ったと言われる池があり恵那の名はこれに由来か、と書かれている。つまり江戸時代中期には血洗池や胞衣の伝承が存在したことになる。<br />
<br />
現在の血洗神社付近までを大野と言うかは微妙なところ。もしかしたら昔は大野の何処かに血洗神社の前宮があったのかも知れない (そんな話は聞かないが)。あるいは、昔の大野が飯沼村の枝村だったことから飯沼の神社と書きたかったのかも知れない。<br />
<br />
=== 巖邑府誌 ===<br />
{{年号|1751}} に編纂された[[巖邑府誌]]の[[巖邑府誌/飯妻|飯妻]]に大神廟についての記述がある {{note|(神の中でも大神とは天照大神の意)}}。ただしここに書かれている大神廟とは飯沼の[[神明神社]]の事かもしれない。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
村内の鬱蒼とした森の中に大神廟がある。言い伝えによれば大昔に日の神が恵那岳に降り立ち、胞衣を納めたことから胞山という名が付いたと云われている ({{ruby|胞衣|えな}}を俗に恵那とした)。お産の穢れを清めた事からその名の着いた血洗池が竜泉山にある。またへその緒を切った鎌が[[三森神社]]に納められている。大神廟はこれらの遺跡である。<br />
</div><br />
<div><br />
この大神廟は占いをして伊勢の{{ruby|度会|わたらい}}郡に遷ったという。この事から伊勢廟の御用材には恵那岳の木材を献上して今に至るとの事である。もちろん根拠が無く信ずるに足らないが、国史では垂仁天皇 25 年 {{note|(紀元前5年)}} に{{ruby|[[w:倭姫命|倭姫命]]|やまとひめのみこと}}が大神鎮座の地を求めて近江 {{note|(滋賀県)}} の東から美濃を廻って伊勢に至ったと云われている。つまり、かつて倭姫命が占いをして現在の地に決めるまでの行宮 {{note|(元伊勢)}} と言われるようなことがあったのかもしれない。そうして里人がたくさんの妄説を付けたのである。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
[[天照大神の胞衣伝説|胞衣伝説]]の現実性は薄いにしても伊勢神宮の[[w:元伊勢|元伊勢]]があったかもしれないと推測している。<br />
<br />
[[w:日本書紀|日本書紀]]には[[w:伊勢神宮|伊勢神宮]]が現在の場所に定まるまでに近畿周辺地域を巡幸したと記されている。より詳しい{{ruby|倭姫命世記|やまとひめのみことせいき}}によれば紀伊、吉備、大和、伊賀、近江、美濃、伊勢と巡幸し、またそれぞれの地で仮宮の置かれた場所も記されているが、美濃でも最東端の恵那地方まで来たとの記録はない。ただし倭姫命世記自体が鎌倉時代 {{note|(1185年頃-1333年)}} に書かれた物語であり、編算内容に当時の公家や武家勢力の影響を色濃く受けていると考えられる。<br />
<br />
=== 大日本地名辞書 ===<br />
{{年号|1902}} に編算された[[大日本地名辞書]]の''安岐郷''の項にも胞衣と血洗池に関して記述されている。この項の [補] に「名細記」と記されていることから、新撰志とは前述の美濃明細記であろう。血洗池を古跡と記していることから明治の時代には既にかなり埋没が進んでいる事が窺える。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
新撰志伝、血洗社は阿木山の麓、大野平にあり、神代のむかし、ある御神こゝにて御子を産給ひ、胞衣を洗ひ給ひし跡也といひ云え、血洗池という古跡ものこり、また恵奈山の名もそれより興りしよし、里老いへり<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
=== 惠那神社誌 ===<br />
{{年号|1912}} の[[惠那神社誌]]では[[阿氣明神]]は血洗神社であると推測している。また血洗神社が現在の場所に移るまでの経緯の言い伝えが記されている。<br />
<br />
<blockquote class="original"><br />
<div><br />
血洗の池は、惠那山の西南麓なる、阿木村廣岡にあり、昔時は深さ十數尺、大さ三百餘坪の池にして、其周圍近傍には古木蓁々と繁茂し、幽邃の氣人をして戰慄せしむる程の靈池たりしが、寶永元申年霖雨の際、山岳崩壊して、土砂竄入したるため、今は全部埋まれたり、此の池より流れ出る水赤かりきと、而して池の北方二三町の處に血洗神社あり、天照大神を奉祀す、小祠なれども村社に列せらる、又此の池の南に腰掛石、東の方に屏風岩あり、又産髪を納めし石塚あり、清淨ヶ丘、鶴ヶ峰、甘露ヶ峰、祠ヶ澤、等の地名皆是れ等に起因すと伝ふ、和名妙に安岐郷と有るは、此所にして廣岡は其本土なり、美濃國神名帳に從四位上安氣明神とあるは、此の血洗神社たること、明細記、地理志料等に伝へるが如し、此の社本來は、血洗池の東南、森林中にありし大社なりしが、元龜年間に飯沼村との間に山論起りし時、安氣明神の森を燒拂ひ、降て承應明暦の頃、又々境界論を惹起し、互随て神社をも今の處に移し、僅に小祠を建立して、奉祀を繼續せるものなりと伝ふ、(此の一節は、編者十四歳の頃、阿木村廣岡、今井豊次郎氏の祖父久助翁の舊記及口碑等書冩せるものを、拔萃せしものなり)<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<blockquote class="translated"><br />
<p><br />
血洗池は恵那山西南の麓の阿木村広岡にある。昔は深さ十数尺 {{note|(3〜6m)}}、大きさ三百餘坪 {{note|(約1,000㎡)}} の池で、その周囲は古木が鬱蒼としており霊能に長けた人を持ってしても戦慄する程の霊池であったが、{{年号|1704}} の長雨で山崩れが起きて土砂が流入したため現在は全て埋まっている。この池から流れ出る水は赤かったと言われている。<br />
</p><br />
<p><br />
池を北に二三町 {{note|(約300m)}} 行ったところに血洗神社があり天照大神を奉祀している。小祠であるが村社に列せられている。またこの池の南に腰掛岩、東に[[屏風石]]があり、また産髪を納めた[[髪塚|石塚]]があり、清浄ヶ丘、鶴ヶ峰、甘露ヶ峯、祠ヶ沢などの地名はこれに起因すると言われている。和名抄に載っている安岐郷とはこの場所であり広岡はその中心である。美濃国神名帳の從四位安氣明神とはこの血洗神社を指していると明細記、地理志料などに伝えられている通りである。<br />
</p><br />
<p><br />
この社は本来は血洗池東南の森の中にあった大社であるが、元亀年間 {{note|(1570-1573/安土桃山)}} に飯沼村と山境紛争が起き安氣明神の森を焼き払ってしまった。さらに承応明暦 {{note|(1652-1657/江戸初期)}} の頃に再び山境紛争が起き神社を現在の場所に移し、僅かに小祠を建立して奉祀を継続したものであると伝えられる (この一節は編者が14歳の頃に阿木村広岡の今井豊次郎氏の祖父である久助翁の旧記および口碑などの書き写しから抜粋したものである)。<br />
</p><br />
</blockquote><br />
<br />
元亀年間には[[岩村城の戦い]]があり、武田勝頼の軍勢が遠山子城を攻めて阿木周辺の神社仏閣を焼き払った時代であることから、山境紛争ではなく兵火で焼かれたのが正しいのかも知れない (血洗神社は[[龍泉寺]]と[[長楽寺]]を結ぶ[[龍泉寺道]]にある)。<br />
<br />
<references/><br />
<br />
== 伝承と四方山話 ==<br />
* 血洗神社前は恵南から中津川方面へ向かう近道である。阿木から中山道中津川宿へ[[w:助郷|助郷]]に向かう道としても使われたと思われる。<br />
* 昭和50年代頃までは血洗神社前の小川は「清水」と呼ばれ、[[阿木小学校]]の根ノ上遠足で水汲み場としていた。[[龍泉寺道]]の古文書における息継清水とはこの小川と思われる。ただし、現在は上流にキャンプ場が出来たことにから飲料には適さないだろう。<br />
* 一説では千旦林城や龍泉寺を攻め落とした武田の軍勢が長楽寺に向かうために通りその返り血を洗ったため血洗池となったとも言われている。地勢の特徴では脇の小川の氾濫や山崩れなどで荒れたりむき出しになった地であることを表す「地荒い/地新い」に由来する名称かもしれない。他にも飯沼神社の伝承から穢洗、稚児洗などの翻読が考えられる。<br />
* 血洗池の東側、南側を調べると起伏があり社が建てられそうな場所はない。地形的にはかつて湯屋があった場所が比定地として挙げられる。<br />
* 湯屋はかつて修験道がブームだった時代に恵南や三河地方から恵那神社、恵那山へ参拝するための身を清める場所だったのかもしれない。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[阿気明神]]<br />
* [[恵那神社]]<br />
* [[天照大神の胞衣伝説]]<br />
* [[屏風石]]<br />
* [[髪塚]]<br />
* [[龍泉寺道]]<br />
<br />
[[Category:二分団|ちあらいしんしや]]<br />
[[Category:神社仏閣|ちあらいしんしや]]<br />
[[Category:国道363号|ちあらいしんしや]]<br />
[[Category:龍泉寺古道|りゆうせんしことう]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E9%81%A0%E5%B1%B1%E8%8D%98
遠山荘
2020-07-30T09:56:28Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>美濃国{{ruby|'''遠山荘'''|とおやまのしょう}}は中世の[[w:荘園制|荘園制]]における[[w:摂関家|摂関家]]領の一つ。現在の中津川市・恵那市の全域と瑞浪、土岐、木曽の一部が該当する<ref name="日本歴史地名大系"><strong>日本歴史地名大系 第二一巻 岐阜の地名</strong>, <i>所三男</i>, 1993年(平成5年), 平凡社, ISBN 978-4582490213</ref>。同時代の[[安岐郷]]も遠山荘に属している。<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
奈良時代の荘園制により[[恵奈郡]]には地方豪族、天皇家領、摂関家領、東大寺や延暦寺領などの様々な[[w:初期荘園|初期荘園]]が発生した。当時安岐郷を含む恵奈郡は深い山林であったことから、各勢力が自墾地として切り開いた土地が多く、細かく区分けされていたと思われる。<br />
<br />
{{年号|1155}} 12月16日、[[w:藤原泰子|藤原泰子]]の死去によって遠山荘に該当する地域は{{ruby|高陽院領|かやいんりょう}}から[[w:近衛家|近衛家]]に移った (近衛家文書)。<br />
<br />
吾妻鏡 {{年号|1185}} [http://katohjuk-web.hp.infoseek.co.jp/aduma04-05.htm 5月1日条]では、木曽義仲の妹で北条政子の猶子になっていた[http://kotobank.jp/word/%E5%AE%AE%E8%8F%8A <strong>宮菊</strong>]が都で問題を起こし、彼女を哀れんだ源頼朝が鎌倉へ呼び寄せた上、美濃国遠山荘内の一村 (馬籠と比定される) を与えたと記されている。この記が最初に遠山荘という名が認められる史料である。同年 [http://katohjuk-web.hp.infoseek.co.jp/aduma04-03.htm 3月3日条]には、宮菊がそれまで美濃国に居たこと、その理由が「一村有御志」 (村人の好意) というものであった事を伝えている。<br />
<br />
文治から建久 {{note|(1185-1199年/鎌倉)}} の頃に、源頼朝は伊豆国討伐の功として{{ruby|[[w:加藤景廉|加藤景廉]]|かとうかげかど}}に遠山荘の地頭職を与えた<ref>景廉より前に居た地頭が誰であるかは分かっていない。</ref>。しかし景廉自身は頼朝に付いて鎌倉におり遠山荘の地を踏むことはなかった。景廉の死後に地頭を継いだ{{ruby|景朝|かげとも}}が遠山荘に入り、姓も遠山と替えてこの地に土着した。<br />
<br />
{{年号|1246}} 8月25日、遠山荘は{{ruby|[[w:近衛基通|近衛基通]]|このえもとみち}}から子{{ruby|[[w:道径|道径]]|みちつね}}の妻 {{note|(妾?)}} である {{ruby|武蔵局|むさしのつぼね}}に与えられた<ref>武蔵局に与えた荘園という話は[[飯沼|飯妻]]の名の発祥と似ている。飯妻の逸話は元は遠山氏ではなく近衛氏だったのかもしれない。</ref>。また同年10月8日には基通の娘の竜前のものとしているが、{{年号|1253}} の段階では武蔵局が知行する12ヶ所の中に入っていた<ref name="日本歴史地名大系"/>。<br />
<br />
ただしこの頃の実質的な支配権は地頭である[[遠山氏]]が握っており、遠山荘は{{ruby|[[w:地頭請|地頭請]]|じとううけ}}となっていたと考えられている<ref name="日本歴史地名大系"/>。<br />
<br />
近世に入ると豊臣秀吉の太閤検地によって領地の多重所有が解消して遠山荘も消滅した。阿木を含める遠山荘のほとんどはそのまま岩村藩となり[[遠山氏]]が支配するところとなった。<br />
<br />
<references/><br />
<br />
== 地名考 ==<br />
<br />
* 遠山という名前の由来は定かではない。しかし、京都から見て近いウミを{{ruby|近江|おうみ}} {{note|(琵琶湖)}}、遠いウミを{{ruby|遠江|とおとうみ}} {{note|(浜名湖)}} と呼び、その呼称がそのまま国名となっていることを踏まえると、浜名湖と同程度の距離にある恵那山を遠山と呼称するのは自然なことではないだろうか。この場合、近山に相当する山は伊吹山あたりであろう。<br />
<br />
== 参照 ==<br />
* [[遠山氏]]<br />
* [[安岐郷]]<br />
<br />
[[Category:中世|とおやましよう]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E5%AE%89%E5%B2%90%E9%83%B7%E8%AA%8C:%E6%9C%80%E8%BF%91%E3%81%AE%E5%87%BA%E6%9D%A5%E4%BA%8B
安岐郷誌:最近の出来事
2017-04-16T01:55:08Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>* 昨年秋頃にうっかり koiroha.org のドメインを失効してしまいしばらくアクセスできない状態が続いていましたが、新しく agimura.net で取り直してまた閲覧可能になりました。またコスト面で現在のさくらインターネット VPS から ConoHa へ移行を考えています。 [[利用者:Torao|Torao]]([[利用者・トーク:Torao|トーク]]) 2017年4月16日 (日) 10:55 (JST)<br />
* [[髪塚]]、[[行者塚]]、[[龍泉寺]]井戸跡と観音堂跡、[[血洗池]]湯屋跡を追加。編集者に[[長楽寺]]の [[User:Chisho]] さんを追加しました。 [[利用者:Torao|Torao]]([[利用者・トーク:Torao|トーク]]) 2013年8月13日 (火) 01:59 (JST)<br />
* サイトの URL を wiki.koiroha.org/agi から agi.koiroha.org へ移動します。 [[利用者:Torao|Torao]]([[利用者・トーク:Torao|トーク]]) 2013年3月14日 (木) 01:24 (JST)<br />
* 大量のスパムアカウントが作成されたため匿名ユーザによるアカウントの新規作成を制限します。 -- [[利用者:Torao|Torao]]([[利用者・トーク:Torao|トーク]]) 2012年5月21日 (月) 18:48 (JST)<br />
* さくらインターネットを 2 コア 1GB メモリプランに変更しました。-- [[利用者:Torao|Torao]] 2012年5月16日 (水) 12:31 (JST)<br />
* さくらインターネットにサーバを移転しました。接続速度が ADSL40Mbps からバックボーン直結 100Mbps になりましたのでだいぶ快適になったと思います。 --[[利用者:Torao|Torao]] 2011年1月2日 (日) 17:30 (JST)<br />
* MediaWiki を 1.16.0 にバージョンアップしました。-- [[利用者:Torao|Torao]] 2010年8月8日 (日) 18:00 (JST)<br />
* MediaWiki を 1.14.0 から 1.15.4 にバージョンアップしました。 --[[利用者:Torao|Torao]] 2010年6月25日 (金) 13:33 (UTC)<br />
* 中国、韓国などからの大量のスパム書き込みが続いているため、非登録ユーザによる編集、新規ページ作成 (ノート含む) を無期限にブロックします。編集に参加する場合はユーザ登録を行って下さい。[[利用者:Torao|Torao]] 2010年4月29日 (木) 02:47 (UTC)<br />
* 地図の詳細表示に Yahoo! 地図を追加しました。Yahoo! 地図は携帯電話 (i-mode, ezweb) からの地図表示に対応していますので、携帯電話片手に旧跡探しなどを行うことが出来るようになりました。また中津川・恵那地方では Google Map に比べてかなり詳細な航空写真を見ることが出来ます。--[[利用者:Torao|Torao]] 2009年8月28日 (金) 11:42 (UTC)</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E9%A2%A8%E7%A5%9E%E7%A5%9E%E7%A4%BE
風神神社
2014-05-23T18:13:47Z
<p>Torao:/* 沿革 */</p>
<hr />
<div>{{Infobox<br />
|タイトル=神社仏閣<br />
|名称=風神神社<br />
|画像=風神神社01.jpg<br />
|所在地=岐阜県中津川市阿木字川入5740-1<br />
|位置=<map name="風神神社" lon="137.501278" lat="35.382573" label="short"/><br />
|標高=740m<br />
|祭神={{ruby|天御柱命|アメノミハシラノミコト}}, {{ruby|国御柱命|クニノミハシラノミコト}}|例祭=毎年8月28日〜9月1日 (8月31日大祭)<br />
|交通=国道363号から真原農免道、燈籠場より林道を上る<br />
}}<br />
{{ruby|'''風神神社'''|かざがみじんじゃ}}は[[阿木林道]]を上り[[阿木川]]の上流に位置する神社。天候や災害を司る風の神と{{ruby|'''風窟'''|かざあな}} を祀っており、毎年の例祭には周辺地域から多くの人々が集まっている。<br />
<br />
また近年では[[阿木山]]登山の目印としても知られている。<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
風窟が祀られ始めた時期は定かではないが平安時代とも言い伝えられている。阿木川上流の山々が古くから[[阿木山|行事岳]]と呼ばれて[[長楽寺]]や[[龍泉寺]]などの修験の場とされていた事から、それらの隆盛期である平安から戦国の頃には霊場として自然発生的に祀られ始めたものと考えられる。<br />
<br />
* {{年号|1618}} 6月再建。奈良生駒の[http://genbu.net/data/yamato/tatuta2_title.htm 龍田大社]より天御柱命 ({{ruby|[[w:級長津彦命|級長津彦命]]|シナツヒコノミコト}}/男神)、国御柱命 ({{ruby|級長都姫命|シナツヒメノミコト}}/女神) 勧請。<br />
* {{年号|1959}} 9月26日、三河方面で[[w:伊勢湾台風|伊勢湾台風]]の時に風神神社を参拝した人々の家だけが被災を免れたという事から霊験が広まる。<br />
* {{年号|1983}} [[9.28災害]]で神社横の沢が氾濫。社殿が倒壊し、参道の一部も崩落・通行不能となる。<br />
* 昭和50年代 当時の宮司鷹見重一氏の調査により、縁起の共通点などから分祀を受けた本宮が龍田大社であることが分かる。以後毎年の例祭時には龍田大社から宮司さんを招いている。<br />
<br />
== 由緒 ==<br />
当社は{{ruby|天御柱命|あまのみはしらのみこと}} ({{ruby|級長津彦|しなつひこ}}命・{{ruby|級長津姫|しなつひめ}}命) と呼ばれる{{ruby|伊邪那岐|いざなぎ}}命の御子を祀る社です。この大神は天地の大気を掌っており、新羅万物、人間を含む呼吸あるすべての者がこの神の恩恵に預かっております。五穀を始め農作の豊凶に天候の善し悪しがかかわっていると言う事は誰しもご存じの通り。人はこの大神の神徳をわきまえて恩頼に感謝し崇拝しなければなりません。<br />
<br />
この大神が祀られたのは人皇十代の[[w:崇神天皇|崇神天皇]]の時です。この頃、農作物はもちろんのこと雑草の一葉に至るまでの大凶作が数年間も続いた事から崇神天皇は多くの卜事 {{note|(占い)}} を行いました。ある時、お祈りになられた天皇御自身の夢枕に天御柱命・国御柱命が現れて「我は世に凶事をなしている神なり。我が宮を竜田の立野に建て種々の幣帛を備え祀れば全ての作物から雑草の一葉に至るまで豊かにしてやろう。」と伝えられました。崇神天皇はこれに従ってそこに大社をお建てになられたとされています。現在、大和国 {{note|(奈良県)}} 生駒郡三郷町立野に鎮座されていている龍田大社がこの大社です。この風神神社はその御分霊を勧請しお祀りしており、記伝を失ったため創建の時代ははっきりと分かっていませんが中古 {{note|(平安時代)}} よりと言い伝えられています。<br />
<br />
昔々、ある女が川沿いにこの山奥へ登って大穴の空いた巨大な岩を見付けました。近くへ寄ってみると今まで良い天気だった空が瞬く間に暗雲に覆われ激しい風雨に見舞われたので大急ぎで帰ってきました。その 10 日ほど後の快晴の日に再びその場所へ登ってみると、今度もまた以前のような風雨に見舞われ大地も鳴動し始めたのでとても驚いて帰ってきました。それから逢う人ごとにその不思議な話をしていたので人々は恐れてその山へ入る者がいなくなりました。<br />
<br />
ある日、どこからかやって来た老人がこの話を聞いて山中に入って行きました。そこへ 37 日間こもって里へ下りると「あの場所には級長津彦神が居られる。うやうやしく尊崇せよ。女人は決して近寄るでない。」とだけ言い残してまたどこかへ立ち去ってしまいました。それ以来今に至っても女人の参拝が許されていません。元和年間 {{note|(1615-1624年/江戸初期)}} の頃になると、信者がその年の豊作を祈願すると霊験あらたかな神徳があると広まったために人々が争って参拝するようになりました。それ以来、年々参拝者の数も増え現在のようになりました。<br />
<br />
例祭 前夜祭 毎年八月三十日<br/><br />
大祭 八月三十一日<br/><br />
長命長久百穀豊穣の祈願をして祈符授与す<br/><br />
<br />
付記 元は女人禁制の土地でありましたが現在は解禁し年と共に女人の参拝者も増加しつつあります。<br />
<br />
<blockquote class="original"><br />
<div><br />
当社は天御柱命、又の御名は級長津彦長津姫命と申し奉る伊邪那岐命の御子にして尊き大神を祀る社なり。其の大神は宇宙間の空気を主宰し給えば人は更なり万物に至るまで生活し呼吸ある者は皆此の大神の恩徳に依らざるはなし。五穀を始め作りと作る物の豊凶は必ず風の好と不好とに関係するは人皆能く知る所なり。故に人たる物はよくこの大神の神徳を弁えて恩頼に奉謝し奉り崇めずんば有るべからず。<br />
<br />
大神の祭始は人皇十代崇神天皇の御時天下の百姓の作物を始め草の片葉に至る迄一歳二歳にあらず幾歳凶作が続きし故、天皇多くの大凶の卜事を持つて恩心を占はせるに出る神の御心もなしと奉上し給いき。天皇御自身にて祈り給いき故を以て、天皇の大御夢に悟し給い天下百姓を傷害せる我御名は天御柱命国御柱命の御名を悟し我宮を竜田の立野に立て種々の幣帛を備え奉らば作りと作る物草の片葉に至る迄豊になし幸え奉らんと悟し奉りき故に宮柱太敷立て奉りき。今大和国生駒郡三郷町立野に鎮り座す大神、則ち是なり宮幣大社に列せられる本社は則ち其の御分霊を勧請し奉る所にしてその創建の時代は紀伝を失い判然せざれども蓋し中古よりのことなりと云い伝えり。<br />
<br />
古へ女人此の山奥に川辺伝いに登り巨大なる厳石に大穴あり其の傍らへ来ると碧々たる白日も一瞬の間に黒雲起り風雨暴荒なる故直ちに帰りたる後十日程経て晴天となりたれば再び其の処へ登りたるに以前の如く風雨はげしく大地鳴動せしかば大いに驚き立帰りき。それより逢う人毎に其の不思議を語故に人々おそれて其の山中に入者一人もなし。<br />
<br />
或る日何処とも知らず老翁来り其の話を聞き山中に入る事三十七日にして出て来りて告げて曰く斯処には級長津彦神安置せらる恭く尊崇せよ女人たるもの決して近傍へ行く可らずと云い何処ともなく立ち去るりたり故に今至るも女人の参詣を許さず。崇敬の徒其の年の豊作を祈請すれば果たして霊験灼然たることは人々の能く知る所なり故に人々競いて参詣するに至りしは元和年間よりの事なりしがそれ以降年々参詣者の数増加し終に現今の如くに至れり。<br />
<br />
例祭 前夜祭 毎年八月三十日<br/><br />
大祭 八月三十一日<br/><br />
長命長久百穀豊穣の祈願し祈符授与す<br/><br />
<br />
付記 住時は女人禁制の土地なりしが現今は解禁せられ年とともに女人の参詣人も増加しつゝあり。<br />
</div><br />
<div class="smaller right">阿木歴史資料より</div><br />
</blockquote><br />
<br />
== 風鎮祭 ==<br />
立春から数えて{{ruby|[[w:二百十日|二百十日]]|にひゃくとおか}}は台風が来やすい日と言われ、古くから農林業を営む人々の厄日とされている。現在の風神神社では毎年8月28日〜9月1日を例祭とし、およそ二百十日の前日である8月31日を大祭としている。<br />
<br />
== 境内 ==<br />
<br />
=== 拝殿 ===<br />
現在の拝殿は {{年号|1983}} 頃に再建されたものである。裏手の大岩の上に本殿の祠が置かれている。<br />
<br />
<gallery><br />
File:kazagami jinja02.jpg|09/06/14 風神神社拝殿。<br />
File:風神神社01.jpg|06/08/14 狛犬と神社拝殿。拝殿左側に里人の詰め所がある。<br />
File:風神神社 拝殿01.jpg|08/08/24 拝殿。正面の岩の上に置かれている祠が本殿。<br />
</gallery><br />
<br />
=== 風窟 ===<br />
[[File:kazagami jinja08.jpg|thumb|風窟]]<br />
<strong>風窟</strong> (風穴) とは拝殿裏手の本殿が置かれている大岩の隙間を指す。注連縄が張られ戸が取り付けられている。この風窟からは一年中風が吹き出ており、ここに風の神が住んでいると言われている。<br />
<br />
昔からこの風窟に物を投げ込むとたちまち暴風雨に見舞われると言われている。また近代までは女人禁制であり女性は近づくことすら許されなかった。例祭時には悪戯者や女人が近寄らぬよう一晩中の見張りが付いていたと云われている。<br />
<br />
近代になって女人禁制は解けたが、それでも風窟の周辺は{{ruby|瑞垣|みずがき}}に囲われており近づくことが出来ない。<br />
<br />
<gallery><br />
File:kazagami jinja07.jpg|09/06/14 拝殿左手から裏に回ることが出来る。<br />
File:kazagami jinja08.jpg|09/06/14 風窟は瑞垣に囲われている。<br />
File:kazagami jinja09.jpg|09/06/14 周囲は鬱蒼とした杉に囲まれている。<br />
</gallery><br />
<br />
=== 狛犬 ===<br />
現在の狛犬は {{年号|1980}} に建てられたもの。寄付者芳名が取り付けられている。<br />
<br />
<gallery><br />
File:kazagami jinja06.jpg|09/06/14 拝殿と狛犬。<br />
File:kazagami jinja05.jpg|09/06/14 狛犬燈籠寄進者芳名。<br />
File:kazagami jinja03.jpg|09/06/14 ヲワリ新栄講(尾張)や春日井の人。<br />
File:kazagami jinja04.jpg|09/06/14 阿木の人の名前。<br />
</gallery><br />
<br />
=== 拝殿表 ===<br />
<gallery><br />
File:風神神社03.jpg|06/08/14 鳥居と手水、石灯籠などが見える。<br />
File:風神神社04.jpg|06/08/14 神社の道向かいの山は杉の木で覆われている。<br />
</gallery><br />
<br />
=== 拝殿裏 ===<br />
風神神社の裏手には風窟があり周りは杉に囲まれている。<strong>トイレの近くは[[9.28災害]]で崩落しているので注意</strong>。<br />
<gallery><br />
File:風神神社 風窟01.jpg|06/08/14 風穴の祠はせり出した巨大な岩の上に置いてある。<br />
File:風神神社 風窟02.jpg|06/08/14 拝殿裏手の大きな岩の隙間が風窟。昔から竹の柵で囲ってあります。<br />
File:風神神社02.jpg|06/08/14 神社の裏手には苔生した杉の大木が立ち並ぶ。<br />
File:風神神社 風窟03.jpg|06/08/14 風窟近くに立っている朽ちた杉。2009/01 には倒れて川へ下る道を塞いでいた。<br />
</gallery><br />
<br />
=== 参道 ===<br />
''[[風神神社参道]]''参照。<br />
<br />
=== 由緒書き ===<br />
境内に建てられている石碑の裏側には以下のように掘られている。<br />
<br />
<hibun photo="09/06/14=kazagami jinja01.jpg"><br />
<span style="font-size:115%;">風神神社</span><br/><br />
本殿造營遷宮記念<br/><br />
<table style="background-color:transparent;font-size:0.8em;line-height:110%;"><br />
<tr><th>御鎮座</th><td>中津川市阿木字川入</td></tr><br />
<tr><th>御祭神</th><td>天御柱命・國御柱命</td></tr><br />
<tr><th></th><td>別命 級長都彦神・級長都姫神</td></tr><br />
<tr><th>御神徳</th><td>風難防護・延命長壽</td></tr><br />
<tr><th>例大祭</th><td>八月三十一日</td></tr><br />
<tr><th>二百十日祭</th><td>九月十日</td></tr><br />
</table><br />
<br />
御祭神は宇宙間の大気を主宰し給ふ神様で 元和四年六月 大和國龍田大社より御分霊を勧請す 江戸時代より風災防除の守護神として 美濃、尾張、三河、信濃、遠州の各地に 特別な崇敬と信仰を集め来れり 戦後参拝者の中絶ありしも 伊勢湾台風以来再び往時を凌ぐ隆盛を見るに至りしは 霊験あらたかなる御神徳のしからしむる所なり<br />
<br />
昭和四十五年以来駐車場の新設、籠堂の移築、玉垣、狛犬、石燈籠の建立、拝殿御屋根葺替、御神札頒布所の改築等御社頭の整備擴張を致し 昭和五十九年八月 七十年の歳月を経て 御本堂の再建造営を竣工し 遷宮大祭を齊行し奉る<br />
<br />
氏子崇敬者各位の御奉賛を心から深謝申し上げて記念の碑を建つ<br />
<br />
昭和五十九年八月二十六日<br />
</hibun><br />
<br />
== 文献 ==<br />
<br />
=== 巖邑府誌 ===<br />
{{年号|1751}} に編纂された巖邑府誌の[[巖邑府誌/安岐#風窟|'''風窟''']]の項には以下のように記されている。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
真原の山に常に風が吹き出ている{{ruby|風窟|かざあな}}がある。里人は暴風による農作物の被害を免れると云い、夏になると祭りを執り行う。またその風窟に石を投げる者が居ればたちまち暴風が起きその者も難に遭うと云う。多分に愚かな田舎者の言であろう。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
最後の一言が余計だが、江戸時代中期には現在と同じ言い伝えがあり風鎮祭のような儀式も行われていたことが窺える。神や神社といった言葉が出て来ないのは、当時はまだ神社や寺という様式になっておらず霊場のようなものだったのかも知れない。<br />
<br />
=== 風穴祭之圖 ===<br />
[[File:風神神社 風穴祭之圖.png|thumb||風穴祭之圖]]<br />
<strong>[[風穴祭之圖]]</strong>の中央に描かれているのは長楽寺で右手奥に風穴が描かれている。つまりこの絵が描かれ時代には長楽寺が例祭を執り行っていた事を示している。<br />
{{-}}<br />
<br />
=== 日本歴史地名大系 ===<br />
日本歴史地名大系<ref><strong>日本歴史地名大系 第二一巻 岐阜の地名</strong>, <i>所三男</i>, 1993年(平成5年), 平凡社</ref>には以下のように記述されている。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
{{ruby|風神|かざかみ}}神社は社蔵の風神神社由緒には、元和四年(一六一八)に再建とある。旧本尊の風天子像は長楽寺に安置され、阿木風神祭礼之図(阿木公民館蔵)には風神宮は長楽寺の奥院として描かれている。夏風三郎の祭日として二百十日・二百二十日の無事を祈願する。<!-- 現在は八月三〇日に前夜祭、三十一日に大祭を行う。--><br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
[[w:風天|風天]]は仏教における風の護法善神。風神神社と長楽寺が深く関係しており仏教や修験的な立場から発生した事が窺える。何時の時代に別れたものかは分からないが、少なくとも明治の[[w:神仏分離|神仏分離]]には神社となっていただろう。<br />
<br />
夏風三郎が何を示すかは不明。<br />
<br />
=== 郷土資料辞典 ===<br />
郷土資料辞典<ref><strong>ふるさとの文化遺産 郷土資料辞典㉑ 岐阜県</strong>, <i>大迫忍(発)/齋藤建夫(編)</i>, 1997年(平成9年), 株式会社人文社</ref>の''風神神社''の項には以下のように記述されている。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<!--<br />
<div style="border-bottom:solid 1px gray;">{{ruby|'''風神'''|ふうじん}}'''神社'''</div><br />
<div class="smaller">市内{{ruby|阿木|あぎ}} N35°22'45" E137°30'14"</div><br />
-->… 崇神天皇の時、凶作がつづいたので、風の神に祈り、大和の竜田神社から勧請して創建したと伝えられる古社である。…<!-- このあたりは阿木川の景色がとくにすばらしく、ハイカーたちの訪れの多いところである。--><br/>[祭神] 天御柱命・国御柱命<br />
</blockquote><br />
{{ruby|[[w:崇神天皇|崇神天皇]]|すじんてんのう}}は記紀に記されている第十代天皇。この代では実在したかどうかすら危ういが、記紀によれば在位は紀元前 97〜29 年 (弥生時代後期)、実在説によれば 3〜4 世紀 (古墳時代前期) との事である。<br />
<br />
竜田神社と書かれているが龍田大社の間違いであろう。[[w:龍田大社|龍田大社]]は奈良県生駒に位置する風の神を祀る神社で、斑鳩の龍田神社の本社でもある。崇神天皇の時〜の由来も本来かかるのは龍田大社であって内容がおかしい。<br />
<br />
<references/><br />
<br />
== 四方山話 ==<br />
* 風神神社の例祭に呼ばれた折に宮司さんに勧められて神社裏の滝で打たれたが冷たくて参った、と龍田大社で宮司さんに聞いた。<br />
<br />
== 参照 ==<br />
* [[風神神社参道]]<br />
* [[燈籠場 (真原)]]<br />
* [[長楽寺]]<br />
* [[安岐太鼓]]<br />
* [[阿木渓谷]]<br />
* [[阿木山]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.genbu.net/data/yamato/tatuta2_title.htm 龍田大社]<br />
<br />
[[Category:山岳地域|かさかみしんしや]]<br />
[[Category:神社仏閣|かさかみしんしや]]<br />
[[Category:伝承|かさかみしんしや]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E9%A3%AF%E6%B2%BC%E9%A7%85
飯沼駅
2014-05-23T17:19:00Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>[[File:飯沼駅01.jpg|thumb|140x140px|飯沼駅]]<br />
{{ruby|[[w:飯沼駅|'''飯沼駅''']]|いいぬまえき}}<map title="飯沼駅" lon="137.461306" lat="35.418501"/>は {{年号|1991}} 10月28日に[[飯沼]]の市ノ坪に開業した[[明知鉄道]]の駅。明知鉄道開業以来の最初の新設駅である。普通列車としては日本一となる 33/1000 の急勾配 (100m 進むと 3.3m 上る) を誇っている。通勤通学などで乗客が多い時は軽くオーバーランしたり発進時にバックする事もある。<br />
<br />
通常なら認可されないような勾配であるが、運輸省 (当時) の役人立ち会いの元で何度も試験を行い、明知鉄道に装備された<strong>砂ブレーキ</strong> ([[w:砂撒き装置|砂撒き装置]]) の性能が認められて特認を受けたと聞いている。砂撒き用の黄色いボタンは現在の車両でも運転席の右手下に設置されている。<br />
<br />
飯沼への駅の設置は明知線時代から周辺地域の人たちの要望であった。十分な検証を以てすれば飯沼の坂でも特認を受けられたかもしれないが、しかし国鉄のお役所体質のため、当時は全国的に見ても特認で作った急勾配駅はなかったのである。言い換えれば飯沼駅は第三セクター化されたからこそ作る事が出来た駅とも言える。<br />
<br />
<gallery><br />
File:飯沼駅02.jpg|09/02/21 柵に枕木が利用されている。<br />
File:飯沼駅03.jpg|09/02/21 運転情報の掲示機が設置されている。大雪や大雨の日は助かる。<br />
File:飯沼駅04.jpg|09/02/21 待合室の土台と比較して33/1000の勾配を示している。<br />
</gallery><br />
<br />
明知鉄道の列車の間隔はおよそ 1 時間。前述のように観光目的で作られた駅ではないため周囲には売店すら存在しておらず、[[県道407号]]の坂に喫茶店[[ゆうご]]と自販機があるだけである。<br />
<br />
2014年の映画 [http://www.woodjob.jp/ 『WOOD JOB!(ウッジョブ)〜神去なあなあ日常〜] に登場する駅として明知鉄道とともに撮影が行われた。<br />
<br />
== 周辺の観光 ==<br />
* [[神明神社 (飯沼)]]の大杉 {{note|(市指定天然記念物)}} や[[宮ノ根]]の農村風景。飯沼川沿いに 約500m ほど。<br />
<br />
== 参照 ==<br />
* [[明知鉄道]]<br />
* [[阿木駅]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.aketetsu.co.jp/ Akechi Railway Co.ltd - 明知鉄道株式会社]<br />
<br />
[[Category:一分団|いいぬまえき]]<br />
[[Category:交通設備|いいぬまえき]]<br />
[[Category:映画|えいか]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E8%A1%80%E6%B4%97%E7%A5%9E%E7%A4%BE
血洗神社
2014-05-21T13:44:42Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>{{infobox<br />
|タイトル=神社仏閣<br />
|画像=血洗神社01.jpg<br />
|名称=血洗神社<br />
|住所=岐阜県中津川市阿木字血洗6872-1<br />
|位置=<map name="血洗神社" lat="35.42594" lon="137.5035" label="short"/><br />
|標高=835m<br />
|祭神={{ruby|[[w:天照大神|天照大神]]|アマテラスオオミカミ}}<br/>{{ruby|[[w:大山祇神|大山祇神]]|オオヤマツミノカミ}} ([[龍泉寺跡|龍泉寺]]山祇神社より遷座)<br />
}}<br />
{{ruby|'''血洗神社'''|ちあらいじんじゃ}}は[[国道363号]]で[[広岡]]から[[川上]]に向かうに途中に位置する神社。日の神が子を産んだ時にその産穢を{{ruby|<strong>血洗池</strong>|ちあらいいけ}}で洗い浄めたという伝説が名の由来となっている。<br />
<br />
血洗神社は美濃国神名帳 {{note|(平安時代)}} に記されている[[阿気明神]]とも言われており地元では{{ruby|血洗様|ちあらいさま}}の名で呼ばれている。夏になると隣接している[[名古屋市キャンプ場|キャンプ場]]や[[フォーティーンヒルズCC|ゴルフ場]]が賑わいを見せる。<br />
<br />
このページでは血洗神社と関連の深い血洗池も併せて説明する。<br />
<br />
== 血洗池跡 ==<br />
'''血洗池'''<map name="血洗池跡" lat="35.42397" lon="137.501847"/>は血洗神社から国道を西に 200m ほど下った場所に存在した池。現在の血洗池跡はほぼ完全に埋没しており、流入する小さな沢と湿地のみが池の痕跡を残している (江戸時代頃の古文書などにも載っているが、大正生まれの人によれば昭和の初め頃にはかなり小さくなっていたと聞いている)。血洗神社は元々この血洗池の湖畔に祀られた神社であったが、土砂の流入による池の変形や土砂崩れによって現在の位置に遷座したと伝えられる。<br />
<br />
血洗という名は{{ruby|[[w:天照大神|天照大神]]|アマテラスオオミカミ}}を出産した{{ruby|[[w:イザナミ|伊邪那美命]]|イザナミノミコト}}が産の血をこの池で清めたという伝説に由来している。またこの時に{{ruby|[[w:胞衣壺|胞衣]]|えな}} {{note|(胎盤)}} を納めた山が胞衣岳 (恵那山) と呼ばれるようになったという[[天照大神の胞衣伝説]]を示す遺跡の一つである。<br />
<br />
現在の血洗池跡は {{年号|1986}} の国道363号の拡張工事で整備されたものである。この時に血洗池の南にあった腰掛け岩を現在の位置に移動している。腰掛け岩の側面に現れている×状の文様は古代のペトログラフ (岩刻文字) とも言われている。<br />
<br />
血洗池から国道を挟んだ向かいに平らに造成された場所があり、ここにかつて湯屋があったと言われている。<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
{| style="font-size:0.9em;line-height:115%;padding:0px;"<br />
|-<br />
| {{年号|1738}} || 美濃明細記に血洗社と胞衣伝説の記。<br />
|-<br />
| {{年号|1916}} || 12月 本堂・境内改築。御大典記念碑。<br />
|-<br />
| {{年号|1934}} || [[龍泉寺]]の山祇神社から{{ruby|大山祇神|オオヤマツミノカミ}}を遷座。 <br />
|-<br />
| {{年号|1986}} || 国道整備に伴い本殿遷座、履舎造営、血洗池跡の整備。<br />
|}<br />
<br />
== 風景 ==<br />
<gallery><br />
File:血洗神社 境内01.jpg|2009/12 血洗神社境内。<br />
File:血洗神社 境内02.jpg|2009/12 血洗神社境内。<br />
File:血洗神社 境内03.jpg|2009/12 階段。<br />
File:血洗神社 境内04.jpg|2009/12 拝殿。<br />
File:血洗神社 境内05.jpg|2009/12 拝殿の中。<br />
File:血洗神社01.jpg|<map title="血洗神社" lat="35.42594" lon="137.5035"/>09/02/21 血洗神社。シンプルな神明鳥居は天照大神を祀っているため。<br />
File:血洗神社 村社石柱01.jpg|<map tilte="血洗神社" lat="35.42594" lon="137.5035"/>09/02/21 血洗神社。村社血洗神社の石柱。<br />
File:血洗神社 拝殿01.jpg|<map title="血洗神社" lat="35.42594" lon="137.5035"/>09/02/21 血洗神社拝殿と本殿。<br />
</gallery><br />
<gallery><br />
File:血洗池 跡地04.jpg|2009/12 血洗池。<br />
File:血洗池 跡地05.jpg|2009/12 血洗池。<br />
File:血洗池 跡地06.jpg|2009/12 血洗池。<br />
File:血洗池 跡地01.jpg|<map title="血洗池" lon="137.502014" lat="35.423913"/>09/02/21 血洗池跡。山からの小さな沢が流れ込み湿地のようになっている。<br />
File:血洗池 跡地02.jpg|<map title="血洗池" lon="137.502014" lat="35.423913"/>09/02/21 血洗池跡。腰掛け岩は跡地の整備で写真に移動している。元の場所は不明。<br />
File:血洗池 跡地03.jpg|<map title="血洗池" lon="137.502014" lat="35.423913"/>09/02/21 血洗池跡。腰掛け岩の文様はペトログラフを成していると言われている。<br />
File:Chiaraiike Yuyaato.JPG|<map title="血洗池 湯屋跡" lat="35.4238016667" lon="137.5015983333"/>13/08/12 血洗池から国道を挟んで向かいの平坦な場所が湯屋跡。<br />
</gallery><br />
<br />
== 血洗池の由緒書き ==<br />
血洗池に建てられている由緒書きには以下のように記されている。<br />
<br />
<hibun photo="09/02/21=血洗池 由緒書き01.jpg"><br />
<div>'''安岐明神御由緒と旧跡血洗池、腰掛岩の傅承'''</div><br />
<div><br />
神代の或る御神 (伊装册命) 御子 (天照大神) を産み給ひその御胞衣 (胎児を包んでいる膜と胎盤) を洗いしに池の水赤くにぞなりけり。血洗の池と呼名され、{{ruby|胞衣|えな}}は恵那嶽に納む。胞山の名これより起る。我国に漢字移入以前の神代文字<br />
{{ruby|[[File:血洗池 由緒書きホツマ.png|37x12px|ホツマ]]|ホツマ}} ({{ruby|秀眞伝|ホツマツタエ}}) の記録に判然として残る。又日本名勝地誌、新撰美濃誌にも明らかなり。産終わりて母神、岩に腰掛け、御心地爽にして、安らかにぞなり給い、今よりこの処を安気野の里と名付けよと宣り給う。和名抄に恵那六郷の内安岐郷はこの地に起因す。後安気から安岐となり明治以降阿木となる。住時は深さ五米広さ一ヘクタールの大池にして、その周囲は古木うっそうと茂り幽邊の霊池たりしが、宝永年間の大雨など度重なる水禍により土砂混入し、昭和初期には一坪足らず小池となり何時しか埋没してその姿無し。池の近くに安産を深謝して安気明神を祀る。美濃国明神帳に恵那郡七社の内従四位上安気明神とあるは血洗神社是なり。今天照大神、大山祇神を併せ祀る。安産、育児、山林守護の神として霊験あらたかなること普く世人の尊崇する由縁なり。壬申の乱 (672) の折 {{ruby|大海人皇子|おゝあまのおうじ}} (天武天皇) は伊勢の大廟を拝し、美濃地に入りて当社を遙拝して戦勝を祈願し給ふと云う。今度改修されたる国道三六三号線は古くより東山道と三河路を結ぶ重要道路にして俗に中馬街道とも呼ばれ明治中頃までは人馬かろうじて通る山路であり亦式内恵那神社 (権現様) 詣での参道でもあった。国道改修により社地の一部が道路敷地となりその代償を以て血洗神社本殿を奥深く遷座し奉り、履舎を造営、腰掛岩の移築、血洗池の復原を育行し天皇在位六十年記念事業として之を建つ。<br />
<div style="text-align:right;">昭和六十一年五月三日 血洗神社氏子一同</div><br />
</hibun><br />
<br />
以下はこの由緒書きを現代風に書き直したものである。<br />
<br />
<blockquote class="translated"><br />
昔々の神の時代、{{ruby|伊邪那美命|イザナミノミコト}}が {{ruby|天照大神|アマテラスオオミカミ}}を出産した折に、胞衣 {{note|(胎盤やへその緒など)}} の血を池で洗い流して山に納めた。伊邪那美命はこの腰掛け岩に腰をかけホッと一息、この地を安気野と里と名付けるよう命じた。阿木という名はここから来ている。また血を洗った池は後に血洗池と、 {{ruby|胞衣|エナ}}を納めた山は恵那山 (昔は胞山などと書いた)<br />
と呼ばれるようになった。<br />
</blockquote><br />
<br />
神話の時代の出来事と、阿木、恵那、血洗の名前の由来について書かれている。ここで恵那山の由来の根拠として挙げているホツマツタヱ、日本名勝地誌 {{note|(1896/明治29年)}}、新撰美濃志 {{note|(1931年/昭和6年)}} には実際に恵那の由来が天照大神の胞衣であると記されている。<br />
<br />
<blockquote class="translated"><br />
当時の血洗池はうっそうとした森の中にあり、深さ 5m、広さ 1 ヘクタール {{note|(10,000㎡)}} ほどの大きな池だったが、山からの土砂の流入によって昭和の時代に埋没してしまった。この血洗池の近くには安産を祈願して現在の血洗神社である安気明神を祀りっている。美濃国明神帳に恵那郡七社の内従四位上安気明神とあるは血洗神社の事である。壬申の乱 ({{年号|627}}) には美濃の地を訪れた大海人皇子 (天武天皇) も訪れて戦勝を祈願したと云われている。<br />
</blockquote><br />
<br />
[[w:濃飛両国通史|濃飛両国通史]] {{note|(1923年/大正12年)}} では帳内社[[阿気明神|安気明神]]が阿木村にあったと推定しているが、その安気明神が血洗神社の事であるとした根拠はこれだけでは分からない。<br />
<br />
[[w:壬申の乱|壬申の乱]]で[[w:天武天皇|大海人皇子]]が押さえたのは同じ美濃でも滋賀県の県境、不破の道 (関ヶ原)。阿木から見ると美濃の正反対に位置する。記紀によれば主に東山道・東海道から美濃の兵を集め、遠くは長野からも来たと言われている。東山道は大井-坂下から[[w:神坂峠|神坂峠]] (恵那山トンネルの真上) を越えるルートである。もし大海人皇子本人が徴兵に回ったのであれば[[安岐郷]]の近くを通った事になるが、実際に東山道を駆け抜けたのは伝令使のような人たちであろう。<br />
<br />
壬申の乱においては、不破関の徴兵令から援兵到着までの期間が短いことから、美濃地方の多くの地域に大海人皇子の天領や屯倉のようなものが存在していたと考えられている<ref><strong>岐阜の歴史</strong>, <i>松田之利 他</i>, 株式会社 山川出版, 2000, ISBN 4-634-32210-2</ref>。このことは壬申の乱から 5 年後の {{年号|677}} に恵那郡から天武天皇 {{note|(大海人皇子)}} へ新嘗祭に使う米が献上されている事からも推測できる ([[飛鳥池の木簡]])。また阿木地内にも宮田や両伝寺 (領天神) などの天領を示唆する地名があり、それぞれに古い[[天神神社 (宮田)|天神神社]]、[[天神神社 (両伝寺)|天神神社]]があることから、阿木にも天皇家領地があって壬申の乱の伝令使が来ていたかもしれない。<br />
<br />
<blockquote class="translated"><br />
国道363号は古くから東山道と三河路をつなぐ重要な道路で中馬街道と呼ばれていた。明治中頃までは馬がやっと通れる程度の道であり、また恵那神社への参道でもあった。国道の拡張工事で血洗神社の敷地を提供したお金で神社の改築と血洗池跡の碑石を建て、天皇在位六十年記念事業とする。<br />
</blockquote><br />
<br />
中馬街道としての国道363号は岩村か、せいぜい阿木小学校前の交差点までかと思われる。血洗神社の前を通って中津川に出る道は中馬街道から見ればかなりの裏ルート的な扱いだったのではないだろうか。<br />
<br />
血洗神社前を通る国道363号は[[龍泉寺古道]]であり、[[龍泉寺]]や[[恵那神社]]、[[恵那山]]詣の参道でもあった。日本地名大辞典<ref><strong>角川日本地名大辞典 21 岐阜県</strong>, <i>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三</i>, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040014906</ref>には龍泉寺の馬頭観音堂に馬で参拝したと記述されていることから、江戸時代初期の頃には馬の通れる程の道があったと推測できる。<br />
<br />
<references/><br />
<br />
== 御大典記念碑 ==<br />
血洗神社境内、鳥居左側の石碑には[[w:大正天皇|大正天皇]]の[[w:即位の礼|御大典]] {{note|(1915年11月10日)}} を記念して血洗神社の改築を行った碑が建てられている。{{年号|1916}} 12月の日付と寄付者の芳名が刻まれている。<br />
<br />
<hibun photo="09/02/21=血洗神社 御大典記念碑01.jpg,血洗神社 御大典記念碑02.jpg"><br />
<div>'''御大典記念'''</div><br />
<div><br />
本堂及境内改築寄附芳名<br/><br />
<span class="smaller"><br />
一金五円 鷹見弥市<br />
一金四円 鷹見弥吉 鷹見?一<br />
一金三円 西尾?美 本多?酒 増尾仙治<br />
一金二円五十銭 鷹見?? 安藤巳之助 森兵蔵<br />
一金二円 ???吉 血洗??場 鷹見?蔵 鷹見金三郎 大井久? 大森兼吉 後藤賢治 安藤長次郎 足立金治 佐々木惣兵ヱ<br />
一金一円七十銭 佐々木?治<br />
一金一円?十銭 〜 田並典? 鷹見?次郎 鷹見健治 梅村?? 丸山?治 丸山?? 安藤?? 〜<br />
一金一円二十銭 石川菊蔵 <br />
一金〜<br />
</span><br />
<div class="right">大正五年十二月</div><br />
</hibun><br />
<br />
== 文献 ==<br />
<br />
=== 美濃明細記 ===<br />
{{年号|1738}} に編纂された[[美濃明細記]] 第三巻 ''神社'' の最後のページに'''血洗社'''として記述されている。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div>[[File:血洗神社 美濃明細記01.png]]</div><br />
<div><br />
恵奈郡阿木山麓大野平<br/><br />
一 血洗社 上古神ノ胞洗之池云々 恵奈之名起于此歟<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
太古に神の胞衣を洗ったと言われる池があり恵那の名はこれに由来か、と書かれている。つまり江戸時代中期には血洗池や胞衣の伝承が存在したことになる。<br />
<br />
現在の血洗神社付近までを大野と言うかは微妙なところ。もしかしたら昔は大野の何処かに血洗神社の前宮があったのかも知れない (そんな話は聞かないが)。あるいは、昔の大野が飯沼村の枝村だったことから飯沼の神社と書きたかったのかも知れない。<br />
<br />
=== 巖邑府誌 ===<br />
{{年号|1751}} に編纂された[[巖邑府誌]]の[[巖邑府誌/飯妻|飯妻]]に大神廟についての記述がある {{note|(神の中でも大神とは天照大神の意)}}。ただしここに書かれている大神廟とは飯沼の[[神明神社]]の事かもしれない。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
村内の鬱蒼とした森の中に大神廟がある。言い伝えによれば大昔に日の神が恵那岳に降り立ち、胞衣を納めたことから胞山という名が付いたと云われている ({{ruby|胞衣|えな}}を俗に恵那とした)。お産の穢れを清めた事からその名の着いた血洗池が竜泉山にある。またへその緒を切った鎌が[[三森神社]]に納められている。大神廟はこれらの遺跡である。<br />
</div><br />
<div><br />
この大神廟は占いをして伊勢の{{ruby|度会|わたらい}}郡に遷ったという。この事から伊勢廟の御用材には恵那岳の木材を献上して今に至るとの事である。もちろん根拠が無く信ずるに足らないが、国史では垂仁天皇 25 年 {{note|(紀元前5年)}} に{{ruby|[[w:倭姫命|倭姫命]]|やまとひめのみこと}}が大神鎮座の地を求めて近江 {{note|(滋賀県)}} の東から美濃を廻って伊勢に至ったと云われている。つまり、かつて倭姫命が占いをして現在の地に決めるまでの行宮 {{note|(元伊勢)}} と言われるようなことがあったのかもしれない。そうして里人がたくさんの妄説を付けたのである。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
[[天照大神の胞衣伝説|胞衣伝説]]の現実性は薄いにしても伊勢神宮の[[w:元伊勢|元伊勢]]があったかもしれないと推測している。<br />
<br />
[[w:日本書紀|日本書紀]]には[[w:伊勢神宮|伊勢神宮]]が現在の場所に定まるまでに近畿周辺地域を巡幸したと記されている。より詳しい{{ruby|倭姫命世記|やまとひめのみことせいき}}によれば紀伊、吉備、大和、伊賀、近江、美濃、伊勢と巡幸し、またそれぞれの地で仮宮の置かれた場所も記されているが、美濃でも最東端の恵那地方まで来たとの記録はない。ただし倭姫命世記自体が鎌倉時代 {{note|(1185年頃-1333年)}} に書かれた物語であり、編算内容に当時の公家や武家勢力の影響を色濃く受けていると考えられる。<br />
<br />
=== 大日本地名辞書 ===<br />
{{年号|1902}} に編算された[[大日本地名辞書]]の''安岐郷''の項にも胞衣と血洗池に関して記述されている。この項の [補] に「名細記」と記されていることから、新撰志とは前述の美濃明細記であろう。血洗池を古跡と記していることから明治の時代には既にかなり埋没が進んでいる事が窺える。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
新撰志伝、血洗社は阿木山の麓、大野平にあり、神代のむかし、ある御神こゝにて御子を産給ひ、胞衣を洗ひ給ひし跡也といひ云え、血洗池という古跡ものこり、また恵奈山の名もそれより興りしよし、里老いへり<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
=== 惠那神社誌 ===<br />
{{年号|1912}} の[[惠那神社誌]]では[[阿氣明神]]は血洗神社であると推測している。また血洗神社が現在の場所に移るまでの経緯の言い伝えが記されている。<br />
<br />
<blockquote class="original"><br />
<div><br />
血洗の池は、惠那山の西南麓なる、阿木村廣岡にあり、昔時は深さ十數尺、大さ三百餘坪の池にして、其周圍近傍には古木蓁々と繁茂し、幽邃の氣人をして戰慄せしむる程の靈池たりしが、寶永元申年霖雨の際、山岳崩壊して、土砂竄入したるため、今は全部埋まれたり、此の池より流れ出る水赤かりきと、而して池の北方二三町の處に血洗神社あり、天照大神を奉祀す、小祠なれども村社に列せらる、又此の池の南に腰掛石、東の方に屏風岩あり、又産髪を納めし石塚あり、清淨ヶ丘、鶴ヶ峰、甘露ヶ峰、祠ヶ澤、等の地名皆是れ等に起因すと伝ふ、和名妙に安岐郷と有るは、此所にして廣岡は其本土なり、美濃國神名帳に從四位上安氣明神とあるは、此の血洗神社たること、明細記、地理志料等に伝へるが如し、此の社本來は、血洗池の東南、森林中にありし大社なりしが、元龜年間に飯沼村との間に山論起りし時、安氣明神の森を燒拂ひ、降て承應明暦の頃、又々境界論を惹起し、互随て神社をも今の處に移し、僅に小祠を建立して、奉祀を繼續せるものなりと伝ふ、(此の一節は、編者十四歳の頃、阿木村廣岡、今井豊次郎氏の祖父久助翁の舊記及口碑等書冩せるものを、拔萃せしものなり)<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<blockquote class="translated"><br />
<p><br />
血洗池は恵那山西南の麓の阿木村広岡にある。昔は深さ十数尺 {{note|(3〜6m)}}、大きさ三百餘坪 {{note|(約1,000㎡)}} の池で、その周囲は古木が鬱蒼としており霊能に長けた人を持ってしても戦慄する程の霊池であったが、{{年号|1704}} の長雨で山崩れが起きて土砂が流入したため現在は全て埋まっている。この池から流れ出る水は赤かったと言われている。<br />
</p><br />
<p><br />
池を北に二三町 {{note|(約300m)}} 行ったところに血洗神社があり天照大神を奉祀している。小祠であるが村社に列せられている。またこの池の南に腰掛岩、東に[[屏風石]]があり、また産髪を納めた[[髪塚|石塚]]があり、清浄ヶ丘、鶴ヶ峰、甘露ヶ峯、祠ヶ沢などの地名はこれに起因すると言われている。和名抄に載っている安岐郷とはこの場所であり広岡はその中心である。美濃国神名帳の從四位安氣明神とはこの血洗神社を指していると明細記、地理志料などに伝えられている通りである。<br />
</p><br />
<p><br />
この社は本来は血洗池東南の森の中にあった大社であるが、元亀年間 {{note|(1570-1573/安土桃山)}} に飯沼村と山境紛争が起き安氣明神の森を焼き払ってしまった。さらに承応明暦 {{note|(1652-1657/江戸初期)}} の頃に再び山境紛争が起き神社を現在の場所に移し、僅かに小祠を建立して奉祀を継続したものであると伝えられる (この一節は編者が14歳の頃に阿木村広岡の今井豊次郎氏の祖父である久助翁の旧記および口碑などの書き写しから抜粋したものである)。<br />
</p><br />
</blockquote><br />
<br />
元亀年間には[[岩村城の戦い]]があり、武田勝頼の軍勢が遠山子城を攻めて阿木周辺の神社仏閣を焼き払った時代であることから、山境紛争ではなく兵火で焼かれたのが正しいのかも知れない (血洗神社は[[龍泉寺]]と[[長楽寺]]を結ぶ[[龍泉寺道]]にある)。<br />
<br />
<references/><br />
<br />
== 伝承と四方山話 ==<br />
* 血洗神社前は恵南から中津川方面へ向かう近道である。阿木から中山道中津川宿へ[[w:助郷|助郷]]に向かう道としても使われたと思われる。<br />
* 昭和50年代頃までは血洗神社前の小川は「清水」と呼ばれ、[[阿木小学校]]の根ノ上遠足で水汲み場としていた。[[龍泉寺道]]の古文書における息継清水とはこの小川と思われる。ただし、現在は上流にキャンプ場が出来たことにから飲料には適さないだろう。<br />
* 千旦林城や龍泉寺を攻め落とした武田の軍勢が通ったのであれば、その血を洗ったのが本当の語源かもしれない。他にも穢洗、稚児洗などの翻読が考えられる。<br />
* 血洗池の東側、南側を調べると起伏があり社が建てられそうな場所はない。地形的にはかつて湯屋があった場所が比定地として挙げられる。<br />
* 湯屋はかつて修験道がブームだった時代に恵南や三河地方から恵那神社、恵那山へ参拝するための身を清める場所だったのかもしれない。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[阿気明神]]<br />
* [[恵那神社]]<br />
* [[天照大神の胞衣伝説]]<br />
* [[屏風石]]<br />
* [[髪塚]]<br />
* [[龍泉寺道]]<br />
<br />
[[Category:二分団|ちあらいしんしや]]<br />
[[Category:神社仏閣|ちあらいしんしや]]<br />
[[Category:国道363号|ちあらいしんしや]]<br />
[[Category:龍泉寺古道|りゆうせんしことう]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:Torao
利用者:Torao
2014-05-12T02:03:48Z
<p>Torao:/* 阿木 */</p>
<hr />
<div>takami torao <koiroha@gmail.com><br />
<br />
1974年、阿木生まれ。安岐郷誌のシステム管理をやっております。<br />
<br />
* [http://www.facebook.com/kuromoyo プロフィール]<br />
* [http://www.panoramio.com/kml/?user=3852234 Panoramio] (Google Earch が必要です)<br />
* [[Special:Prefixindex/User:Torao/|サブページ一覧]]<br />
<br />
メッセージは「トーク」へおねがいします。<br />
<br />
== 調査資料 ==<br />
* [[User:Torao/調査/2009.06|2009年6月14日-17日]]<br />
* [[User:Torao/調査/2009.08|2009年8月14日-17日]]<br />
<br />
== 調べること ==<br />
* 刀神様の祝詞、安岐明神について確認 → 杉浦さん<br />
* 昔五平餅を焼いていた、七輪を四角く横に長くしたような奴に名前があったような気がする。<br />
* 小沢山の上にある謎の集落は何? 牛花山は別荘分譲地だった。<br />
* 山ノ田の浄光院とは? → 皮地さん<br />
* 図書館で「岩村藩歴代藩主略譜 霧ヶ城実録・丹羽氏聞書他」を見る。久須美村戸田甚左衛門が阿木城主として紹介されているとか。<br />
* さざなみ親水公園下の砂防堤って魚道は付いてるんだっけ?<br />
<br />
=== 行くとこリスト ===<br />
==== 阿木 ====<br />
* '''赤滝''' ─ [http://www.mapion.co.jp/m/35.3872861111111_137.548145277778_7/ ここらへん]らしい。<br />
* '''[[ふるさと林道三森山線]]''' ─ 両伝寺の上の道を悪路走行可能な車でたどる。そこから[[三森山]]に登れるか探索。無理なら[[岩村ダム]]から[[水晶山]]、[[三森山]]を周回してくる[http://www.geocities.jp/kanikarano/11yamaaruki/243suisyouyama.htm]<br />
* [[さざなみ親水公園]]下の[[天神淵]]と、砂防堤に魚道があるかを調べる。<br />
* [[八屋砥]]の古墳<map name="八屋砥古墳" lat="35.395478" lon="137.452435"/>。<br />
* 久須田の[[馬橋]]<map name="馬橋" lat="35.395765" lon="137.458988"/>。馬橋の名はどこソースだっけ?<br />
* Google Map では出ないけど馬籠橋の東南側に別の川がある。あっちが木戸ヶ入川?<br />
<br />
==== 岩村町 ====<br />
* 大将陣<br />
* [[岩村神社]]<map name="岩村神社" lat="35.364825" lon="137.439322"/>。<br />
* 妙法寺<map name="妙法寺" lat="35.368108" lon="137.441829"/> (山門は不明門と伝わる)。大将陣下。<br />
* 徳祥寺<map name="徳祥寺" lat="35.379288" lon="137.407916"/> (山門は土岐門と伝わる)。飯羽間。<br />
<br />
==== 中津川 ====<br />
* '''[[督ノ城]]'''<map lat="35.469905" lon="137.548528" name="督ノ城"/> ─ 恵下松田から前山登山道を登る。蛙のような石のところ<br />
* '''[[諏訪神社]]'''<map lat="35.469837" lon="137.499333" name="坂本諏訪神社"/><br />
* '''[[黒血ヶ洞]]'''<map lat="35.467407" lon="137.506396" name="黒血ヶ洞"/> ─ この川の名前を調べる。<br />
<br />
=== 所在地不明 ===<br />
* 飯沼の狐塚古墳。<br />
* 飯沼の愛宕神社。<br />
* 長楽寺の経塚。<br />
* 黒田の三十三観音。<br />
* 野田の砦跡。<br />
* 東野小野川の石仏、石仏坂。飯沼川の字石仏 (大日本地名大系)、東野地区の外れの石仏坂 ([http://www.ja-higashimino.or.jp/hiroba/story/e/tengutou.html 天狗党と東野村]) などと見られる。<br />
* [[阿木小唄]]に出て来る三本松。<br />
<br />
==リンク==<br />
* [[:Template:メインページ/カテゴリ一覧|カテゴリメニューの編集]] (管理用)<br />
* [[:Template:メインページお知らせ/本文|お知らせ]] (管理用)<br />
* [http://www.isekiwalker.com/ 遺跡ウォーカー]<br />
<br />
== システム環境 ==<br />
{| class="wikitable"<br />
! Provider<br />
| Sakura Internet VPS Plan<br />
|-<br />
! Hardware<br />
| Intel® Core™2 Duo T7700 2.40GHz, 512MB ECC Memory, 20GB HD (RAID1)<br />
|-<br />
! Software<br />
| CentOS release 5.5 (Final), Apache 2.2, PHP 5.3, PostgreSQL 9, [[Special:Version|MediaWiki]]<br />
|-<br />
! Network<br />
| 100Mbps<br />
|}<br />
<br />
=== MediaWiki バージョンアップ ===<br />
MediaWiki バージョンアップ時に行わなければならない作業手順。<br />
* [http://www.mediawiki.org/wiki/Manual:Upgrading_MediaWiki Upgrading MediaWiki] の手順通りにアップグレードを実行。<br />
* images 以下のディレクトリが Apache の実行権限で書き込み可能である事を確認。<br />
* languages/messages/MessagesJa.php の My Extension 部分をコピー。<br />
* <s>skins/common/shared.css ファイル末尾のカスタマイズ部分をコピー。</s> (共通スタイルは [[MediaWiki:Common.css]], [[MediaWiki:Vector.css]], [[MediaWiki:Handheld.css]] に記述しているので修正は不要)<br />
* 各スキンの PHP ファイルに対して:<br />
:# skins/Vector.php の Google Analystics, AdSense の HTML を挿入。<br />
:# 各スタイルシート末尾のカスタマイズ部分をコピー。<br />
* includes/Skin.php のスタイルシート指定でデフォルトスキンの CSS よりハンドヘルドの CSS が優先されるよう設定。<br />
$out->addStyle( self::makeNSUrl( $this->getSkinName() . '.css', $query, NS_MEDIAWIKI ), <u>'screen'</u> );<br />
if( $wgHandheldStyle ) {<br />
$out->addStyle( $wgHandheldStyle, 'handheld' );<br />
$out->addStyle( self::makeNSUrl( 'Handheld.css', $query, NS_MEDIAWIKI ), 'handheld' );<br />
}<br />
<br />
1.16 → 1.19.0 <br />
* ブラウザからの設定後必要なファイルをコピー<br />
<br />
torao@www9361ue$ cp ../agi/LocalSettings.php .<br />
torao@www9361ue$ cp ../agi/extensions/* extensions/<br />
torao@www9361ue$ cp -a ../agi/images/* images/</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:Torao
利用者:Torao
2014-05-12T02:01:05Z
<p>Torao:/* 阿木 */</p>
<hr />
<div>takami torao <koiroha@gmail.com><br />
<br />
1974年、阿木生まれ。安岐郷誌のシステム管理をやっております。<br />
<br />
* [http://www.facebook.com/kuromoyo プロフィール]<br />
* [http://www.panoramio.com/kml/?user=3852234 Panoramio] (Google Earch が必要です)<br />
* [[Special:Prefixindex/User:Torao/|サブページ一覧]]<br />
<br />
メッセージは「トーク」へおねがいします。<br />
<br />
== 調査資料 ==<br />
* [[User:Torao/調査/2009.06|2009年6月14日-17日]]<br />
* [[User:Torao/調査/2009.08|2009年8月14日-17日]]<br />
<br />
== 調べること ==<br />
* 刀神様の祝詞、安岐明神について確認 → 杉浦さん<br />
* 昔五平餅を焼いていた、七輪を四角く横に長くしたような奴に名前があったような気がする。<br />
* 小沢山の上にある謎の集落は何? 牛花山は別荘分譲地だった。<br />
* 山ノ田の浄光院とは? → 皮地さん<br />
* 図書館で「岩村藩歴代藩主略譜 霧ヶ城実録・丹羽氏聞書他」を見る。久須美村戸田甚左衛門が阿木城主として紹介されているとか。<br />
* さざなみ親水公園下の砂防堤って魚道は付いてるんだっけ?<br />
<br />
=== 行くとこリスト ===<br />
==== 阿木 ====<br />
* '''赤滝''' ─ [http://www.mapion.co.jp/m/35.3872861111111_137.548145277778_7/ ここらへん]らしい。<br />
* '''[[ふるさと林道三森山線]]''' ─ 両伝寺の上の道を悪路走行可能な車でたどる。そこから[[三森山]]に登れるか探索。無理なら[[岩村ダム]]から[[水晶山]]、[[三森山]]を周回してくる[http://www.geocities.jp/kanikarano/11yamaaruki/243suisyouyama.htm]<br />
* [[さざなみ親水公園]]下の[[天神淵]]と、砂防堤に魚道があるかを調べる。<br />
* [[八屋砥]]の古墳<map name="八屋砥古墳" lat="35.395478" lon="137.452435"/>。<br />
* 久須田の[[馬橋]]<map name="馬橋" lat="35.395765" lon="137.458988"/>。馬橋の名はどこソースだっけ?<br />
* 馬籠橋の先に別の川がある。あっちが木戸ヶ入川?<br />
<br />
==== 岩村町 ====<br />
* 大将陣<br />
* [[岩村神社]]<map name="岩村神社" lat="35.364825" lon="137.439322"/>。<br />
* 妙法寺<map name="妙法寺" lat="35.368108" lon="137.441829"/> (山門は不明門と伝わる)。大将陣下。<br />
* 徳祥寺<map name="徳祥寺" lat="35.379288" lon="137.407916"/> (山門は土岐門と伝わる)。飯羽間。<br />
<br />
==== 中津川 ====<br />
* '''[[督ノ城]]'''<map lat="35.469905" lon="137.548528" name="督ノ城"/> ─ 恵下松田から前山登山道を登る。蛙のような石のところ<br />
* '''[[諏訪神社]]'''<map lat="35.469837" lon="137.499333" name="坂本諏訪神社"/><br />
* '''[[黒血ヶ洞]]'''<map lat="35.467407" lon="137.506396" name="黒血ヶ洞"/> ─ この川の名前を調べる。<br />
<br />
=== 所在地不明 ===<br />
* 飯沼の狐塚古墳。<br />
* 飯沼の愛宕神社。<br />
* 長楽寺の経塚。<br />
* 黒田の三十三観音。<br />
* 野田の砦跡。<br />
* 東野小野川の石仏、石仏坂。飯沼川の字石仏 (大日本地名大系)、東野地区の外れの石仏坂 ([http://www.ja-higashimino.or.jp/hiroba/story/e/tengutou.html 天狗党と東野村]) などと見られる。<br />
* [[阿木小唄]]に出て来る三本松。<br />
<br />
==リンク==<br />
* [[:Template:メインページ/カテゴリ一覧|カテゴリメニューの編集]] (管理用)<br />
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== システム環境 ==<br />
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|}<br />
<br />
=== MediaWiki バージョンアップ ===<br />
MediaWiki バージョンアップ時に行わなければならない作業手順。<br />
* [http://www.mediawiki.org/wiki/Manual:Upgrading_MediaWiki Upgrading MediaWiki] の手順通りにアップグレードを実行。<br />
* images 以下のディレクトリが Apache の実行権限で書き込み可能である事を確認。<br />
* languages/messages/MessagesJa.php の My Extension 部分をコピー。<br />
* <s>skins/common/shared.css ファイル末尾のカスタマイズ部分をコピー。</s> (共通スタイルは [[MediaWiki:Common.css]], [[MediaWiki:Vector.css]], [[MediaWiki:Handheld.css]] に記述しているので修正は不要)<br />
* 各スキンの PHP ファイルに対して:<br />
:# skins/Vector.php の Google Analystics, AdSense の HTML を挿入。<br />
:# 各スタイルシート末尾のカスタマイズ部分をコピー。<br />
* includes/Skin.php のスタイルシート指定でデフォルトスキンの CSS よりハンドヘルドの CSS が優先されるよう設定。<br />
$out->addStyle( self::makeNSUrl( $this->getSkinName() . '.css', $query, NS_MEDIAWIKI ), <u>'screen'</u> );<br />
if( $wgHandheldStyle ) {<br />
$out->addStyle( $wgHandheldStyle, 'handheld' );<br />
$out->addStyle( self::makeNSUrl( 'Handheld.css', $query, NS_MEDIAWIKI ), 'handheld' );<br />
}<br />
<br />
1.16 → 1.19.0 <br />
* ブラウザからの設定後必要なファイルをコピー<br />
<br />
torao@www9361ue$ cp ../agi/LocalSettings.php .<br />
torao@www9361ue$ cp ../agi/extensions/* extensions/<br />
torao@www9361ue$ cp -a ../agi/images/* images/</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E5%AE%9F%E5%88%A9%E8%A1%8C%E8%80%85%E3%81%AE%E5%A1%9A
実利行者の塚
2013-09-17T03:08:39Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>{{infobox<br />
|タイトル=行者塚<br />
|画像=jitsukagagoja01.jpg<br />
|名称=実利行者の塚<br />
|住所=岐阜県中津川市阿木北側<br />
|位置=<map name="実利行者の塚" lat="35.410677" lon="137.485583" label="short"/><br />
|祭神=実利霊神<br />
}}<br />
{{ruby|'''実利行者'''|じつかがぎょうじゃ}}'''の塚'''は[[大野八幡神社]]裏手 100m ほどの森の中、[[倶楽部 (北側)|北側の倶楽部]]へ向かう道の脇に祀られている塚。ここは[[大野村]]の舞台があった場所である。横には[[w:役小角|役小角]] (役行者) の石像が建てられている。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
<strong>実利行者</strong> ({{ruby|林実利|はやしじつかが}}、俗名 林喜代八) は {{年号|1843}} に坂下村 {{note|(岐阜県中津川市坂下)}} の高部に生まれ、御嶽行者であった父親について御嶽で修行を積んだ。25歳の時に妻と子供二人を残して奈良大峰山、大台ヶ原、釈迦ヶ岳で修行を行い、役小角の弟子となり{{ruby|[[w:有栖川宮|有栖川宮]]殿下|ありすがわのみやでんか}}から<strong>大峰山二代行者実利師</strong>の号を賜った事で修験者として全国に名を馳せた。<br />
<br />
{{年号|1872}} に明治政府から修験禁止令が出された後も政府の追撃を逃れて活動を続行。{{年号|1884}}、無様は死に方はしたくないという決意の元、即身仏となるべく熊野の那智の滝から飛び降りた。入水し命絶えた後においても座禅を組んだままの見事な御姿だったと言われている。この入水後からしばらくは那智の滝よりも実利行者をお参りに来る人の方が多く押しかけたという。<br />
<br />
政府の目を恐れてか実利行者の塚はあまり存在せず、那智の滝と出生地の坂下、[[恵那山]]落合ルートを開いたと伝わる中津川市落合、そして阿木大野のここくらいしかないといわれている。森の中にひっそり祀られているのも役人の目から隠すためだったのかもしれない。<br />
<br />
<gallery><br />
File:jitsukagagoja01.jpg|09/06/15 実利行者と役行者。<br />
File:jitsukagagoja02.jpg|09/06/15 台座に信者の名前が彫られている。<br />
File:jitsukagagoja03.jpg|09/06/15 明治十七甲申年三月廿八日。旧暦の実利行者入水日。<br />
File:jitsukagagoja04.jpg|09/06/15 杉林の中に祀られている。<br />
</gallery><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[恵那山]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.takenet.or.jp/~ryuuji/saka/furusato/220.html ふるさと坂下 実利霊神]<br />
* [http://park21.wakwak.com/~koiori/ono-gyojyahi.html 実利行者の足跡めぐり]<br />
<br />
[[Category:二分団|しつかかきようしやのつか]]<br />
[[Category:神社仏閣|しつかかきようしやのつか]]<br />
[[Category:人物|しつかかきようしやのつか]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E5%AE%9F%E5%88%A9%E8%A1%8C%E8%80%85%E3%81%AE%E5%A1%9A
実利行者の塚
2013-08-18T13:58:42Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>{{infobox<br />
|タイトル=行者塚<br />
|画像=jitsukagagoja01.jpg<br />
|名称=実利行者の塚<br />
|住所=岐阜県中津川市阿木北側<br />
|位置=<map name="実利行者の塚" lat="35.410677" lon="137.485583" label="short"/><br />
|祭神=実利霊神<br />
}}<br />
{{ruby|'''実利行者'''|じつかがぎょうじゃ}}'''の塚'''は[[大野八幡神社]]裏手 100m ほどの森の中、[[倶楽部 (北側)|北側の倶楽部]]へ向かう道の脇に祀られている塚。ここは[[大野村]]の舞台があった場所である。横には[[w:役小角|役小角]] (役行者) の石像が建てられている。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
<strong>実利行者</strong> ({{ruby|林実利|はやしじつかが}}、俗名 林喜代八) は {{年号|1843}} に坂下村 {{note|(岐阜県中津川市坂下)}} の高部に生まれ、御嶽行者であった父親について御嶽で修行を積んだ。25歳の時に妻と子供二人を残して奈良大峰山、大台ヶ原、釈迦ヶ岳で修行を行い、役小角の弟子となり{{ruby|[[w:有栖川宮|有栖川宮]]殿下|ありすがわのみやでんか}}から<strong>大峰山二代行者実利師</strong>の号を賜った事で修験者として全国に名を馳せた。<br />
<br />
{{年号|1872}} に明治政府から修験禁止令が出された後も政府の追撃を逃れて活動を続行。{{年号|1884}}、無様は死に方はしたくないという決意の元、即身仏となるべく熊野の那智の滝から飛び降りた。入水し命絶えた後においても座禅を組んだままの見事な御姿だったと言われている。この入水後からしばらくは那智の滝よりも実利行者をお参りに来る人の方が多く押しかけたという。<br />
<br />
政府の目を恐れてか実利行者の塚はあまり存在せず、那智の滝と出生地の坂下、[[恵那山]]落合ルートを開いたと伝わる中津川市落合、そして阿木大野のここくらいしかないといわれている。森の中にひっそり祀られているのも役人の目から隠すためだったのかもしれない。<br />
<br />
<gallery><br />
File:jitsukagagoja01.jpg|09/06/15 実利行者と役行者。<br />
File:jitsukagagoja02.jpg|09/06/15 台座に信者の名前が彫られている。<br />
File:jitsukagagoja03.jpg|09/06/15 明治十七甲申年三月廿八日。旧暦の実利行者入水日。<br />
File:jitsukagagoja04.jpg|09/06/15 杉林の中に祀られている。<br />
</gallery><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[恵那山]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.takenet.or.jp/~ryuuji/saka/furusato/220.html ふるさと坂下 実利霊神]<br />
<br />
[[Category:二分団|しつかかきようしやのつか]]<br />
[[Category:神社仏閣|しつかかきようしやのつか]]<br />
[[Category:人物|しつかかきようしやのつか]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E8%88%9E%E5%8F%B0%E8%B7%A1_(%E5%A4%A7%E9%87%8E)
舞台跡 (大野)
2013-08-18T13:57:08Z
<p>Torao:実利行者の塚へのリダイレクト</p>
<hr />
<div>#REDIRECT [[実利行者の塚]]<br />
<br />
[[Category:二分団|ふたいあと おおの]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E8%A1%8C%E8%80%85%E5%A1%9A
行者塚
2013-08-12T17:10:57Z
<p>Torao:/* 風景 */</p>
<hr />
<div>{{ruby|'''行者塚'''|ぎょうじゃづか}}<map title="行者塚" lat="35.4254616667" lon="137.4988500000"/>は[[血洗神社]]から飯沼の新田に出る林道の脇にある[[w:無縫塔|無縫塔]]。鬱蒼とした森の中にあり、周囲は掘られ塚の部分だけ盛られた手の込んだ造成である。この周辺が{{ruby|'''聖坊主'''|ひじりぼうず}}という小字であることから聖坊主と呼ばれた僧侶の墓石と思われる。南無阿弥陀仏、安永9年 {{note|(1780年/江戸中期)}} の記が見える。<br />
<br />
== 風景 ==<br />
<gallery><br />
File:Hijiribozu Gyojazuka 01.JPG|13/08/12 軽トラックで通ることの出来る林道から5mほど離れた場所にある。<br />
File:Hijiribozu Gyojazuka 02.JPG|13/08/12 掘られた中に塚の部分だけ盛られている。<br />
File:Hijiribozu Gyojazuka 03.JPG|13/08/12 無縫塔は僧侶の墓石に多く使われる形。<br />
File:Hijiribozu Gyojazuka 04.JPG|13/08/12 {{年号|1780}} の墓石か。<br />
File:Hijiribozu Gyojazuka 05.JPG|13/08/12 広岡聖坊主の塚。<br />
</gallery><br />
<br />
[[Category:二分団|きようしやつか]]<br />
[[Category:神社仏閣|きようしやつか]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E9%AB%AA%E5%A1%9A
髪塚
2013-08-12T17:09:57Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>[[File:Kamizuka 03.JPG|thumb|髪塚]]<br />
{{ruby|'''髪塚'''|かみづか}}<map name="髪塚" lat="35.4183166667" lon="137.5019416667"/>は[[屏風石]]を東に20mほど登った山の中に存在する石。子宝に恵まれるように髪を供えた、稚児が健やかに育つことを願って髪を供えた、などの謂われがある。[[血洗池]]の伝説に併せてお産の時に髪を納めた石だとも云われている。<br />
<br />
== 写真集 ==<br />
<gallery><br />
File:Kamizuka 01.JPG|<map lat="35.4182466667" lon="137.5023550000"/>13/08/12 ふるさと林道三森線の屏風岩を過ぎ少し上から山へ入る。<br />
File:Kamizuka 02.JPG|<map lat="35.4183250000" lon="137.5019033333"/>13/08/12 髪塚。<br />
File:Kamizuka 04.JPG|<map lat="35.4183200000" lon="137.5020033333"/>13/08/12 髪塚。<br />
</gallery><br />
<br />
== 参照 ==<br />
* [[屏風石]]<br />
* [[血洗神社]]<br />
* [[天照大神の胞衣伝説]]<br />
* [[龍泉寺道]]<br />
<br />
[[Category:二分団|かみつか]]<br />
[[Category:名所|かみつか]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:Torao
利用者:Torao
2013-08-12T17:02:00Z
<p>Torao:/* 所在地不明 */</p>
<hr />
<div>takami torao <koiroha@gmail.com><br />
<br />
1974年、阿木生まれ。安岐郷誌のシステム管理をやっております。<br />
<br />
* [http://www.facebook.com/kuromoyo プロフィール]<br />
* [http://www.panoramio.com/kml/?user=3852234 Panoramio] (Google Earch が必要です)<br />
* [[Special:Prefixindex/User:Torao/|サブページ一覧]]<br />
<br />
メッセージは「トーク」へおねがいします。<br />
<br />
== 調査資料 ==<br />
* [[User:Torao/調査/2009.06|2009年6月14日-17日]]<br />
* [[User:Torao/調査/2009.08|2009年8月14日-17日]]<br />
<br />
== 調べること ==<br />
* 刀神様の祝詞、安岐明神について確認 → 杉浦さん<br />
* 昔五平餅を焼いていた、七輪を四角く横に長くしたような奴に名前があったような気がする。<br />
* 小沢山の上にある謎の集落は何? 牛花山は別荘分譲地だった。<br />
* 山ノ田の浄光院とは? → 皮地さん<br />
* 図書館で「岩村藩歴代藩主略譜 霧ヶ城実録・丹羽氏聞書他」を見る。久須美村戸田甚左衛門が阿木城主として紹介されているとか。<br />
* さざなみ親水公園下の砂防堤って魚道は付いてるんだっけ?<br />
<br />
=== 行くとこリスト ===<br />
==== 阿木 ====<br />
* '''赤滝''' ─ [http://www.mapion.co.jp/m/35.3872861111111_137.548145277778_7/ ここらへん]らしい。<br />
* '''[[ふるさと林道三森山線]]''' ─ 両伝寺の上の道を悪路走行可能な車でたどる。そこから[[三森山]]に登れるか探索。無理なら[[岩村ダム]]から[[水晶山]]、[[三森山]]を周回してくる[http://www.geocities.jp/kanikarano/11yamaaruki/243suisyouyama.htm]<br />
* [[さざなみ親水公園]]下の[[天神淵]]と、砂防堤に魚道があるかを調べる。<br />
* [[八屋砥]]の古墳<map name="八屋砥古墳" lat="35.395478" lon="137.452435"/>。<br />
* 久須田の[[馬橋]]<map name="馬橋" lat="35.395765" lon="137.458988"/>。馬橋の名はどこソースだっけ?<br />
<br />
==== 岩村町 ====<br />
* 大将陣<br />
* [[岩村神社]]<map name="岩村神社" lat="35.364825" lon="137.439322"/>。<br />
* 妙法寺<map name="妙法寺" lat="35.368108" lon="137.441829"/> (山門は不明門と伝わる)。大将陣下。<br />
* 徳祥寺<map name="徳祥寺" lat="35.379288" lon="137.407916"/> (山門は土岐門と伝わる)。飯羽間。<br />
<br />
==== 中津川 ====<br />
* '''[[督ノ城]]'''<map lat="35.469905" lon="137.548528" name="督ノ城"/> ─ 恵下松田から前山登山道を登る。蛙のような石のところ<br />
* '''[[諏訪神社]]'''<map lat="35.469837" lon="137.499333" name="坂本諏訪神社"/><br />
* '''[[黒血ヶ洞]]'''<map lat="35.467407" lon="137.506396" name="黒血ヶ洞"/> ─ この川の名前を調べる。<br />
<br />
=== 所在地不明 ===<br />
* 飯沼の狐塚古墳。<br />
* 飯沼の愛宕神社。<br />
* 長楽寺の経塚。<br />
* 黒田の三十三観音。<br />
* 野田の砦跡。<br />
* 東野小野川の石仏、石仏坂。飯沼川の字石仏 (大日本地名大系)、東野地区の外れの石仏坂 ([http://www.ja-higashimino.or.jp/hiroba/story/e/tengutou.html 天狗党と東野村]) などと見られる。<br />
* [[阿木小唄]]に出て来る三本松。<br />
<br />
==リンク==<br />
* [[:Template:メインページ/カテゴリ一覧|カテゴリメニューの編集]] (管理用)<br />
* [[:Template:メインページお知らせ/本文|お知らせ]] (管理用)<br />
* [http://www.isekiwalker.com/ 遺跡ウォーカー]<br />
<br />
== システム環境 ==<br />
{| class="wikitable"<br />
! Provider<br />
| Sakura Internet VPS Plan<br />
|-<br />
! Hardware<br />
| Intel® Core™2 Duo T7700 2.40GHz, 512MB ECC Memory, 20GB HD (RAID1)<br />
|-<br />
! Software<br />
| CentOS release 5.5 (Final), Apache 2.2, PHP 5.3, PostgreSQL 9, [[Special:Version|MediaWiki]]<br />
|-<br />
! Network<br />
| 100Mbps<br />
|}<br />
<br />
=== MediaWiki バージョンアップ ===<br />
MediaWiki バージョンアップ時に行わなければならない作業手順。<br />
* [http://www.mediawiki.org/wiki/Manual:Upgrading_MediaWiki Upgrading MediaWiki] の手順通りにアップグレードを実行。<br />
* images 以下のディレクトリが Apache の実行権限で書き込み可能である事を確認。<br />
* languages/messages/MessagesJa.php の My Extension 部分をコピー。<br />
* <s>skins/common/shared.css ファイル末尾のカスタマイズ部分をコピー。</s> (共通スタイルは [[MediaWiki:Common.css]], [[MediaWiki:Vector.css]], [[MediaWiki:Handheld.css]] に記述しているので修正は不要)<br />
* 各スキンの PHP ファイルに対して:<br />
:# skins/Vector.php の Google Analystics, AdSense の HTML を挿入。<br />
:# 各スタイルシート末尾のカスタマイズ部分をコピー。<br />
* includes/Skin.php のスタイルシート指定でデフォルトスキンの CSS よりハンドヘルドの CSS が優先されるよう設定。<br />
$out->addStyle( self::makeNSUrl( $this->getSkinName() . '.css', $query, NS_MEDIAWIKI ), <u>'screen'</u> );<br />
if( $wgHandheldStyle ) {<br />
$out->addStyle( $wgHandheldStyle, 'handheld' );<br />
$out->addStyle( self::makeNSUrl( 'Handheld.css', $query, NS_MEDIAWIKI ), 'handheld' );<br />
}<br />
<br />
1.16 → 1.19.0 <br />
* ブラウザからの設定後必要なファイルをコピー<br />
<br />
torao@www9361ue$ cp ../agi/LocalSettings.php .<br />
torao@www9361ue$ cp ../agi/extensions/* extensions/<br />
torao@www9361ue$ cp -a ../agi/images/* images/</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E5%AE%89%E5%B2%90%E9%83%B7%E8%AA%8C:%E6%9C%80%E8%BF%91%E3%81%AE%E5%87%BA%E6%9D%A5%E4%BA%8B
安岐郷誌:最近の出来事
2013-08-12T16:59:43Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>* [[髪塚]]、[[行者塚]]、[[龍泉寺]]井戸跡と観音堂跡、[[血洗池]]湯屋跡を追加。編集者に[[長楽寺]]の [[User:Chisho]] さんを追加しました。 [[利用者:Torao|Torao]]([[利用者・トーク:Torao|トーク]]) 2013年8月13日 (火) 01:59 (JST)<br />
* サイトの URL を wiki.koiroha.org/agi から agi.koiroha.org へ移動します。 [[利用者:Torao|Torao]]([[利用者・トーク:Torao|トーク]]) 2013年3月14日 (木) 01:24 (JST)<br />
* 大量のスパムアカウントが作成されたため匿名ユーザによるアカウントの新規作成を制限します。 -- [[利用者:Torao|Torao]]([[利用者・トーク:Torao|トーク]]) 2012年5月21日 (月) 18:48 (JST)<br />
* さくらインターネットを 2 コア 1GB メモリプランに変更しました。-- [[利用者:Torao|Torao]] 2012年5月16日 (水) 12:31 (JST)<br />
* さくらインターネットにサーバを移転しました。接続速度が ADSL40Mbps からバックボーン直結 100Mbps になりましたのでだいぶ快適になったと思います。 --[[利用者:Torao|Torao]] 2011年1月2日 (日) 17:30 (JST)<br />
* MediaWiki を 1.16.0 にバージョンアップしました。-- [[利用者:Torao|Torao]] 2010年8月8日 (日) 18:00 (JST)<br />
* MediaWiki を 1.14.0 から 1.15.4 にバージョンアップしました。 --[[利用者:Torao|Torao]] 2010年6月25日 (金) 13:33 (UTC)<br />
* 中国、韓国などからの大量のスパム書き込みが続いているため、非登録ユーザによる編集、新規ページ作成 (ノート含む) を無期限にブロックします。編集に参加する場合はユーザ登録を行って下さい。[[利用者:Torao|Torao]] 2010年4月29日 (木) 02:47 (UTC)<br />
* 地図の詳細表示に Yahoo! 地図を追加しました。Yahoo! 地図は携帯電話 (i-mode, ezweb) からの地図表示に対応していますので、携帯電話片手に旧跡探しなどを行うことが出来るようになりました。また中津川・恵那地方では Google Map に比べてかなり詳細な航空写真を見ることが出来ます。--[[利用者:Torao|Torao]] 2009年8月28日 (金) 11:42 (UTC)</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E8%A1%8C%E8%80%85%E5%A1%9A
行者塚
2013-08-12T16:54:46Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>{{ruby|'''行者塚'''|ぎょうじゃづか}}<map title="行者塚" lat="35.4254616667" lon="137.4988500000"/>は[[血洗神社]]から飯沼の新田に出る林道の脇にある[[w:無縫塔|無縫塔]]。鬱蒼とした森の中にあり、周囲は掘られ塚の部分だけ盛られた手の込んだ造成である。この周辺が{{ruby|'''聖坊主'''|ひじりぼうず}}という小字であることから聖坊主と呼ばれた僧侶の墓石と思われる。南無阿弥陀仏、安永9年 {{note|(1780年/江戸中期)}} の記が見える。<br />
<br />
== 風景 ==<br />
<gallery><br />
File:Hijiribozu Gyojazuka 01.JPG|軽トラックで通ることの出来る林道から5mほど離れた場所にある。<br />
File:Hijiribozu Gyojazuka 02.JPG|掘られた中に塚の部分だけ盛られている。<br />
File:Hijiribozu Gyojazuka 03.JPG|無縫塔は僧侶の墓石に多く使われる形。<br />
File:Hijiribozu Gyojazuka 04.JPG|{{年号|1780}} の墓石か。<br />
File:Hijiribozu Gyojazuka 05.JPG|広岡聖坊主の塚。<br />
</gallery><br />
<br />
[[Category:二分団|きようしやつか]]<br />
[[Category:神社仏閣|きようしやつか]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E8%81%96%E5%9D%8A%E4%B8%BB%E3%81%AE%E5%A1%9A
聖坊主の塚
2013-08-12T16:53:20Z
<p>Torao:Torao がページ「聖坊主の塚」を「行者塚」へと移動しました</p>
<hr />
<div>#転送 [[行者塚]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E8%A1%8C%E8%80%85%E5%A1%9A
行者塚
2013-08-12T16:53:09Z
<p>Torao:Torao がページ「聖坊主の塚」を「行者塚」へと移動しました</p>
<hr />
<div>{{ruby|'''行者塚'''|ぎょうじゃづか}}<map title="行者塚" lat="35.4254616667" lon="137.4988500000"/>は[[血洗神社]]から飯沼の新田に出る林道の脇にある[[w:無縫塔|無縫塔]]。鬱蒼とした森の中にあり、周囲は掘られ塚の部分だけ盛られた手の込んだ造成である。この周辺が{{ruby|'''聖坊主'''|ひじりぼうず}}という小字であることから聖坊主と呼ばれた僧侶の墓石と思われる。南無阿弥陀仏、安永9年 {{note|(1780年/江戸中期)}} の記が見える。<br />
<br />
== 風景 ==<br />
<gallery><br />
File:Hijiribozu Gyojazuka 01.JPG|軽トラックで通ることの出来る林道から5mほど離れた場所にある。<br />
File:Hijiribozu Gyojazuka 02.JPG|掘られた中に塚の部分だけ盛られている。<br />
File:Hijiribozu Gyojazuka 03.JPG|無縫塔は僧侶の墓石に多く使われる形。<br />
File:Hijiribozu Gyojazuka 04.JPG|{{年号|1780}} の墓石か。<br />
File:Hijiribozu Gyojazuka 05.JPG|広岡聖坊主の塚。<br />
</gallery><br />
<br />
[[Category:二分団|ひしりほうすのつか]]<br />
[[Category:神社仏閣|ひしりほうすのつか]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E8%A1%8C%E8%80%85%E5%A1%9A
行者塚
2013-08-12T16:52:40Z
<p>Torao:ページの作成:「{{ruby|'''行者塚'''|ぎょうじゃづか}}<map title="行者塚" lat="35.4254616667" lon="137.4988500000"/>は血洗神社から飯沼の新田に出る林道...」</p>
<hr />
<div>{{ruby|'''行者塚'''|ぎょうじゃづか}}<map title="行者塚" lat="35.4254616667" lon="137.4988500000"/>は[[血洗神社]]から飯沼の新田に出る林道の脇にある[[w:無縫塔|無縫塔]]。鬱蒼とした森の中にあり、周囲は掘られ塚の部分だけ盛られた手の込んだ造成である。この周辺が{{ruby|'''聖坊主'''|ひじりぼうず}}という小字であることから聖坊主と呼ばれた僧侶の墓石と思われる。南無阿弥陀仏、安永9年 {{note|(1780年/江戸中期)}} の記が見える。<br />
<br />
== 風景 ==<br />
<gallery><br />
File:Hijiribozu Gyojazuka 01.JPG|軽トラックで通ることの出来る林道から5mほど離れた場所にある。<br />
File:Hijiribozu Gyojazuka 02.JPG|掘られた中に塚の部分だけ盛られている。<br />
File:Hijiribozu Gyojazuka 03.JPG|無縫塔は僧侶の墓石に多く使われる形。<br />
File:Hijiribozu Gyojazuka 04.JPG|{{年号|1780}} の墓石か。<br />
File:Hijiribozu Gyojazuka 05.JPG|広岡聖坊主の塚。<br />
</gallery><br />
<br />
[[Category:二分団|ひしりほうすのつか]]<br />
[[Category:神社仏閣|ひしりほうすのつか]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E8%A1%80%E6%B4%97%E7%A5%9E%E7%A4%BE
血洗神社
2013-08-12T15:44:05Z
<p>Torao:/* 惠那神社誌 */</p>
<hr />
<div>{{infobox<br />
|タイトル=神社仏閣<br />
|画像=血洗神社01.jpg<br />
|名称=血洗神社<br />
|住所=岐阜県中津川市阿木字血洗6872-1<br />
|位置=<map name="血洗神社" lat="35.42594" lon="137.5035" label="short"/><br />
|標高=835m<br />
|祭神={{ruby|[[w:天照大神|天照大神]]|アマテラスオオミカミ}}<br/>{{ruby|[[w:大山祇神|大山祇神]]|オオヤマツミノカミ}} ([[龍泉寺跡|龍泉寺]]山祇神社より遷座)<br />
}}<br />
{{ruby|'''血洗神社'''|ちあらいじんじゃ}}は[[国道363号]]で[[広岡]]から[[川上]]に向かうに途中に位置する神社。日の神が子を産んだ時にその産穢を{{ruby|<strong>血洗池</strong>|ちあらいいけ}}で洗い浄めたという伝説が名の由来となっている。<br />
<br />
血洗神社は美濃国神名帳 {{note|(平安時代)}} に記されている[[阿気明神]]とも言われており地元では{{ruby|血洗様|ちあらいさま}}の名で呼ばれている。夏になると隣接している[[名古屋市キャンプ場|キャンプ場]]や[[フォーティーンヒルズCC|ゴルフ場]]が賑わいを見せる。<br />
<br />
このページでは血洗神社と関連の深い血洗池も併せて説明する。<br />
<br />
== 血洗池跡 ==<br />
'''血洗池'''<map name="血洗池跡" lat="35.42397" lon="137.501847"/>は血洗神社から国道を西に 200m ほど下った場所に存在した池。現在の血洗池跡はほぼ完全に埋没しており、流入する小さな沢と湿地のみが池の痕跡を残している (江戸時代頃の古文書などにも載っているが、大正生まれの人によれば昭和の初め頃にはかなり小さくなっていたと聞いている)。血洗神社は元々この血洗池の湖畔に祀られた神社であったが、土砂の流入による池の変形や土砂崩れによって現在の位置に遷座したと伝えられる。<br />
<br />
血洗という名は{{ruby|[[w:天照大神|天照大神]]|アマテラスオオミカミ}}を出産した{{ruby|[[w:イザナミ|伊邪那美命]]|イザナミノミコト}}が産の血をこの池で清めたという伝説に由来している。またこの時に{{ruby|[[w:胞衣壺|胞衣]]|えな}} {{note|(胎盤)}} を納めた山が胞衣岳 (恵那山) と呼ばれるようになったという[[天照大神の胞衣伝説]]を示す遺跡の一つである。<br />
<br />
現在の血洗池跡は {{年号|1986}} の国道363号の拡張工事で整備されたものである。この時に血洗池の南にあった腰掛け岩を現在の位置に移動している。腰掛け岩の側面に現れている×状の文様は古代のペトログラフ (岩刻文字) とも言われている。<br />
<br />
血洗池から国道を挟んだ向かいに平らに造成された場所があり、ここにかつて湯屋があったと言われている。<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
{| style="font-size:0.9em;line-height:115%;padding:0px;"<br />
|-<br />
| {{年号|1738}} || 美濃明細記に血洗社と胞衣伝説の記。<br />
|-<br />
| {{年号|1916}} || 12月 本堂・境内改築。御大典記念碑。<br />
|-<br />
| {{年号|1934}} || [[龍泉寺]]の山祇神社から{{ruby|大山祇神|オオヤマツミノカミ}}を遷座。 <br />
|-<br />
| {{年号|1986}} || 国道整備に伴い本殿遷座、履舎造営、血洗池跡の整備。<br />
|}<br />
<br />
== 風景 ==<br />
<gallery><br />
File:血洗神社 境内01.jpg|2009/12 血洗神社境内。<br />
File:血洗神社 境内02.jpg|2009/12 血洗神社境内。<br />
File:血洗神社 境内03.jpg|2009/12 階段。<br />
File:血洗神社 境内04.jpg|2009/12 拝殿。<br />
File:血洗神社 境内05.jpg|2009/12 拝殿の中。<br />
File:血洗神社01.jpg|<map title="血洗神社" lat="35.42594" lon="137.5035"/>09/02/21 血洗神社。シンプルな神明鳥居は天照大神を祀っているため。<br />
File:血洗神社 村社石柱01.jpg|<map tilte="血洗神社" lat="35.42594" lon="137.5035"/>09/02/21 血洗神社。村社血洗神社の石柱。<br />
File:血洗神社 拝殿01.jpg|<map title="血洗神社" lat="35.42594" lon="137.5035"/>09/02/21 血洗神社拝殿と本殿。<br />
</gallery><br />
<gallery><br />
File:血洗池 跡地04.jpg|2009/12 血洗池。<br />
File:血洗池 跡地05.jpg|2009/12 血洗池。<br />
File:血洗池 跡地06.jpg|2009/12 血洗池。<br />
File:血洗池 跡地01.jpg|<map title="血洗池" lon="137.502014" lat="35.423913"/>09/02/21 血洗池跡。山からの小さな沢が流れ込み湿地のようになっている。<br />
File:血洗池 跡地02.jpg|<map title="血洗池" lon="137.502014" lat="35.423913"/>09/02/21 血洗池跡。腰掛け岩は跡地の整備で写真に移動している。元の場所は不明。<br />
File:血洗池 跡地03.jpg|<map title="血洗池" lon="137.502014" lat="35.423913"/>09/02/21 血洗池跡。腰掛け岩の文様はペトログラフを成していると言われている。<br />
File:Chiaraiike Yuyaato.JPG|<map title="血洗池 湯屋跡" lat="35.4238016667" lon="137.5015983333"/>13/08/12 血洗池から国道を挟んで向かいの湯屋跡。<br />
</gallery><br />
<br />
== 血洗池の由緒書き ==<br />
血洗池に建てられている由緒書きには以下のように記されている。<br />
<br />
<hibun photo="09/02/21=血洗池 由緒書き01.jpg"><br />
<div>'''安岐明神御由緒と旧跡血洗池、腰掛岩の傅承'''</div><br />
<div><br />
神代の或る御神 (伊装册命) 御子 (天照大神) を産み給ひその御胞衣 (胎児を包んでいる膜と胎盤) を洗いしに池の水赤くにぞなりけり。血洗の池と呼名され、{{ruby|胞衣|えな}}は恵那嶽に納む。胞山の名これより起る。我国に漢字移入以前の神代文字<br />
{{ruby|[[File:血洗池 由緒書きホツマ.png|37x12px|ホツマ]]|ホツマ}} ({{ruby|秀眞伝|ホツマツタエ}}) の記録に判然として残る。又日本名勝地誌、新撰美濃誌にも明らかなり。産終わりて母神、岩に腰掛け、御心地爽にして、安らかにぞなり給い、今よりこの処を安気野の里と名付けよと宣り給う。和名抄に恵那六郷の内安岐郷はこの地に起因す。後安気から安岐となり明治以降阿木となる。住時は深さ五米広さ一ヘクタールの大池にして、その周囲は古木うっそうと茂り幽邊の霊池たりしが、宝永年間の大雨など度重なる水禍により土砂混入し、昭和初期には一坪足らず小池となり何時しか埋没してその姿無し。池の近くに安産を深謝して安気明神を祀る。美濃国明神帳に恵那郡七社の内従四位上安気明神とあるは血洗神社是なり。今天照大神、大山祇神を併せ祀る。安産、育児、山林守護の神として霊験あらたかなること普く世人の尊崇する由縁なり。壬申の乱 (672) の折 {{ruby|大海人皇子|おゝあまのおうじ}} (天武天皇) は伊勢の大廟を拝し、美濃地に入りて当社を遙拝して戦勝を祈願し給ふと云う。今度改修されたる国道三六三号線は古くより東山道と三河路を結ぶ重要道路にして俗に中馬街道とも呼ばれ明治中頃までは人馬かろうじて通る山路であり亦式内恵那神社 (権現様) 詣での参道でもあった。国道改修により社地の一部が道路敷地となりその代償を以て血洗神社本殿を奥深く遷座し奉り、履舎を造営、腰掛岩の移築、血洗池の復原を育行し天皇在位六十年記念事業として之を建つ。<br />
<div style="text-align:right;">昭和六十一年五月三日 血洗神社氏子一同</div><br />
</hibun><br />
<br />
以下はこの由緒書きを現代風に書き直したものである。<br />
<br />
<blockquote class="translated"><br />
昔々の神の時代、{{ruby|伊邪那美命|イザナミノミコト}}が {{ruby|天照大神|アマテラスオオミカミ}}を出産した折に、胞衣 {{note|(胎盤やへその緒など)}} の血を池で洗い流して山に納めた。伊邪那美命はこの腰掛け岩に腰をかけホッと一息、この地を安気野と里と名付けるよう命じた。阿木という名はここから来ている。また血を洗った池は後に血洗池と、 {{ruby|胞衣|エナ}}を納めた山は恵那山 (昔は胞山などと書いた)<br />
と呼ばれるようになった。<br />
</blockquote><br />
<br />
神話の時代の出来事と、阿木、恵那、血洗の名前の由来について書かれている。ここで恵那山の由来の根拠として挙げているホツマツタヱ、日本名勝地誌 {{note|(1896/明治29年)}}、新撰美濃志 {{note|(1931年/昭和6年)}} には実際に恵那の由来が天照大神の胞衣であると記されている。<br />
<br />
<blockquote class="translated"><br />
当時の血洗池はうっそうとした森の中にあり、深さ 5m、広さ 1 ヘクタール {{note|(10,000㎡)}} ほどの大きな池だったが、山からの土砂の流入によって昭和の時代に埋没してしまった。この血洗池の近くには安産を祈願して現在の血洗神社である安気明神を祀りっている。美濃国明神帳に恵那郡七社の内従四位上安気明神とあるは血洗神社の事である。壬申の乱 ({{年号|627}}) には美濃の地を訪れた大海人皇子 (天武天皇) も訪れて戦勝を祈願したと云われている。<br />
</blockquote><br />
<br />
[[w:濃飛両国通史|濃飛両国通史]] {{note|(1923年/大正12年)}} では帳内社[[阿気明神|安気明神]]が阿木村にあったと推定しているが、その安気明神が血洗神社の事であるとした根拠はこれだけでは分からない。<br />
<br />
[[w:壬申の乱|壬申の乱]]で[[w:天武天皇|大海人皇子]]が押さえたのは同じ美濃でも滋賀県の県境、不破の道 (関ヶ原)。阿木から見ると美濃の正反対に位置する。記紀によれば主に東山道・東海道から美濃の兵を集め、遠くは長野からも来たと言われている。東山道は大井-坂下から[[w:神坂峠|神坂峠]] (恵那山トンネルの真上) を越えるルートである。もし大海人皇子本人が徴兵に回ったのであれば[[安岐郷]]の近くを通った事になるが、実際に東山道を駆け抜けたのは伝令使のような人たちであろう。<br />
<br />
壬申の乱においては、不破関の徴兵令から援兵到着までの期間が短いことから、美濃地方の多くの地域に大海人皇子の天領や屯倉のようなものが存在していたと考えられている<ref><strong>岐阜の歴史</strong>, <i>松田之利 他</i>, 株式会社 山川出版, 2000, ISBN 4-634-32210-2</ref>。このことは壬申の乱から 5 年後の {{年号|677}} に恵那郡から天武天皇 {{note|(大海人皇子)}} へ新嘗祭に使う米が献上されている事からも推測できる ([[飛鳥池の木簡]])。また阿木地内にも宮田や両伝寺 (領天神) などの天領を示唆する地名があり、それぞれに古い[[天神神社 (宮田)|天神神社]]、[[天神神社 (両伝寺)|天神神社]]があることから、阿木にも天皇家領地があって壬申の乱の伝令使が来ていたかもしれない。<br />
<br />
<blockquote class="translated"><br />
国道363号は古くから東山道と三河路をつなぐ重要な道路で中馬街道と呼ばれていた。明治中頃までは馬がやっと通れる程度の道であり、また恵那神社への参道でもあった。国道の拡張工事で血洗神社の敷地を提供したお金で神社の改築と血洗池跡の碑石を建て、天皇在位六十年記念事業とする。<br />
</blockquote><br />
<br />
中馬街道としての国道363号は岩村か、せいぜい阿木小学校前の交差点までかと思われる。血洗神社の前を通って中津川に出る道は中馬街道から見ればかなりの裏ルート的な扱いだったのではないだろうか。<br />
<br />
血洗神社前を通る国道363号は[[龍泉寺古道]]であり、[[龍泉寺]]や[[恵那神社]]、[[恵那山]]詣の参道でもあった。日本地名大辞典<ref><strong>角川日本地名大辞典 21 岐阜県</strong>, <i>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三</i>, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040014906</ref>には龍泉寺の馬頭観音堂に馬で参拝したと記述されていることから、江戸時代初期の頃には馬の通れる程の道があったと推測できる。<br />
<br />
<references/><br />
<br />
== 御大典記念碑 ==<br />
血洗神社境内、鳥居左側の石碑には[[w:大正天皇|大正天皇]]の[[w:即位の礼|御大典]] {{note|(1915年11月10日)}} を記念して血洗神社の改築を行った碑が建てられている。{{年号|1916}} 12月の日付と寄付者の芳名が刻まれている。<br />
<br />
<hibun photo="09/02/21=血洗神社 御大典記念碑01.jpg,血洗神社 御大典記念碑02.jpg"><br />
<div>'''御大典記念'''</div><br />
<div><br />
本堂及境内改築寄附芳名<br/><br />
<span class="smaller"><br />
一金五円 鷹見弥市<br />
一金四円 鷹見弥吉 鷹見?一<br />
一金三円 西尾?美 本多?酒 増尾仙治<br />
一金二円五十銭 鷹見?? 安藤巳之助 森兵蔵<br />
一金二円 ???吉 血洗??場 鷹見?蔵 鷹見金三郎 大井久? 大森兼吉 後藤賢治 安藤長次郎 足立金治 佐々木惣兵ヱ<br />
一金一円七十銭 佐々木?治<br />
一金一円?十銭 〜 田並典? 鷹見?次郎 鷹見健治 梅村?? 丸山?治 丸山?? 安藤?? 〜<br />
一金一円二十銭 石川菊蔵 <br />
一金〜<br />
</span><br />
<div class="right">大正五年十二月</div><br />
</hibun><br />
<br />
== 文献 ==<br />
<br />
=== 美濃明細記 ===<br />
{{年号|1738}} に編纂された[[美濃明細記]] 第三巻 ''神社'' の最後のページに'''血洗社'''として記述されている。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div>[[File:血洗神社 美濃明細記01.png]]</div><br />
<div><br />
恵奈郡阿木山麓大野平<br/><br />
一 血洗社 上古神ノ胞洗之池云々 恵奈之名起于此歟<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
太古に神の胞衣を洗ったと言われる池があり恵那の名はこれに由来か、と書かれている。つまり江戸時代中期には血洗池や胞衣の伝承が存在したことになる。<br />
<br />
現在の血洗神社付近までを大野と言うかは微妙なところ。もしかしたら昔は大野の何処かに血洗神社の前宮があったのかも知れない (そんな話は聞かないが)。あるいは、昔の大野が飯沼村の枝村だったことから飯沼の神社と書きたかったのかも知れない。<br />
<br />
=== 巖邑府誌 ===<br />
{{年号|1751}} に編纂された[[巖邑府誌]]の[[巖邑府誌/飯妻|飯妻]]に大神廟についての記述がある {{note|(神の中でも大神とは天照大神の意)}}。ただしここに書かれている大神廟とは飯沼の[[神明神社]]の事かもしれない。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
村内の鬱蒼とした森の中に大神廟がある。言い伝えによれば大昔に日の神が恵那岳に降り立ち、胞衣を納めたことから胞山という名が付いたと云われている ({{ruby|胞衣|えな}}を俗に恵那とした)。お産の穢れを清めた事からその名の着いた血洗池が竜泉山にある。またへその緒を切った鎌が[[三森神社]]に納められている。大神廟はこれらの遺跡である。<br />
</div><br />
<div><br />
この大神廟は占いをして伊勢の{{ruby|度会|わたらい}}郡に遷ったという。この事から伊勢廟の御用材には恵那岳の木材を献上して今に至るとの事である。もちろん根拠が無く信ずるに足らないが、国史では垂仁天皇 25 年 {{note|(紀元前5年)}} に{{ruby|[[w:倭姫命|倭姫命]]|やまとひめのみこと}}が大神鎮座の地を求めて近江 {{note|(滋賀県)}} の東から美濃を廻って伊勢に至ったと云われている。つまり、かつて倭姫命が占いをして現在の地に決めるまでの行宮 {{note|(元伊勢)}} と言われるようなことがあったのかもしれない。そうして里人がたくさんの妄説を付けたのである。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
[[天照大神の胞衣伝説|胞衣伝説]]の現実性は薄いにしても伊勢神宮の[[w:元伊勢|元伊勢]]があったかもしれないと推測している。<br />
<br />
[[w:日本書紀|日本書紀]]には[[w:伊勢神宮|伊勢神宮]]が現在の場所に定まるまでに近畿周辺地域を巡幸したと記されている。より詳しい{{ruby|倭姫命世記|やまとひめのみことせいき}}によれば紀伊、吉備、大和、伊賀、近江、美濃、伊勢と巡幸し、またそれぞれの地で仮宮の置かれた場所も記されているが、美濃でも最東端の恵那地方まで来たとの記録はない。ただし倭姫命世記自体が鎌倉時代 {{note|(1185年頃-1333年)}} に書かれた物語であり、編算内容に当時の公家や武家勢力の影響を色濃く受けていると考えられる。<br />
<br />
=== 大日本地名辞書 ===<br />
{{年号|1902}} に編算された[[大日本地名辞書]]の''安岐郷''の項にも胞衣と血洗池に関して記述されている。この項の [補] に「名細記」と記されていることから、新撰志とは前述の美濃明細記であろう。血洗池を古跡と記していることから明治の時代には既にかなり埋没が進んでいる事が窺える。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
新撰志伝、血洗社は阿木山の麓、大野平にあり、神代のむかし、ある御神こゝにて御子を産給ひ、胞衣を洗ひ給ひし跡也といひ云え、血洗池という古跡ものこり、また恵奈山の名もそれより興りしよし、里老いへり<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
=== 惠那神社誌 ===<br />
{{年号|1912}} の[[惠那神社誌]]では[[阿氣明神]]は血洗神社であると推測している。また血洗神社が現在の場所に移るまでの経緯の言い伝えが記されている。<br />
<br />
<blockquote class="original"><br />
<div><br />
血洗の池は、惠那山の西南麓なる、阿木村廣岡にあり、昔時は深さ十數尺、大さ三百餘坪の池にして、其周圍近傍には古木蓁々と繁茂し、幽邃の氣人をして戰慄せしむる程の靈池たりしが、寶永元申年霖雨の際、山岳崩壊して、土砂竄入したるため、今は全部埋まれたり、此の池より流れ出る水赤かりきと、而して池の北方二三町の處に血洗神社あり、天照大神を奉祀す、小祠なれども村社に列せらる、又此の池の南に腰掛石、東の方に屏風岩あり、又産髪を納めし石塚あり、清淨ヶ丘、鶴ヶ峰、甘露ヶ峰、祠ヶ澤、等の地名皆是れ等に起因すと伝ふ、和名妙に安岐郷と有るは、此所にして廣岡は其本土なり、美濃國神名帳に從四位上安氣明神とあるは、此の血洗神社たること、明細記、地理志料等に伝へるが如し、此の社本來は、血洗池の東南、森林中にありし大社なりしが、元龜年間に飯沼村との間に山論起りし時、安氣明神の森を燒拂ひ、降て承應明暦の頃、又々境界論を惹起し、互随て神社をも今の處に移し、僅に小祠を建立して、奉祀を繼續せるものなりと伝ふ、(此の一節は、編者十四歳の頃、阿木村廣岡、今井豊次郎氏の祖父久助翁の舊記及口碑等書冩せるものを、拔萃せしものなり)<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<blockquote class="translated"><br />
<p><br />
血洗池は恵那山西南の麓の阿木村広岡にある。昔は深さ十数尺 {{note|(3〜6m)}}、大きさ三百餘坪 {{note|(約1,000㎡)}} の池で、その周囲は古木が鬱蒼としており霊能に長けた人を持ってしても戦慄する程の霊池であったが、{{年号|1704}} の長雨で山崩れが起きて土砂が流入したため現在は全て埋まっている。この池から流れ出る水は赤かったと言われている。<br />
</p><br />
<p><br />
池を北に二三町 {{note|(約300m)}} 行ったところに血洗神社があり天照大神を奉祀している。小祠であるが村社に列せられている。またこの池の南に腰掛岩、東に[[屏風石]]があり、また産髪を納めた[[髪塚|石塚]]があり、清浄ヶ丘、鶴ヶ峰、甘露ヶ峯、祠ヶ沢などの地名はこれに起因すると言われている。和名抄に載っている安岐郷とはこの場所であり広岡はその中心である。美濃国神名帳の從四位安氣明神とはこの血洗神社を指していると明細記、地理志料などに伝えられている通りである。<br />
</p><br />
<p><br />
この社は本来は血洗池東南の森の中にあった大社であるが、元亀年間 {{note|(1570-1573/安土桃山)}} に飯沼村と山境紛争が起き安氣明神の森を焼き払ってしまった。さらに承応明暦 {{note|(1652-1657/江戸初期)}} の頃に再び山境紛争が起き神社を現在の場所に移し、僅かに小祠を建立して奉祀を継続したものであると伝えられる (この一節は編者が14歳の頃に阿木村広岡の今井豊次郎氏の祖父である久助翁の旧記および口碑などの書き写しから抜粋したものである)。<br />
</p><br />
</blockquote><br />
<br />
元亀年間には[[岩村城の戦い]]があり、武田勝頼の軍勢が遠山子城を攻めて阿木周辺の神社仏閣を焼き払った時代であることから、山境紛争ではなく兵火で焼かれたのが正しいのかも知れない (血洗神社は[[龍泉寺]]と[[長楽寺]]を結ぶ[[龍泉寺道]]にある)。<br />
<br />
<references/><br />
<br />
== 伝承と四方山話 ==<br />
* 血洗神社前は恵南から中津川方面へ向かう近道である。阿木から中山道中津川宿へ[[w:助郷|助郷]]に向かう道としても使われたと思われる。<br />
* 昭和50年代頃までは血洗神社前の小川は「清水」と呼ばれ、[[阿木小学校]]の根ノ上遠足で水汲み場としていた。[[龍泉寺道]]の古文書における息継清水とはこの小川と思われる。ただし、現在は上流にキャンプ場が出来たことにから飲料には適さないだろう。<br />
* 千旦林城や龍泉寺を攻め落とした武田の軍勢が通ったのであれば、その血を洗ったのが本当の語源かもしれない。<br />
* 血洗池の東側、南側を調べると起伏があり社が建てられそうな場所はない。地形的にはかつて湯屋があった場所が比定地として挙げられる。<br />
* 湯屋はかつて修験道がブームだった時代に恵南や三河地方から恵那神社、恵那山へ参拝するための身を清める場所だったのかもしれない。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[阿気明神]]<br />
* [[恵那神社]]<br />
* [[天照大神の胞衣伝説]]<br />
* [[屏風石]]<br />
* [[髪塚]]<br />
* [[龍泉寺道]]<br />
<br />
[[Category:二分団|ちあらいしんしや]]<br />
[[Category:神社仏閣|ちあらいしんしや]]<br />
[[Category:国道363号|ちあらいしんしや]]<br />
[[Category:龍泉寺古道|りゆうせんしことう]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E8%A1%80%E6%B4%97%E7%A5%9E%E7%A4%BE
血洗神社
2013-08-12T15:36:07Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>{{infobox<br />
|タイトル=神社仏閣<br />
|画像=血洗神社01.jpg<br />
|名称=血洗神社<br />
|住所=岐阜県中津川市阿木字血洗6872-1<br />
|位置=<map name="血洗神社" lat="35.42594" lon="137.5035" label="short"/><br />
|標高=835m<br />
|祭神={{ruby|[[w:天照大神|天照大神]]|アマテラスオオミカミ}}<br/>{{ruby|[[w:大山祇神|大山祇神]]|オオヤマツミノカミ}} ([[龍泉寺跡|龍泉寺]]山祇神社より遷座)<br />
}}<br />
{{ruby|'''血洗神社'''|ちあらいじんじゃ}}は[[国道363号]]で[[広岡]]から[[川上]]に向かうに途中に位置する神社。日の神が子を産んだ時にその産穢を{{ruby|<strong>血洗池</strong>|ちあらいいけ}}で洗い浄めたという伝説が名の由来となっている。<br />
<br />
血洗神社は美濃国神名帳 {{note|(平安時代)}} に記されている[[阿気明神]]とも言われており地元では{{ruby|血洗様|ちあらいさま}}の名で呼ばれている。夏になると隣接している[[名古屋市キャンプ場|キャンプ場]]や[[フォーティーンヒルズCC|ゴルフ場]]が賑わいを見せる。<br />
<br />
このページでは血洗神社と関連の深い血洗池も併せて説明する。<br />
<br />
== 血洗池跡 ==<br />
'''血洗池'''<map name="血洗池跡" lat="35.42397" lon="137.501847"/>は血洗神社から国道を西に 200m ほど下った場所に存在した池。現在の血洗池跡はほぼ完全に埋没しており、流入する小さな沢と湿地のみが池の痕跡を残している (江戸時代頃の古文書などにも載っているが、大正生まれの人によれば昭和の初め頃にはかなり小さくなっていたと聞いている)。血洗神社は元々この血洗池の湖畔に祀られた神社であったが、土砂の流入による池の変形や土砂崩れによって現在の位置に遷座したと伝えられる。<br />
<br />
血洗という名は{{ruby|[[w:天照大神|天照大神]]|アマテラスオオミカミ}}を出産した{{ruby|[[w:イザナミ|伊邪那美命]]|イザナミノミコト}}が産の血をこの池で清めたという伝説に由来している。またこの時に{{ruby|[[w:胞衣壺|胞衣]]|えな}} {{note|(胎盤)}} を納めた山が胞衣岳 (恵那山) と呼ばれるようになったという[[天照大神の胞衣伝説]]を示す遺跡の一つである。<br />
<br />
現在の血洗池跡は {{年号|1986}} の国道363号の拡張工事で整備されたものである。この時に血洗池の南にあった腰掛け岩を現在の位置に移動している。腰掛け岩の側面に現れている×状の文様は古代のペトログラフ (岩刻文字) とも言われている。<br />
<br />
血洗池から国道を挟んだ向かいに平らに造成された場所があり、ここにかつて湯屋があったと言われている。<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
{| style="font-size:0.9em;line-height:115%;padding:0px;"<br />
|-<br />
| {{年号|1738}} || 美濃明細記に血洗社と胞衣伝説の記。<br />
|-<br />
| {{年号|1916}} || 12月 本堂・境内改築。御大典記念碑。<br />
|-<br />
| {{年号|1934}} || [[龍泉寺]]の山祇神社から{{ruby|大山祇神|オオヤマツミノカミ}}を遷座。 <br />
|-<br />
| {{年号|1986}} || 国道整備に伴い本殿遷座、履舎造営、血洗池跡の整備。<br />
|}<br />
<br />
== 風景 ==<br />
<gallery><br />
File:血洗神社 境内01.jpg|2009/12 血洗神社境内。<br />
File:血洗神社 境内02.jpg|2009/12 血洗神社境内。<br />
File:血洗神社 境内03.jpg|2009/12 階段。<br />
File:血洗神社 境内04.jpg|2009/12 拝殿。<br />
File:血洗神社 境内05.jpg|2009/12 拝殿の中。<br />
File:血洗神社01.jpg|<map title="血洗神社" lat="35.42594" lon="137.5035"/>09/02/21 血洗神社。シンプルな神明鳥居は天照大神を祀っているため。<br />
File:血洗神社 村社石柱01.jpg|<map tilte="血洗神社" lat="35.42594" lon="137.5035"/>09/02/21 血洗神社。村社血洗神社の石柱。<br />
File:血洗神社 拝殿01.jpg|<map title="血洗神社" lat="35.42594" lon="137.5035"/>09/02/21 血洗神社拝殿と本殿。<br />
</gallery><br />
<gallery><br />
File:血洗池 跡地04.jpg|2009/12 血洗池。<br />
File:血洗池 跡地05.jpg|2009/12 血洗池。<br />
File:血洗池 跡地06.jpg|2009/12 血洗池。<br />
File:血洗池 跡地01.jpg|<map title="血洗池" lon="137.502014" lat="35.423913"/>09/02/21 血洗池跡。山からの小さな沢が流れ込み湿地のようになっている。<br />
File:血洗池 跡地02.jpg|<map title="血洗池" lon="137.502014" lat="35.423913"/>09/02/21 血洗池跡。腰掛け岩は跡地の整備で写真に移動している。元の場所は不明。<br />
File:血洗池 跡地03.jpg|<map title="血洗池" lon="137.502014" lat="35.423913"/>09/02/21 血洗池跡。腰掛け岩の文様はペトログラフを成していると言われている。<br />
File:Chiaraiike Yuyaato.JPG|<map title="血洗池 湯屋跡" lat="35.4238016667" lon="137.5015983333"/>13/08/12 血洗池から国道を挟んで向かいの湯屋跡。<br />
</gallery><br />
<br />
== 血洗池の由緒書き ==<br />
血洗池に建てられている由緒書きには以下のように記されている。<br />
<br />
<hibun photo="09/02/21=血洗池 由緒書き01.jpg"><br />
<div>'''安岐明神御由緒と旧跡血洗池、腰掛岩の傅承'''</div><br />
<div><br />
神代の或る御神 (伊装册命) 御子 (天照大神) を産み給ひその御胞衣 (胎児を包んでいる膜と胎盤) を洗いしに池の水赤くにぞなりけり。血洗の池と呼名され、{{ruby|胞衣|えな}}は恵那嶽に納む。胞山の名これより起る。我国に漢字移入以前の神代文字<br />
{{ruby|[[File:血洗池 由緒書きホツマ.png|37x12px|ホツマ]]|ホツマ}} ({{ruby|秀眞伝|ホツマツタエ}}) の記録に判然として残る。又日本名勝地誌、新撰美濃誌にも明らかなり。産終わりて母神、岩に腰掛け、御心地爽にして、安らかにぞなり給い、今よりこの処を安気野の里と名付けよと宣り給う。和名抄に恵那六郷の内安岐郷はこの地に起因す。後安気から安岐となり明治以降阿木となる。住時は深さ五米広さ一ヘクタールの大池にして、その周囲は古木うっそうと茂り幽邊の霊池たりしが、宝永年間の大雨など度重なる水禍により土砂混入し、昭和初期には一坪足らず小池となり何時しか埋没してその姿無し。池の近くに安産を深謝して安気明神を祀る。美濃国明神帳に恵那郡七社の内従四位上安気明神とあるは血洗神社是なり。今天照大神、大山祇神を併せ祀る。安産、育児、山林守護の神として霊験あらたかなること普く世人の尊崇する由縁なり。壬申の乱 (672) の折 {{ruby|大海人皇子|おゝあまのおうじ}} (天武天皇) は伊勢の大廟を拝し、美濃地に入りて当社を遙拝して戦勝を祈願し給ふと云う。今度改修されたる国道三六三号線は古くより東山道と三河路を結ぶ重要道路にして俗に中馬街道とも呼ばれ明治中頃までは人馬かろうじて通る山路であり亦式内恵那神社 (権現様) 詣での参道でもあった。国道改修により社地の一部が道路敷地となりその代償を以て血洗神社本殿を奥深く遷座し奉り、履舎を造営、腰掛岩の移築、血洗池の復原を育行し天皇在位六十年記念事業として之を建つ。<br />
<div style="text-align:right;">昭和六十一年五月三日 血洗神社氏子一同</div><br />
</hibun><br />
<br />
以下はこの由緒書きを現代風に書き直したものである。<br />
<br />
<blockquote class="translated"><br />
昔々の神の時代、{{ruby|伊邪那美命|イザナミノミコト}}が {{ruby|天照大神|アマテラスオオミカミ}}を出産した折に、胞衣 {{note|(胎盤やへその緒など)}} の血を池で洗い流して山に納めた。伊邪那美命はこの腰掛け岩に腰をかけホッと一息、この地を安気野と里と名付けるよう命じた。阿木という名はここから来ている。また血を洗った池は後に血洗池と、 {{ruby|胞衣|エナ}}を納めた山は恵那山 (昔は胞山などと書いた)<br />
と呼ばれるようになった。<br />
</blockquote><br />
<br />
神話の時代の出来事と、阿木、恵那、血洗の名前の由来について書かれている。ここで恵那山の由来の根拠として挙げているホツマツタヱ、日本名勝地誌 {{note|(1896/明治29年)}}、新撰美濃志 {{note|(1931年/昭和6年)}} には実際に恵那の由来が天照大神の胞衣であると記されている。<br />
<br />
<blockquote class="translated"><br />
当時の血洗池はうっそうとした森の中にあり、深さ 5m、広さ 1 ヘクタール {{note|(10,000㎡)}} ほどの大きな池だったが、山からの土砂の流入によって昭和の時代に埋没してしまった。この血洗池の近くには安産を祈願して現在の血洗神社である安気明神を祀りっている。美濃国明神帳に恵那郡七社の内従四位上安気明神とあるは血洗神社の事である。壬申の乱 ({{年号|627}}) には美濃の地を訪れた大海人皇子 (天武天皇) も訪れて戦勝を祈願したと云われている。<br />
</blockquote><br />
<br />
[[w:濃飛両国通史|濃飛両国通史]] {{note|(1923年/大正12年)}} では帳内社[[阿気明神|安気明神]]が阿木村にあったと推定しているが、その安気明神が血洗神社の事であるとした根拠はこれだけでは分からない。<br />
<br />
[[w:壬申の乱|壬申の乱]]で[[w:天武天皇|大海人皇子]]が押さえたのは同じ美濃でも滋賀県の県境、不破の道 (関ヶ原)。阿木から見ると美濃の正反対に位置する。記紀によれば主に東山道・東海道から美濃の兵を集め、遠くは長野からも来たと言われている。東山道は大井-坂下から[[w:神坂峠|神坂峠]] (恵那山トンネルの真上) を越えるルートである。もし大海人皇子本人が徴兵に回ったのであれば[[安岐郷]]の近くを通った事になるが、実際に東山道を駆け抜けたのは伝令使のような人たちであろう。<br />
<br />
壬申の乱においては、不破関の徴兵令から援兵到着までの期間が短いことから、美濃地方の多くの地域に大海人皇子の天領や屯倉のようなものが存在していたと考えられている<ref><strong>岐阜の歴史</strong>, <i>松田之利 他</i>, 株式会社 山川出版, 2000, ISBN 4-634-32210-2</ref>。このことは壬申の乱から 5 年後の {{年号|677}} に恵那郡から天武天皇 {{note|(大海人皇子)}} へ新嘗祭に使う米が献上されている事からも推測できる ([[飛鳥池の木簡]])。また阿木地内にも宮田や両伝寺 (領天神) などの天領を示唆する地名があり、それぞれに古い[[天神神社 (宮田)|天神神社]]、[[天神神社 (両伝寺)|天神神社]]があることから、阿木にも天皇家領地があって壬申の乱の伝令使が来ていたかもしれない。<br />
<br />
<blockquote class="translated"><br />
国道363号は古くから東山道と三河路をつなぐ重要な道路で中馬街道と呼ばれていた。明治中頃までは馬がやっと通れる程度の道であり、また恵那神社への参道でもあった。国道の拡張工事で血洗神社の敷地を提供したお金で神社の改築と血洗池跡の碑石を建て、天皇在位六十年記念事業とする。<br />
</blockquote><br />
<br />
中馬街道としての国道363号は岩村か、せいぜい阿木小学校前の交差点までかと思われる。血洗神社の前を通って中津川に出る道は中馬街道から見ればかなりの裏ルート的な扱いだったのではないだろうか。<br />
<br />
血洗神社前を通る国道363号は[[龍泉寺古道]]であり、[[龍泉寺]]や[[恵那神社]]、[[恵那山]]詣の参道でもあった。日本地名大辞典<ref><strong>角川日本地名大辞典 21 岐阜県</strong>, <i>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三</i>, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040014906</ref>には龍泉寺の馬頭観音堂に馬で参拝したと記述されていることから、江戸時代初期の頃には馬の通れる程の道があったと推測できる。<br />
<br />
<references/><br />
<br />
== 御大典記念碑 ==<br />
血洗神社境内、鳥居左側の石碑には[[w:大正天皇|大正天皇]]の[[w:即位の礼|御大典]] {{note|(1915年11月10日)}} を記念して血洗神社の改築を行った碑が建てられている。{{年号|1916}} 12月の日付と寄付者の芳名が刻まれている。<br />
<br />
<hibun photo="09/02/21=血洗神社 御大典記念碑01.jpg,血洗神社 御大典記念碑02.jpg"><br />
<div>'''御大典記念'''</div><br />
<div><br />
本堂及境内改築寄附芳名<br/><br />
<span class="smaller"><br />
一金五円 鷹見弥市<br />
一金四円 鷹見弥吉 鷹見?一<br />
一金三円 西尾?美 本多?酒 増尾仙治<br />
一金二円五十銭 鷹見?? 安藤巳之助 森兵蔵<br />
一金二円 ???吉 血洗??場 鷹見?蔵 鷹見金三郎 大井久? 大森兼吉 後藤賢治 安藤長次郎 足立金治 佐々木惣兵ヱ<br />
一金一円七十銭 佐々木?治<br />
一金一円?十銭 〜 田並典? 鷹見?次郎 鷹見健治 梅村?? 丸山?治 丸山?? 安藤?? 〜<br />
一金一円二十銭 石川菊蔵 <br />
一金〜<br />
</span><br />
<div class="right">大正五年十二月</div><br />
</hibun><br />
<br />
== 文献 ==<br />
<br />
=== 美濃明細記 ===<br />
{{年号|1738}} に編纂された[[美濃明細記]] 第三巻 ''神社'' の最後のページに'''血洗社'''として記述されている。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div>[[File:血洗神社 美濃明細記01.png]]</div><br />
<div><br />
恵奈郡阿木山麓大野平<br/><br />
一 血洗社 上古神ノ胞洗之池云々 恵奈之名起于此歟<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
太古に神の胞衣を洗ったと言われる池があり恵那の名はこれに由来か、と書かれている。つまり江戸時代中期には血洗池や胞衣の伝承が存在したことになる。<br />
<br />
現在の血洗神社付近までを大野と言うかは微妙なところ。もしかしたら昔は大野の何処かに血洗神社の前宮があったのかも知れない (そんな話は聞かないが)。あるいは、昔の大野が飯沼村の枝村だったことから飯沼の神社と書きたかったのかも知れない。<br />
<br />
=== 巖邑府誌 ===<br />
{{年号|1751}} に編纂された[[巖邑府誌]]の[[巖邑府誌/飯妻|飯妻]]に大神廟についての記述がある {{note|(神の中でも大神とは天照大神の意)}}。ただしここに書かれている大神廟とは飯沼の[[神明神社]]の事かもしれない。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
村内の鬱蒼とした森の中に大神廟がある。言い伝えによれば大昔に日の神が恵那岳に降り立ち、胞衣を納めたことから胞山という名が付いたと云われている ({{ruby|胞衣|えな}}を俗に恵那とした)。お産の穢れを清めた事からその名の着いた血洗池が竜泉山にある。またへその緒を切った鎌が[[三森神社]]に納められている。大神廟はこれらの遺跡である。<br />
</div><br />
<div><br />
この大神廟は占いをして伊勢の{{ruby|度会|わたらい}}郡に遷ったという。この事から伊勢廟の御用材には恵那岳の木材を献上して今に至るとの事である。もちろん根拠が無く信ずるに足らないが、国史では垂仁天皇 25 年 {{note|(紀元前5年)}} に{{ruby|[[w:倭姫命|倭姫命]]|やまとひめのみこと}}が大神鎮座の地を求めて近江 {{note|(滋賀県)}} の東から美濃を廻って伊勢に至ったと云われている。つまり、かつて倭姫命が占いをして現在の地に決めるまでの行宮 {{note|(元伊勢)}} と言われるようなことがあったのかもしれない。そうして里人がたくさんの妄説を付けたのである。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
[[天照大神の胞衣伝説|胞衣伝説]]の現実性は薄いにしても伊勢神宮の[[w:元伊勢|元伊勢]]があったかもしれないと推測している。<br />
<br />
[[w:日本書紀|日本書紀]]には[[w:伊勢神宮|伊勢神宮]]が現在の場所に定まるまでに近畿周辺地域を巡幸したと記されている。より詳しい{{ruby|倭姫命世記|やまとひめのみことせいき}}によれば紀伊、吉備、大和、伊賀、近江、美濃、伊勢と巡幸し、またそれぞれの地で仮宮の置かれた場所も記されているが、美濃でも最東端の恵那地方まで来たとの記録はない。ただし倭姫命世記自体が鎌倉時代 {{note|(1185年頃-1333年)}} に書かれた物語であり、編算内容に当時の公家や武家勢力の影響を色濃く受けていると考えられる。<br />
<br />
=== 大日本地名辞書 ===<br />
{{年号|1902}} に編算された[[大日本地名辞書]]の''安岐郷''の項にも胞衣と血洗池に関して記述されている。この項の [補] に「名細記」と記されていることから、新撰志とは前述の美濃明細記であろう。血洗池を古跡と記していることから明治の時代には既にかなり埋没が進んでいる事が窺える。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
新撰志伝、血洗社は阿木山の麓、大野平にあり、神代のむかし、ある御神こゝにて御子を産給ひ、胞衣を洗ひ給ひし跡也といひ云え、血洗池という古跡ものこり、また恵奈山の名もそれより興りしよし、里老いへり<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
=== 惠那神社誌 ===<br />
{{年号|1912}} の[[惠那神社誌]]では[[阿氣明神]]は血洗神社であると推測している。また血洗神社が現在の場所に移るまでの経緯の言い伝えが記されている。<br />
<br />
<blockquote class="original"><br />
<div><br />
血洗の池は、惠那山の西南麓なる、阿木村廣岡にあり、昔時は深さ十數尺、大さ三百餘坪の池にして、其周圍近傍には古木蓁々と繁茂し、幽邃の氣人をして戰慄せしむる程の靈池たりしが、寶永元申年霖雨の際、山岳崩壊して、土砂竄入したるため、今は全部埋まれたり、此の池より流れ出る水赤かりきと、而して池の北方二三町の處に血洗神社あり、天照大神を奉祀す、小祠なれども村社に列せらる、又此の池の南に腰掛石、東の方に屏風岩あり、又産髪を納めし石塚あり、清淨ヶ丘、鶴ヶ峰、甘露ヶ峰、祠ヶ澤、等の地名皆是れ等に起因すと伝ふ、和名妙に安岐郷と有るは、此所にして廣岡は其本土なり、美濃國神名帳に從四位上安氣明神とあるは、此の血洗神社たること、明細記、地理志料等に伝へるが如し、此の社本來は、血洗池の東南、森林中にありし大社なりしが、元龜年間に飯沼村との間に山論起りし時、安氣明神の森を燒拂ひ、降て承應明暦の頃、又々境界論を惹起し、互随て神社をも今の處に移し、僅に小祠を建立して、奉祀を繼續せるものなりと伝ふ、(此の一節は、編者十四歳の頃、阿木村廣岡、今井豊次郎氏の祖父久助翁の舊記及口碑等書冩せるものを、拔萃せしものなり)<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<blockquote class="translated"><br />
<p><br />
血洗池は恵那山西南の麓の阿木村広岡にある。昔は深さ十数尺 {{note|(3〜6m)}}、大きさ三百餘坪 {{note|(約1,000㎡)}} の池で、その周囲は古木が鬱蒼としており霊能に長けた人を持ってしても戦慄する程の霊池であったが、{{年号|1704}} の長雨で山崩れが起きて土砂が流入したため現在は全て埋まっている。この池から流れ出る水は赤かったと言われている。<br />
</p><br />
<p><br />
池を北に二三町 {{note|(約300m)}} 行ったところに血洗神社があり天照大神を奉祀している。小祠であるが村社に列せられている。またこの池の南に腰掛岩、東に[[屏風石]]があり、また産髪を納めた石塚があり、清浄ヶ丘、鶴ヶ峰、甘露ヶ峯、祠ヶ沢などの地名はこれに起因すると言われている。和名抄に載っている安岐郷とはこの場所であり広岡はその中心である。美濃国神名帳の從四位安氣明神とはこの血洗神社を指していると明細記、地理志料などに伝えられている通りである。<br />
</p><br />
<p><br />
この社は本来は血洗池東南の森の中にあった大社であるが、元亀年間 {{note|(1570-1573/安土桃山)}} に飯沼村と山境紛争が起き安氣明神の森を焼き払ってしまった。さらに承応明暦 {{note|(1652-1657/江戸初期)}} の頃に再び山境紛争が起き神社を現在の場所に移し、僅かに小祠を建立して奉祀を継続したものであると伝えられる (この一節は編者が14歳の頃に阿木村広岡の今井豊次郎氏の祖父である久助翁の旧記および口碑などの書き写しから抜粋したものである)。<br />
</p><br />
</blockquote><br />
<br />
元亀年間には[[岩村城の戦い]]があり、武田勝頼の軍勢が遠山子城を攻めて阿木周辺の神社仏閣を焼き払った時代であることから、山境紛争ではなく兵火で焼かれたのが正しいのかも知れない (血洗神社は[[龍泉寺]]と[[長楽寺]]を結ぶ[[龍泉寺道]]にある)。<br />
<br />
<references/><br />
<br />
== 伝承と四方山話 ==<br />
* 血洗神社前は恵南から中津川方面へ向かう近道である。阿木から中山道中津川宿へ[[w:助郷|助郷]]に向かう道としても使われたと思われる。<br />
* 昭和50年代頃までは血洗神社前の小川は「清水」と呼ばれ、[[阿木小学校]]の根ノ上遠足で水汲み場としていた。[[龍泉寺道]]の古文書における息継清水とはこの小川と思われる。ただし、現在は上流にキャンプ場が出来たことにから飲料には適さないだろう。<br />
* 千旦林城や龍泉寺を攻め落とした武田の軍勢が通ったのであれば、その血を洗ったのが本当の語源かもしれない。<br />
* 血洗池の東側、南側を調べると起伏があり社が建てられそうな場所はない。地形的にはかつて湯屋があった場所が比定地として挙げられる。<br />
* 湯屋はかつて修験道がブームだった時代に恵南や三河地方から恵那神社、恵那山へ参拝するための身を清める場所だったのかもしれない。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[阿気明神]]<br />
* [[恵那神社]]<br />
* [[天照大神の胞衣伝説]]<br />
* [[屏風石]]<br />
* [[髪塚]]<br />
* [[龍泉寺道]]<br />
<br />
[[Category:二分団|ちあらいしんしや]]<br />
[[Category:神社仏閣|ちあらいしんしや]]<br />
[[Category:国道363号|ちあらいしんしや]]<br />
[[Category:龍泉寺古道|りゆうせんしことう]]</div>
Torao
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屏風石
2013-08-12T15:09:48Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>[[File:byobu stone01.jpg|thumb|屏風岩]]<br />
{{ruby|'''屏風石'''|びょうぶいし}}<map name="屏風石" lat="35.418569" lon="137.501792"/>は[[広岡]]から[[ふるさと林道三森山線]]を上がった道端に置かれている石。[[血洗池]]の伝説に併せてお産の時に屏風として使用した石だとも云われている。東南30mほどの山の中に[[髪塚]]がある。<br />
<br />
== 由緒書き ==<br />
<hibun photo="09/06/14=byobu stone02.jpg"><br />
太古 或る大神がこの地でお産をされ 十七日間お身体を休め給うという 休息の場所がこの屏風石であり 太古の文字を刻むと記るされている<br />
<br />
道路新設にあたり山側に移して復元したものである<br />
<br />
この裏手の山中に石を積み重ねた塚がありお産の後 髪を納めた[[髪塚]]であるという<br />
<br />
近くには旧蹟の血洗池 腰掛石も残り今に伝える<br />
<br />
併せて 広岡には五つの名石があるという<br />
<br />
五穀石 亀石 烏帽子石 富士石 金玉石の五つである<br />
<div class="right"><br />
平成十一年四月吉日建之<br/>阿木史跡保存会<br />
</div><br />
</hibun><br />
<br />
== 写真集 ==<br />
<gallery><br />
File:byobu stone01.jpg|09/06/14 屏風岩の石碑。<br />
File:byobu stone03.jpg|09/06/14 切られたような石が屏風石。<br />
File:byobu stone04.jpg|09/06/14 林道の脇に置かれている。<br />
</gallery><br />
<br />
== 参照 ==<br />
* [[血洗神社]]<br />
* [[天照大神の胞衣伝説]]<br />
* [[髪塚]]<br />
* [[龍泉寺道]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* ひがしみの昔話 [http://www.ja-higashimino.or.jp/hiroba/story/n/agihuro.html 阿木の屏風岩]<br />
<br />
[[Category:二分団|ひようふいし]]<br />
[[Category:名所|ひようふいし]]<br />
[[Category:龍泉寺古道|ひようふいし]]</div>
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屏風石
2013-08-12T15:07:48Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>[[File:byobu stone01.jpg|thumb|屏風岩]]<br />
{{ruby|'''屏風石'''|びょうぶいし}}<map name="屏風石" lat="35.418569" lon="137.501792"/>は[[広岡]]から[[ふるさと林道三森山線]]を上がった道端に置かれている石。[[血洗池]]の伝説に併せてお産の時に屏風として使用した石だとも云われている。<br />
<br />
== 由緒書き ==<br />
<hibun photo="09/06/14=byobu stone02.jpg"><br />
太古 或る大神がこの地でお産をされ 十七日間お身体を休め給うという 休息の場所がこの屏風石であり 太古の文字を刻むと記るされている<br />
<br />
道路新設にあたり山側に移して復元したものである<br />
<br />
この裏手の山中に石を積み重ねた塚がありお産の後 髪を納めた髪塚であるという<br />
<br />
近くには旧蹟の血洗池 腰掛石も残り今に伝える<br />
<br />
併せて 広岡には五つの名石があるという<br />
<br />
五穀石 亀石 烏帽子石 富士石 金玉石の五つである<br />
<div class="right"><br />
平成十一年四月吉日建之<br/>阿木史跡保存会<br />
</div><br />
</hibun><br />
<br />
== 写真集 ==<br />
<gallery><br />
File:byobu stone01.jpg|09/06/14 屏風岩の石碑。<br />
File:byobu stone03.jpg|09/06/14 切られたような石が屏風石。<br />
File:byobu stone04.jpg|09/06/14 林道の脇に置かれている。<br />
</gallery><br />
<br />
== 参照 ==<br />
* [[血洗神社]]<br />
* [[天照大神の胞衣伝説]]<br />
* [[龍泉寺道]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* ひがしみの昔話 [http://www.ja-higashimino.or.jp/hiroba/story/n/agihuro.html 阿木の屏風岩]<br />
<br />
[[Category:二分団|ひようふいし]]<br />
[[Category:名所|ひようふいし]]<br />
[[Category:龍泉寺古道|ひようふいし]]</div>
Torao
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髪塚
2013-08-12T15:00:32Z
<p>Torao:ページの作成:「髪塚 {{ruby|'''髪塚'''|かみづか}}<map name="髪塚" lat="35.4183166667" lon="137.5019416667"/>は屏風石を少し登った...」</p>
<hr />
<div>[[File:Kamizuka 03.JPG|thumb|髪塚]]<br />
{{ruby|'''髪塚'''|かみづか}}<map name="髪塚" lat="35.4183166667" lon="137.5019416667"/>は[[屏風石]]を少し登った山の中に存在する石。子宝に恵まれるように髪を供えた、稚児が健やかに育つことを願って髪を供えた、などの言われがある。[[血洗池]]の伝説に併せてお産の時に髪を納めた石だとも云われている。<br />
<br />
== 写真集 ==<br />
<gallery><br />
File:Kamizuka 01.JPG|<map lat="35.4182466667" lon="137.5023550000"/>13/08/12 ふるさと林道三森線の屏風岩を過ぎ少し上から山へ入る。<br />
File:Kamizuka 02.JPG|<map lat="35.4183250000" lon="137.5019033333"/>13/08/12 髪塚。<br />
File:Kamizuka 04.JPG|<map lat="35.4183200000" lon="137.5020033333"/>13/08/12 髪塚。<br />
</gallery><br />
<br />
== 参照 ==<br />
* [[屏風石]]<br />
* [[血洗神社]]<br />
* [[天照大神の胞衣伝説]]<br />
* [[龍泉寺道]]<br />
<br />
[[Category:二分団|かみつか]]<br />
[[Category:名所|かみつか]]</div>
Torao
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龍泉寺跡
2013-08-12T14:46:06Z
<p>Torao:/* 風景 */</p>
<hr />
<div>{{infobox<br />
|タイトル=神社仏閣<br />
|名称=龍泉寺跡<br />
|画像=龍泉寺 跡地01.jpg<br />
|所在地=岐阜県中津川市阿木字竜泉寺<br />
|位置=<map title="龍泉寺跡" lon="137.504830" lat="35.435169" label="short"/><br />
|標高=868m<br />
|宗派=[[w:天台宗|天台宗]]<br />
|本尊=[[w:馬頭観音|馬頭観世音菩薩]] (岐阜県指定文化財/[[萬嶽寺]]管理)<br />
|祭神={{ruby|[[w:大山祇神|大山祇神]]|オオヤマツミノカミ}} (山祇神社/[[血洗神社]]へ遷座)<br />
|遺構=馬頭観音堂礎石、碑石<br />
|交通=国道363号線から[[根の上高原]]へ向かう市道の右側。<br />
}}<br />
<br />
{{ruby|'''補陀山龍泉寺'''|ほださんりゅうせんじ}}は室町時代に建立され戦国の世に焼失した[[保古山]]の寺院。現在は石碑と観音堂、池、井戸の遺構のみが残っている。<br />
<br />
兵火を免れた寄木造りの[[馬頭観世音菩薩]]は江戸時代に再建された観音堂に祀られていたが、現在は<strong>根ノ上観音</strong> (岐阜県重要文化財) として[[萬嶽寺]]が管理している。今は根ノ上観音は秘仏となっており恵那三十三観音参りの時期に合わせて4月と10月の12〜18日の間のみ開帳している。<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
<br />
{| style="font-size:0.9em;line-height:115%;padding:0px;"<br />
|-<br />
| 1501年頃 {{note|(文亀年間/室町)}} || 龍泉寺建立。<br />
|-<br />
| {{年号|1574}} || 武田勝頼の軍勢により焼き討ちに遭う。<br />
|-<br />
| {{年号|1617}} || 岩村城主 [[丹羽氏信]]が跡地に観音堂を再建。<br />
|-<br />
| {{年号|1911}} || 龍泉寺管轄の土地を売却。<br />
|-<br />
| {{年号|1934}} || {{ruby|[[w:大山祇神|大山祇神]]|オオヤマツミノカミ}}を[[血洗神社]]に遷座。<br />
|-<br />
| {{年号|1969}} || 本尊の馬頭観世音菩薩が岐阜県重要文化財指定。<br />
|}<br />
<br />
== 風景 ==<br />
[[File:龍泉寺跡地 Map of Ryusenji Temple.png|thumb|龍泉寺石碑周辺の遺構]]<br />
<gallery><br />
File:龍泉寺 跡地01.jpg|<map title="龍泉寺" lon="137.504830" lat="35.435169"/>09/02/21 別荘地にたたずむ龍泉寺跡。<br />
File:龍泉寺 跡地02.jpg|<map title="龍泉寺" lon="137.504830" lat="35.435169"/>09/02/21 石碑と地蔵が立っている。<br />
File:龍泉寺 跡地03.jpg|<map title="龍泉寺" lon="137.504830" lat="35.435169"/>09/02/21 古い歴史を持ちそうな石。<br />
File:龍泉寺参道 Approach of Ryusenji Temple.JPG|<map title="龍泉寺参道" lat="35.4348983333" lon="137.5047116667"/>13/08/12 石碑裏手の参道。<br />
File:龍泉寺井戸跡 Well Ruins of Ryusenji Temple.JPG|<map title="龍泉寺 井戸跡" lon="137.5049516667" lat="35.4354333333"/>13/08/12 道沿いプレハブ小屋の裏に井戸跡。真夏だが水がたまっている。<br />
File:龍泉寺池跡 Pond Ruins of Ryusenji Temple.JPG|<map title="龍泉寺 池跡" lat="35.4354866667" lon="137.5047550000"/>13/08/12 井戸跡から10mほど離れたくぼみが池跡。<br />
File:龍泉寺観音堂跡 Kannon-do Hall Ruins of Ryusenji Temple.JPG|<map title="龍泉寺 観音堂跡" lat="35.4349983333" lon="137.5051466667"/>13/08/12 石碑の少し先の別荘横に観音堂跡が残っている。<br />
File:龍泉寺観音堂跡 Kannon-do Hall Ruins of Ryusenji Temple 2.JPG|<map title="龍泉寺 観音堂跡" lat="35.4349800000" lon="137.5052233333"/>13/08/12 観音石仏と礎石が残っている。<br />
</gallery><br />
<br />
== 碑文 ==<br />
跡地に建てられている一番大きな龍泉寺・山祇神社の石碑には以下のように彫られている (一部判読不能)。<br />
<br />
<hibun photo="09/02/21=龍泉寺 碑文01.jpg"><br />
<div><br />
'''旧跡 龍泉寺 山祇神社'''<br/>龍泉寺は浦陀山と号し文亀年中の創建と伝えられ馬頭観音を本尊とし天台宗に属す。天正二年武田勢の兵火により僧堂悉く灰燼に帰したが本尊は難を逃れ後に萬嶽寺へ移祀され昭和四十四年岐阜県指定文化財とさる。山祇神社は祭神に大山祇命を奉斉し龍泉寺及び近隣山林の守護神として祀られ同寺焼失後境内境外山林に同神社所属の官有地となっていたが、明治四十四年一部を残し民間に拂下げられ同神社は昭和九年村社血洗神社へ遷座合祀された。昭和十七年松下開発株式会社並に株式会社大地…此の地域…当たり両社の協力により…拝を永久に保存し古暦を偲び碑を建てる。<br />
</div><br />
<div style="text-align:right;">昭和四十七年五月吉日 山祇神社氏子一同</div><br />
</hibun><br />
<br />
浦陀は一般には通じず、後述の[[巖邑府誌]]からも{{ruby|補陀|ほだ}}の誤字か当て字と考えられる。補陀山は[[w:補陀落|補陀落]]とも呼ばれ、南海にあり観音が浄土する山を意味している。チベットのポタラ宮と同じサンスクリット語のポタラカを語源としている。<br />
<br />
1501年頃(文亀年間)〜1574年(天正2年) は室町時代の後期、つまり龍泉寺は日本が戦国時代へ突入しようという時に建立された (現在萬嶽寺に納められている馬頭観世音菩薩が室町時代のものと言われているのはこれが根拠だろうか)。<br />
<br />
天正2年は武田軍の手に落ちた岩村城に[[w:武田勝頼|武田勝頼]]が入城した年。この時勝頼はまだ遠山勢の手にあった遠山十八子城を全て落とし、周辺の神社仏閣などを手当たり次第に焼き払ったと伝えられている ([[岩村城の戦い]]参照)。<br />
<br />
向かって右には馬頭観世音の石碑が建てられている。背面の碑文によればこれは {{年号|1978}} に山祇神社氏子総代の方の遺言によって建立されたものである。<br />
<br />
<hibun photo="09/02/21=龍泉寺 碑文02.jpg"><br />
<div>'''碑文'''<br/>昭和四十六年頃此の地方一帯は開発造成され旧龍泉寺跡 (山祇神社所有地) も売却処分する事となり西尾鍚雄氏は当時氏子総代会長として補償交渉に当られました。生前氏は往時を偲び同寺本尊馬頭観世音の建碑を望んで居られたが昭和五十二年七月志し成らずして不帰の人となられました。遺言により金壱拾萬圓也を寄進せられ昭和五十三年五月三日之を建立す。氏子一同</div><br />
</hibun><br />
<br />
== 文献散策 ==<br />
=== 巖邑府誌 ===<br />
{{年号|1751}} に書かれた[[巖邑府誌]]の[[巖邑府誌/安岐#龍泉寺|龍泉寺]]より。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
○'''龍泉寺'''は行事岳と呼ばれる村の東の高山の北山の上にある。補陀山龍泉寺という號の一草堂に観音像を安置しており仲春の初午に祭っている。住職は居らず現在は清宝院の尼が仮で寺務を執り行っている。この草堂は寛永 17 年に岩村藩主丹羽氏信侯が再建したものである。草堂の傍らには神祠があり、また血洗池と呼ばれる池がある。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
阿木の東の高山で龍泉寺跡の南とは[[天狗森山]]や[[橋ヶ谷山]]を指しているものと思われる。俗に[[阿木山]]と呼ばれる山々は古くは'''行事岳'''と呼ばれていたことが分かる。<br />
<br />
{{ruby|仲春|ちゅうしゅん}}とは陰暦の 2 月。{{ruby|[[w:初午|初午]]|はつうま}}は旧暦 2 月の最初の午日。龍泉寺焼き討ちより 66 年後の {{年号|1640}} には焼失を免れた馬頭観音菩薩が再び祀られ、岩村府誌が書かれた {{年号|1751}} にもまだ観音堂が建っていた。寛永 17 年は岩村城主{{ruby|[[w:丹羽氏信|丹羽氏信]]|にわうじのぶ}}によって賽之神神社や三森神社の祠が建てられている事から、この年は藩内で神社仏閣整備が行われたものと思われる。<br />
<br />
清宝院がどこであるかは不明。[[龍泉寺道]]では山野田にあった浄光院が預かっていたと書かれているためその跡を継いだ寺かもしれない。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
竜泉寺の西の麓には広く原野があり、その土地はやせている。ここの人の住む村は大野という名である (現在は大野と{{ruby|広阜|ひろおか}}の二地域となっている)。この地は阿木の東境に接しており全て阿木の部落である。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
巖邑府誌の書かれた江戸中期には大野はやせた土地であったという。また文脈から現在の広岡が大野より後に開拓された事が読み取れる。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
北野[[w:大智寺_(岐阜市)|大智寺]]<map title="" lon="136.841194" lat="35.509828"/>の桃翁が東濃大野大禅寺の南陔兄に贈った詩がある。<br />
<blockquote><br />
<div style="font-size:smaller;"><br />
山中冝<sub>シ</sub><sup>レ</sup>棲白雲身<br/><br />
露井秋風憶<sub>フ</sub><sup>レ</sup>古人<sub>ヲ</sub><br/><br />
寺下灘声居<sub>リテ</sub>自<sub>ラ</sub>聴<sub>ク</sub><br/><br />
安禅応<sub>ニ</sub><sup>ン三</sup>永<sub>ク</sub>嘱<sub>ス</sub><sup>二</sup>龍神<sub>ニ</sub><sup>一</sup><br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
この序によれば東濃大野村の吉祥山大禅寺とは{{ruby|峰翁祖一|ほうおうそいつ}}禅師<br />
開山の道場である (祖一については[[巖邑府誌/大円寺|大円寺記]]参照)。山や川がこの傍らを巡り、何より{{ruby|灘声|たんせい}} {{note|(急流の響き)}} がやかましい。あるとき一人の老翁が説法を聞きに訪れた折りに師は灘声が疎ましいと告げた。翁は私の力でこれを移して見せようと言った。師はにわかには信じられなかったのだが、しばらくすると雷鳴が轟き始め翁は竜となり井戸に消えた。その中から雲がわき起こり大雨が三日続いて山河は水で満たされ、そしてその急流は三里 {{note|(1.6km)}} ほど遠くに移動したと云う。この事から祠を建てて竜を祭り、昔から水無明神と呼ばれている。今でも大野村に井戸がないのはこのためだと。<br />
<br />
桃翁も南陔もいつの人間か分からないが、思うに勝国以前の人物であろう。この伝承は竜泉と称するのに十分な根拠である。多分に水無明神は山頂の神祠、竜が消えた露天の井戸はその傍らの池であろう。大野には井戸が無く村民が皆川の水を酌んでいるのは今なおそのようである。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
現在の大野に寺院があったという話は存在しない。[[巖邑府誌/飯妻]]の項に書かれているように、吉祥山大禅寺とは現在の禅林寺の前にあった飯沼のお寺なのかもしれない。<br />
<br />
龍泉寺跡の観音堂に馬頭観音像と一緒に祀られていたのは山の神 (大山祇神) である。このため龍を祀った水無明神という件もよく分からない。当時はそのような神が祀られていたのか、現在の字川上 7834 に[[水神神社]]<map title="" lon="137.528333" lat="35.439062"/>とあるのがこれを指しているのかもしれない。<br />
<br />
また大野なら掘れば水が出ると思うのだが井戸はなかったと書かれている。<br />
<br />
=== 角川日本地名大辞典 ===<br />
日本地名大辞典<ref><strong>角川日本地名大辞典 21 岐阜県</strong>, <i>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三</i>, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040014906</ref>の''阿木''の項には以下の記述がある。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
竜泉寺山に寛永17年より馬頭観音をまつり、<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
巖邑府誌と同様に寛永 17 年に馬頭観音が祀られたと書かれている。ただし武田の軍勢による焼き討ちには触れられていない。龍泉寺山とは保古山を指しているのだろうか? 現在の龍泉寺跡は山と言うより峠か尾根といったところである。<br />
<br />
また同書中津川市の''寺社と信仰''の項には以下のように書かれている。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
阿木竜泉寺跡にあった馬頭観音堂は、初午の日に馬を引き参詣する人を集めたが、現在は礎跡を残すのみである。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
この記述からは里人にとって初午参りが馬や牛を祭るものであったこと、また観音堂が建立された江戸時代初期の頃には龍泉寺まで馬を連れて行けるほどの道があったことが窺える。<br />
<br />
<references/><br />
<br />
== 伝承と四方山話 ==<br />
* 寺領は手賀野から千旦林周辺と聞く。当時の岩村藩には[[遠山荘]]だけでなく延暦寺領など小さな荘園も点在していた。<br />
* 焼失を免れた龍泉寺の山門が後に麓に移されたとも聞くが詳細は不明。<br />
* 天台宗が武装勢力として全国へ勢力を伸ばしていた時代背景や、東山道・中仙道と恵那地方一帯が見渡せる保古山という地理から、美濃・信濃・三河周辺地域を監視するための延暦寺の前線基地といった意味合いもあったと考えられている。<br />
* 里人には無人の別荘と林業者のプレハブが建ち並ぶ肝試し的な場所としての印象も強い。昭和50年代にプレハブの代わりに置いてあった廃バスは現在は朽ち果て熊笹に沈んでいる。<br />
<br />
== 参照 ==<br />
* [[龍泉寺道]]<br />
* [[岩村城の戦い]]<br />
* [[血洗神社]]<br />
* [[巖邑府誌/安岐#龍泉寺]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* 中津川市デジタルアーカイブ [http://www.city.nakatsugawa.gifu.jp/archives/sheet.php?code=2156 木造馬頭観世音菩薩像]<br />
<br />
[[Category:二分団|りゆうせんしあと]]<br />
[[Category:神社仏閣|りゆうせんしあと]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E9%BE%8D%E6%B3%89%E5%AF%BA%E8%B7%A1
龍泉寺跡
2013-08-12T14:38:36Z
<p>Torao:/* 風景 */</p>
<hr />
<div>{{infobox<br />
|タイトル=神社仏閣<br />
|名称=龍泉寺跡<br />
|画像=龍泉寺 跡地01.jpg<br />
|所在地=岐阜県中津川市阿木字竜泉寺<br />
|位置=<map title="龍泉寺跡" lon="137.504830" lat="35.435169" label="short"/><br />
|標高=868m<br />
|宗派=[[w:天台宗|天台宗]]<br />
|本尊=[[w:馬頭観音|馬頭観世音菩薩]] (岐阜県指定文化財/[[萬嶽寺]]管理)<br />
|祭神={{ruby|[[w:大山祇神|大山祇神]]|オオヤマツミノカミ}} (山祇神社/[[血洗神社]]へ遷座)<br />
|遺構=馬頭観音堂礎石、碑石<br />
|交通=国道363号線から[[根の上高原]]へ向かう市道の右側。<br />
}}<br />
<br />
{{ruby|'''補陀山龍泉寺'''|ほださんりゅうせんじ}}は室町時代に建立され戦国の世に焼失した[[保古山]]の寺院。現在は石碑と観音堂、池、井戸の遺構のみが残っている。<br />
<br />
兵火を免れた寄木造りの[[馬頭観世音菩薩]]は江戸時代に再建された観音堂に祀られていたが、現在は<strong>根ノ上観音</strong> (岐阜県重要文化財) として[[萬嶽寺]]が管理している。今は根ノ上観音は秘仏となっており恵那三十三観音参りの時期に合わせて4月と10月の12〜18日の間のみ開帳している。<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
<br />
{| style="font-size:0.9em;line-height:115%;padding:0px;"<br />
|-<br />
| 1501年頃 {{note|(文亀年間/室町)}} || 龍泉寺建立。<br />
|-<br />
| {{年号|1574}} || 武田勝頼の軍勢により焼き討ちに遭う。<br />
|-<br />
| {{年号|1617}} || 岩村城主 [[丹羽氏信]]が跡地に観音堂を再建。<br />
|-<br />
| {{年号|1911}} || 龍泉寺管轄の土地を売却。<br />
|-<br />
| {{年号|1934}} || {{ruby|[[w:大山祇神|大山祇神]]|オオヤマツミノカミ}}を[[血洗神社]]に遷座。<br />
|-<br />
| {{年号|1969}} || 本尊の馬頭観世音菩薩が岐阜県重要文化財指定。<br />
|}<br />
<br />
== 風景 ==<br />
[[File:龍泉寺跡地 Map of Ryusenji Temple.png|thumb|龍泉寺石碑周辺の遺構]]<br />
=== 石碑 ===<br />
<gallery><br />
File:龍泉寺 跡地01.jpg|<map title="龍泉寺" lon="137.504830" lat="35.435169"/>09/02/21 別荘地にたたずむ龍泉寺跡。<br />
File:龍泉寺 跡地02.jpg|<map title="龍泉寺" lon="137.504830" lat="35.435169"/>09/02/21 石碑と地蔵が立っている。<br />
File:龍泉寺 跡地03.jpg|<map title="龍泉寺" lon="137.504830" lat="35.435169"/>09/02/21 古い歴史を持ちそうな石。<br />
</gallery><br />
<br />
=== 池・井戸跡 ===<br />
<gallery><br />
File:龍泉寺井戸跡 Well Ruins of Ryusenji Temple.JPG|<map title="龍泉寺 井戸跡" lon="137.5049516667" lat="35.4354333333"/>13/08/12 道沿いプレハブ小屋の裏に井戸跡。真夏だが水がたまっている。<br />
File:龍泉寺池跡 Pond Ruins of Ryusenji Temple.JPG|<map title="龍泉寺 池跡" lat="35.4354866667" lon="137.5047550000"/>13/08/12 井戸跡から10mほど離れたくぼみが池跡。<br />
</gallery><br />
<br />
=== 観音堂跡 ===<br />
<gallery><br />
File:龍泉寺観音堂跡 Kannon-do Hall Ruins of Ryusenji Temple.JPG|<map title="龍泉寺 観音堂跡" lat="35.4349983333" lon="137.5051466667"/>13/08/12 石碑の少し先の別荘横に観音堂跡が残っている。<br />
File:龍泉寺観音堂跡 Kannon-do Hall Ruins of Ryusenji Temple 2.JPG|<map title="龍泉寺 観音堂跡" lat="35.4349800000" lon="137.5052233333"/>13/08/12 観音石仏と礎石が残っている。<br />
</gallery><br />
<br />
== 碑文 ==<br />
跡地に建てられている一番大きな龍泉寺・山祇神社の石碑には以下のように彫られている (一部判読不能)。<br />
<br />
<hibun photo="09/02/21=龍泉寺 碑文01.jpg"><br />
<div><br />
'''旧跡 龍泉寺 山祇神社'''<br/>龍泉寺は浦陀山と号し文亀年中の創建と伝えられ馬頭観音を本尊とし天台宗に属す。天正二年武田勢の兵火により僧堂悉く灰燼に帰したが本尊は難を逃れ後に萬嶽寺へ移祀され昭和四十四年岐阜県指定文化財とさる。山祇神社は祭神に大山祇命を奉斉し龍泉寺及び近隣山林の守護神として祀られ同寺焼失後境内境外山林に同神社所属の官有地となっていたが、明治四十四年一部を残し民間に拂下げられ同神社は昭和九年村社血洗神社へ遷座合祀された。昭和十七年松下開発株式会社並に株式会社大地…此の地域…当たり両社の協力により…拝を永久に保存し古暦を偲び碑を建てる。<br />
</div><br />
<div style="text-align:right;">昭和四十七年五月吉日 山祇神社氏子一同</div><br />
</hibun><br />
<br />
浦陀は一般には通じず、後述の[[巖邑府誌]]からも{{ruby|補陀|ほだ}}の誤字か当て字と考えられる。補陀山は[[w:補陀落|補陀落]]とも呼ばれ、南海にあり観音が浄土する山を意味している。チベットのポタラ宮と同じサンスクリット語のポタラカを語源としている。<br />
<br />
1501年頃(文亀年間)〜1574年(天正2年) は室町時代の後期、つまり龍泉寺は日本が戦国時代へ突入しようという時に建立された (現在萬嶽寺に納められている馬頭観世音菩薩が室町時代のものと言われているのはこれが根拠だろうか)。<br />
<br />
天正2年は武田軍の手に落ちた岩村城に[[w:武田勝頼|武田勝頼]]が入城した年。この時勝頼はまだ遠山勢の手にあった遠山十八子城を全て落とし、周辺の神社仏閣などを手当たり次第に焼き払ったと伝えられている ([[岩村城の戦い]]参照)。<br />
<br />
向かって右には馬頭観世音の石碑が建てられている。背面の碑文によればこれは {{年号|1978}} に山祇神社氏子総代の方の遺言によって建立されたものである。<br />
<br />
<hibun photo="09/02/21=龍泉寺 碑文02.jpg"><br />
<div>'''碑文'''<br/>昭和四十六年頃此の地方一帯は開発造成され旧龍泉寺跡 (山祇神社所有地) も売却処分する事となり西尾鍚雄氏は当時氏子総代会長として補償交渉に当られました。生前氏は往時を偲び同寺本尊馬頭観世音の建碑を望んで居られたが昭和五十二年七月志し成らずして不帰の人となられました。遺言により金壱拾萬圓也を寄進せられ昭和五十三年五月三日之を建立す。氏子一同</div><br />
</hibun><br />
<br />
== 文献散策 ==<br />
=== 巖邑府誌 ===<br />
{{年号|1751}} に書かれた[[巖邑府誌]]の[[巖邑府誌/安岐#龍泉寺|龍泉寺]]より。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
○'''龍泉寺'''は行事岳と呼ばれる村の東の高山の北山の上にある。補陀山龍泉寺という號の一草堂に観音像を安置しており仲春の初午に祭っている。住職は居らず現在は清宝院の尼が仮で寺務を執り行っている。この草堂は寛永 17 年に岩村藩主丹羽氏信侯が再建したものである。草堂の傍らには神祠があり、また血洗池と呼ばれる池がある。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
阿木の東の高山で龍泉寺跡の南とは[[天狗森山]]や[[橋ヶ谷山]]を指しているものと思われる。俗に[[阿木山]]と呼ばれる山々は古くは'''行事岳'''と呼ばれていたことが分かる。<br />
<br />
{{ruby|仲春|ちゅうしゅん}}とは陰暦の 2 月。{{ruby|[[w:初午|初午]]|はつうま}}は旧暦 2 月の最初の午日。龍泉寺焼き討ちより 66 年後の {{年号|1640}} には焼失を免れた馬頭観音菩薩が再び祀られ、岩村府誌が書かれた {{年号|1751}} にもまだ観音堂が建っていた。寛永 17 年は岩村城主{{ruby|[[w:丹羽氏信|丹羽氏信]]|にわうじのぶ}}によって賽之神神社や三森神社の祠が建てられている事から、この年は藩内で神社仏閣整備が行われたものと思われる。<br />
<br />
清宝院がどこであるかは不明。[[龍泉寺道]]では山野田にあった浄光院が預かっていたと書かれているためその跡を継いだ寺かもしれない。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
竜泉寺の西の麓には広く原野があり、その土地はやせている。ここの人の住む村は大野という名である (現在は大野と{{ruby|広阜|ひろおか}}の二地域となっている)。この地は阿木の東境に接しており全て阿木の部落である。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
巖邑府誌の書かれた江戸中期には大野はやせた土地であったという。また文脈から現在の広岡が大野より後に開拓された事が読み取れる。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
北野[[w:大智寺_(岐阜市)|大智寺]]<map title="" lon="136.841194" lat="35.509828"/>の桃翁が東濃大野大禅寺の南陔兄に贈った詩がある。<br />
<blockquote><br />
<div style="font-size:smaller;"><br />
山中冝<sub>シ</sub><sup>レ</sup>棲白雲身<br/><br />
露井秋風憶<sub>フ</sub><sup>レ</sup>古人<sub>ヲ</sub><br/><br />
寺下灘声居<sub>リテ</sub>自<sub>ラ</sub>聴<sub>ク</sub><br/><br />
安禅応<sub>ニ</sub><sup>ン三</sup>永<sub>ク</sub>嘱<sub>ス</sub><sup>二</sup>龍神<sub>ニ</sub><sup>一</sup><br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
この序によれば東濃大野村の吉祥山大禅寺とは{{ruby|峰翁祖一|ほうおうそいつ}}禅師<br />
開山の道場である (祖一については[[巖邑府誌/大円寺|大円寺記]]参照)。山や川がこの傍らを巡り、何より{{ruby|灘声|たんせい}} {{note|(急流の響き)}} がやかましい。あるとき一人の老翁が説法を聞きに訪れた折りに師は灘声が疎ましいと告げた。翁は私の力でこれを移して見せようと言った。師はにわかには信じられなかったのだが、しばらくすると雷鳴が轟き始め翁は竜となり井戸に消えた。その中から雲がわき起こり大雨が三日続いて山河は水で満たされ、そしてその急流は三里 {{note|(1.6km)}} ほど遠くに移動したと云う。この事から祠を建てて竜を祭り、昔から水無明神と呼ばれている。今でも大野村に井戸がないのはこのためだと。<br />
<br />
桃翁も南陔もいつの人間か分からないが、思うに勝国以前の人物であろう。この伝承は竜泉と称するのに十分な根拠である。多分に水無明神は山頂の神祠、竜が消えた露天の井戸はその傍らの池であろう。大野には井戸が無く村民が皆川の水を酌んでいるのは今なおそのようである。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
現在の大野に寺院があったという話は存在しない。[[巖邑府誌/飯妻]]の項に書かれているように、吉祥山大禅寺とは現在の禅林寺の前にあった飯沼のお寺なのかもしれない。<br />
<br />
龍泉寺跡の観音堂に馬頭観音像と一緒に祀られていたのは山の神 (大山祇神) である。このため龍を祀った水無明神という件もよく分からない。当時はそのような神が祀られていたのか、現在の字川上 7834 に[[水神神社]]<map title="" lon="137.528333" lat="35.439062"/>とあるのがこれを指しているのかもしれない。<br />
<br />
また大野なら掘れば水が出ると思うのだが井戸はなかったと書かれている。<br />
<br />
=== 角川日本地名大辞典 ===<br />
日本地名大辞典<ref><strong>角川日本地名大辞典 21 岐阜県</strong>, <i>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三</i>, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040014906</ref>の''阿木''の項には以下の記述がある。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
竜泉寺山に寛永17年より馬頭観音をまつり、<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
巖邑府誌と同様に寛永 17 年に馬頭観音が祀られたと書かれている。ただし武田の軍勢による焼き討ちには触れられていない。龍泉寺山とは保古山を指しているのだろうか? 現在の龍泉寺跡は山と言うより峠か尾根といったところである。<br />
<br />
また同書中津川市の''寺社と信仰''の項には以下のように書かれている。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
阿木竜泉寺跡にあった馬頭観音堂は、初午の日に馬を引き参詣する人を集めたが、現在は礎跡を残すのみである。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
この記述からは里人にとって初午参りが馬や牛を祭るものであったこと、また観音堂が建立された江戸時代初期の頃には龍泉寺まで馬を連れて行けるほどの道があったことが窺える。<br />
<br />
<references/><br />
<br />
== 伝承と四方山話 ==<br />
* 寺領は手賀野から千旦林周辺と聞く。当時の岩村藩には[[遠山荘]]だけでなく延暦寺領など小さな荘園も点在していた。<br />
* 焼失を免れた龍泉寺の山門が後に麓に移されたとも聞くが詳細は不明。<br />
* 天台宗が武装勢力として全国へ勢力を伸ばしていた時代背景や、東山道・中仙道と恵那地方一帯が見渡せる保古山という地理から、美濃・信濃・三河周辺地域を監視するための延暦寺の前線基地といった意味合いもあったと考えられている。<br />
* 里人には無人の別荘と林業者のプレハブが建ち並ぶ肝試し的な場所としての印象も強い。昭和50年代にプレハブの代わりに置いてあった廃バスは現在は朽ち果て熊笹に沈んでいる。<br />
<br />
== 参照 ==<br />
* [[龍泉寺道]]<br />
* [[岩村城の戦い]]<br />
* [[血洗神社]]<br />
* [[巖邑府誌/安岐#龍泉寺]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* 中津川市デジタルアーカイブ [http://www.city.nakatsugawa.gifu.jp/archives/sheet.php?code=2156 木造馬頭観世音菩薩像]<br />
<br />
[[Category:二分団|りゆうせんしあと]]<br />
[[Category:神社仏閣|りゆうせんしあと]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E9%BE%8D%E6%B3%89%E5%AF%BA%E8%B7%A1
龍泉寺跡
2013-08-12T14:32:30Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>{{infobox<br />
|タイトル=神社仏閣<br />
|名称=龍泉寺跡<br />
|画像=龍泉寺 跡地01.jpg<br />
|所在地=岐阜県中津川市阿木字竜泉寺<br />
|位置=<map title="龍泉寺跡" lon="137.504830" lat="35.435169" label="short"/><br />
|標高=868m<br />
|宗派=[[w:天台宗|天台宗]]<br />
|本尊=[[w:馬頭観音|馬頭観世音菩薩]] (岐阜県指定文化財/[[萬嶽寺]]管理)<br />
|祭神={{ruby|[[w:大山祇神|大山祇神]]|オオヤマツミノカミ}} (山祇神社/[[血洗神社]]へ遷座)<br />
|遺構=馬頭観音堂礎石、碑石<br />
|交通=国道363号線から[[根の上高原]]へ向かう市道の右側。<br />
}}<br />
<br />
{{ruby|'''補陀山龍泉寺'''|ほださんりゅうせんじ}}は室町時代に建立され戦国の世に焼失した[[保古山]]の寺院。現在は石碑と観音堂、池、井戸の遺構のみが残っている。<br />
<br />
兵火を免れた寄木造りの[[馬頭観世音菩薩]]は江戸時代に再建された観音堂に祀られていたが、現在は<strong>根ノ上観音</strong> (岐阜県重要文化財) として[[萬嶽寺]]が管理している。今は根ノ上観音は秘仏となっており恵那三十三観音参りの時期に合わせて4月と10月の12〜18日の間のみ開帳している。<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
<br />
{| style="font-size:0.9em;line-height:115%;padding:0px;"<br />
|-<br />
| 1501年頃 {{note|(文亀年間/室町)}} || 龍泉寺建立。<br />
|-<br />
| {{年号|1574}} || 武田勝頼の軍勢により焼き討ちに遭う。<br />
|-<br />
| {{年号|1617}} || 岩村城主 [[丹羽氏信]]が跡地に観音堂を再建。<br />
|-<br />
| {{年号|1911}} || 龍泉寺管轄の土地を売却。<br />
|-<br />
| {{年号|1934}} || {{ruby|[[w:大山祇神|大山祇神]]|オオヤマツミノカミ}}を[[血洗神社]]に遷座。<br />
|-<br />
| {{年号|1969}} || 本尊の馬頭観世音菩薩が岐阜県重要文化財指定。<br />
|}<br />
<br />
== 風景 ==<br />
<br />
=== 石碑 ===<br />
<gallery><br />
File:龍泉寺 跡地01.jpg|<map title="龍泉寺" lon="137.504830" lat="35.435169"/>09/02/21 別荘地にたたずむ龍泉寺跡。<br />
File:龍泉寺 跡地02.jpg|<map title="龍泉寺" lon="137.504830" lat="35.435169"/>09/02/21 石碑と地蔵が立っている。<br />
File:龍泉寺 跡地03.jpg|<map title="龍泉寺" lon="137.504830" lat="35.435169"/>09/02/21 古い歴史を持ちそうな石。<br />
</gallery><br />
<br />
=== 池・井戸跡 ===<br />
<gallery><br />
File:龍泉寺井戸跡 Well Ruins of Ryusenji Temple.JPG|<map title="龍泉寺 井戸跡" lon="137.5049516667" lat="35.4354333333"/>13/08/12 道沿いプレハブ小屋の裏に井戸跡。真夏だが水がたまっている。<br />
File:龍泉寺池跡 Pond Ruins of Ryusenji Temple.JPG|<map title="龍泉寺 池跡" lat="35.4354866667" lon="137.5047550000"/>13/08/12 井戸跡から10mほど離れたくぼみが池跡。<br />
</gallery><br />
<br />
=== 観音堂跡 ===<br />
<gallery><br />
File:龍泉寺観音堂跡 Kannon-do Hall Ruins of Ryusenji Temple.JPG|<map title="龍泉寺 観音堂跡" lat="35.4349983333" lon="137.5051466667"/>13/08/12 石碑の少し先の別荘横に観音堂跡が残っている。<br />
File:龍泉寺観音堂跡 Kannon-do Hall Ruins of Ryusenji Temple 2.JPG|<map title="龍泉寺 観音堂跡" lat="35.4349800000" lon="137.5052233333"/>13/08/12 観音石仏と礎石が残っている。<br />
</gallery><br />
<br />
== 碑文 ==<br />
跡地に建てられている一番大きな龍泉寺・山祇神社の石碑には以下のように彫られている (一部判読不能)。<br />
<br />
<hibun photo="09/02/21=龍泉寺 碑文01.jpg"><br />
<div><br />
'''旧跡 龍泉寺 山祇神社'''<br/>龍泉寺は浦陀山と号し文亀年中の創建と伝えられ馬頭観音を本尊とし天台宗に属す。天正二年武田勢の兵火により僧堂悉く灰燼に帰したが本尊は難を逃れ後に萬嶽寺へ移祀され昭和四十四年岐阜県指定文化財とさる。山祇神社は祭神に大山祇命を奉斉し龍泉寺及び近隣山林の守護神として祀られ同寺焼失後境内境外山林に同神社所属の官有地となっていたが、明治四十四年一部を残し民間に拂下げられ同神社は昭和九年村社血洗神社へ遷座合祀された。昭和十七年松下開発株式会社並に株式会社大地…此の地域…当たり両社の協力により…拝を永久に保存し古暦を偲び碑を建てる。<br />
</div><br />
<div style="text-align:right;">昭和四十七年五月吉日 山祇神社氏子一同</div><br />
</hibun><br />
<br />
浦陀は一般には通じず、後述の[[巖邑府誌]]からも{{ruby|補陀|ほだ}}の誤字か当て字と考えられる。補陀山は[[w:補陀落|補陀落]]とも呼ばれ、南海にあり観音が浄土する山を意味している。チベットのポタラ宮と同じサンスクリット語のポタラカを語源としている。<br />
<br />
1501年頃(文亀年間)〜1574年(天正2年) は室町時代の後期、つまり龍泉寺は日本が戦国時代へ突入しようという時に建立された (現在萬嶽寺に納められている馬頭観世音菩薩が室町時代のものと言われているのはこれが根拠だろうか)。<br />
<br />
天正2年は武田軍の手に落ちた岩村城に[[w:武田勝頼|武田勝頼]]が入城した年。この時勝頼はまだ遠山勢の手にあった遠山十八子城を全て落とし、周辺の神社仏閣などを手当たり次第に焼き払ったと伝えられている ([[岩村城の戦い]]参照)。<br />
<br />
向かって右には馬頭観世音の石碑が建てられている。背面の碑文によればこれは {{年号|1978}} に山祇神社氏子総代の方の遺言によって建立されたものである。<br />
<br />
<hibun photo="09/02/21=龍泉寺 碑文02.jpg"><br />
<div>'''碑文'''<br/>昭和四十六年頃此の地方一帯は開発造成され旧龍泉寺跡 (山祇神社所有地) も売却処分する事となり西尾鍚雄氏は当時氏子総代会長として補償交渉に当られました。生前氏は往時を偲び同寺本尊馬頭観世音の建碑を望んで居られたが昭和五十二年七月志し成らずして不帰の人となられました。遺言により金壱拾萬圓也を寄進せられ昭和五十三年五月三日之を建立す。氏子一同</div><br />
</hibun><br />
<br />
== 文献散策 ==<br />
=== 巖邑府誌 ===<br />
{{年号|1751}} に書かれた[[巖邑府誌]]の[[巖邑府誌/安岐#龍泉寺|龍泉寺]]より。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
○'''龍泉寺'''は行事岳と呼ばれる村の東の高山の北山の上にある。補陀山龍泉寺という號の一草堂に観音像を安置しており仲春の初午に祭っている。住職は居らず現在は清宝院の尼が仮で寺務を執り行っている。この草堂は寛永 17 年に岩村藩主丹羽氏信侯が再建したものである。草堂の傍らには神祠があり、また血洗池と呼ばれる池がある。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
阿木の東の高山で龍泉寺跡の南とは[[天狗森山]]や[[橋ヶ谷山]]を指しているものと思われる。俗に[[阿木山]]と呼ばれる山々は古くは'''行事岳'''と呼ばれていたことが分かる。<br />
<br />
{{ruby|仲春|ちゅうしゅん}}とは陰暦の 2 月。{{ruby|[[w:初午|初午]]|はつうま}}は旧暦 2 月の最初の午日。龍泉寺焼き討ちより 66 年後の {{年号|1640}} には焼失を免れた馬頭観音菩薩が再び祀られ、岩村府誌が書かれた {{年号|1751}} にもまだ観音堂が建っていた。寛永 17 年は岩村城主{{ruby|[[w:丹羽氏信|丹羽氏信]]|にわうじのぶ}}によって賽之神神社や三森神社の祠が建てられている事から、この年は藩内で神社仏閣整備が行われたものと思われる。<br />
<br />
清宝院がどこであるかは不明。[[龍泉寺道]]では山野田にあった浄光院が預かっていたと書かれているためその跡を継いだ寺かもしれない。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
竜泉寺の西の麓には広く原野があり、その土地はやせている。ここの人の住む村は大野という名である (現在は大野と{{ruby|広阜|ひろおか}}の二地域となっている)。この地は阿木の東境に接しており全て阿木の部落である。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
巖邑府誌の書かれた江戸中期には大野はやせた土地であったという。また文脈から現在の広岡が大野より後に開拓された事が読み取れる。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
北野[[w:大智寺_(岐阜市)|大智寺]]<map title="" lon="136.841194" lat="35.509828"/>の桃翁が東濃大野大禅寺の南陔兄に贈った詩がある。<br />
<blockquote><br />
<div style="font-size:smaller;"><br />
山中冝<sub>シ</sub><sup>レ</sup>棲白雲身<br/><br />
露井秋風憶<sub>フ</sub><sup>レ</sup>古人<sub>ヲ</sub><br/><br />
寺下灘声居<sub>リテ</sub>自<sub>ラ</sub>聴<sub>ク</sub><br/><br />
安禅応<sub>ニ</sub><sup>ン三</sup>永<sub>ク</sub>嘱<sub>ス</sub><sup>二</sup>龍神<sub>ニ</sub><sup>一</sup><br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
この序によれば東濃大野村の吉祥山大禅寺とは{{ruby|峰翁祖一|ほうおうそいつ}}禅師<br />
開山の道場である (祖一については[[巖邑府誌/大円寺|大円寺記]]参照)。山や川がこの傍らを巡り、何より{{ruby|灘声|たんせい}} {{note|(急流の響き)}} がやかましい。あるとき一人の老翁が説法を聞きに訪れた折りに師は灘声が疎ましいと告げた。翁は私の力でこれを移して見せようと言った。師はにわかには信じられなかったのだが、しばらくすると雷鳴が轟き始め翁は竜となり井戸に消えた。その中から雲がわき起こり大雨が三日続いて山河は水で満たされ、そしてその急流は三里 {{note|(1.6km)}} ほど遠くに移動したと云う。この事から祠を建てて竜を祭り、昔から水無明神と呼ばれている。今でも大野村に井戸がないのはこのためだと。<br />
<br />
桃翁も南陔もいつの人間か分からないが、思うに勝国以前の人物であろう。この伝承は竜泉と称するのに十分な根拠である。多分に水無明神は山頂の神祠、竜が消えた露天の井戸はその傍らの池であろう。大野には井戸が無く村民が皆川の水を酌んでいるのは今なおそのようである。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
現在の大野に寺院があったという話は存在しない。[[巖邑府誌/飯妻]]の項に書かれているように、吉祥山大禅寺とは現在の禅林寺の前にあった飯沼のお寺なのかもしれない。<br />
<br />
龍泉寺跡の観音堂に馬頭観音像と一緒に祀られていたのは山の神 (大山祇神) である。このため龍を祀った水無明神という件もよく分からない。当時はそのような神が祀られていたのか、現在の字川上 7834 に[[水神神社]]<map title="" lon="137.528333" lat="35.439062"/>とあるのがこれを指しているのかもしれない。<br />
<br />
また大野なら掘れば水が出ると思うのだが井戸はなかったと書かれている。<br />
<br />
=== 角川日本地名大辞典 ===<br />
日本地名大辞典<ref><strong>角川日本地名大辞典 21 岐阜県</strong>, <i>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三</i>, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040014906</ref>の''阿木''の項には以下の記述がある。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
竜泉寺山に寛永17年より馬頭観音をまつり、<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
巖邑府誌と同様に寛永 17 年に馬頭観音が祀られたと書かれている。ただし武田の軍勢による焼き討ちには触れられていない。龍泉寺山とは保古山を指しているのだろうか? 現在の龍泉寺跡は山と言うより峠か尾根といったところである。<br />
<br />
また同書中津川市の''寺社と信仰''の項には以下のように書かれている。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
阿木竜泉寺跡にあった馬頭観音堂は、初午の日に馬を引き参詣する人を集めたが、現在は礎跡を残すのみである。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
この記述からは里人にとって初午参りが馬や牛を祭るものであったこと、また観音堂が建立された江戸時代初期の頃には龍泉寺まで馬を連れて行けるほどの道があったことが窺える。<br />
<br />
<references/><br />
<br />
== 伝承と四方山話 ==<br />
* 寺領は手賀野から千旦林周辺と聞く。当時の岩村藩には[[遠山荘]]だけでなく延暦寺領など小さな荘園も点在していた。<br />
* 焼失を免れた龍泉寺の山門が後に麓に移されたとも聞くが詳細は不明。<br />
* 天台宗が武装勢力として全国へ勢力を伸ばしていた時代背景や、東山道・中仙道と恵那地方一帯が見渡せる保古山という地理から、美濃・信濃・三河周辺地域を監視するための延暦寺の前線基地といった意味合いもあったと考えられている。<br />
* 里人には無人の別荘と林業者のプレハブが建ち並ぶ肝試し的な場所としての印象も強い。昭和50年代にプレハブの代わりに置いてあった廃バスは現在は朽ち果て熊笹に沈んでいる。<br />
<br />
== 参照 ==<br />
* [[龍泉寺道]]<br />
* [[岩村城の戦い]]<br />
* [[血洗神社]]<br />
* [[巖邑府誌/安岐#龍泉寺]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* 中津川市デジタルアーカイブ [http://www.city.nakatsugawa.gifu.jp/archives/sheet.php?code=2156 木造馬頭観世音菩薩像]<br />
<br />
[[Category:二分団|りゆうせんしあと]]<br />
[[Category:神社仏閣|りゆうせんしあと]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E9%BE%8D%E6%B3%89%E5%AF%BA%E8%B7%A1
龍泉寺跡
2013-08-12T13:23:23Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>{{infobox<br />
|タイトル=神社仏閣<br />
|名称=龍泉寺跡<br />
|画像=龍泉寺 跡地01.jpg<br />
|所在地=岐阜県中津川市阿木字竜泉寺<br />
|位置=<map title="龍泉寺跡" lon="137.504830" lat="35.435169" label="short"/><br />
|標高=868m<br />
|宗派=[[w:天台宗|天台宗]]<br />
|本尊=[[w:馬頭観音|馬頭観世音菩薩]] (岐阜県指定文化財/[[萬嶽寺]]管理)<br />
|祭神={{ruby|[[w:大山祇神|大山祇神]]|オオヤマツミノカミ}} (山祇神社/[[血洗神社]]へ遷座)<br />
|遺構=馬頭観音堂礎石、碑石<br />
|交通=国道363号線から[[根の上高原]]へ向かう市道の右側。<br />
}}<br />
<br />
{{ruby|'''補陀山龍泉寺'''|ほださんりゅうせんじ}}は室町時代に建立され戦国の世に焼失した保古山の寺院。現在は石碑と観音堂、池、井戸の遺構のみが残っている。<br />
<br />
兵火を免れた寄木造りの[[馬頭観世音菩薩]]は江戸時代に再建された観音堂に祀られていたが、現在は<strong>根ノ上観音</strong> (岐阜県重要文化財) として[[萬嶽寺]]が管理している。今は根ノ上観音は秘仏となっており恵那三十三観音参りの時期に合わせて4月と10月の12〜18日の間のみ開帳している。<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
<br />
{| style="font-size:0.9em;line-height:115%;padding:0px;"<br />
|-<br />
| 1501年頃 {{note|(文亀年間/室町)}} || 龍泉寺建立。<br />
|-<br />
| {{年号|1574}} || 武田勝頼の軍勢により焼き討ちに遭う。<br />
|-<br />
| {{年号|1617}} || 岩村城主 [[丹羽氏信]]が跡地に観音堂を再建。<br />
|-<br />
| {{年号|1911}} || 龍泉寺管轄の土地を売却。<br />
|-<br />
| {{年号|1934}} || {{ruby|[[w:大山祇神|大山祇神]]|オオヤマツミノカミ}}を[[血洗神社]]に遷座。<br />
|-<br />
| {{年号|1969}} || 本尊の馬頭観世音菩薩が岐阜県重要文化財指定。<br />
|}<br />
<br />
== 風景 ==<br />
<gallery><br />
File:龍泉寺 跡地01.jpg|<map title="龍泉寺" lon="137.504830" lat="35.435169"/>09/02/21 別荘地にたたずむ龍泉寺跡。<br />
File:龍泉寺 跡地02.jpg|<map title="龍泉寺" lon="137.504830" lat="35.435169"/>09/02/21 石碑と地蔵が立っている。<br />
File:龍泉寺 跡地03.jpg|<map title="龍泉寺" lon="137.504830" lat="35.435169"/>09/02/21 古い歴史を持ちそうな石。<br />
</gallery><br />
<br />
== 碑文 ==<br />
跡地に建てられている一番大きな龍泉寺・山祇神社の石碑には以下のように彫られている (一部判読不能)。<br />
<br />
<hibun photo="09/02/21=龍泉寺 碑文01.jpg"><br />
<div><br />
'''旧跡 龍泉寺 山祇神社'''<br/>龍泉寺は浦陀山と号し文亀年中の創建と伝えられ馬頭観音を本尊とし天台宗に属す。天正二年武田勢の兵火により僧堂悉く灰燼に帰したが本尊は難を逃れ後に萬嶽寺へ移祀され昭和四十四年岐阜県指定文化財とさる。山祇神社は祭神に大山祇命を奉斉し龍泉寺及び近隣山林の守護神として祀られ同寺焼失後境内境外山林に同神社所属の官有地となっていたが、明治四十四年一部を残し民間に拂下げられ同神社は昭和九年村社血洗神社へ遷座合祀された。昭和十七年松下開発株式会社並に株式会社大地…此の地域…当たり両社の協力により…拝を永久に保存し古暦を偲び碑を建てる。<br />
</div><br />
<div style="text-align:right;">昭和四十七年五月吉日 山祇神社氏子一同</div><br />
</hibun><br />
<br />
浦陀は一般には通じず、後述の[[巖邑府誌]]からも{{ruby|補陀|ほだ}}の誤字か当て字と考えられる。補陀山は[[w:補陀落|補陀落]]とも呼ばれ、南海にあり観音が浄土する山を意味している。チベットのポタラ宮と同じサンスクリット語のポタラカを語源としている。<br />
<br />
1501年頃(文亀年間)〜1574年(天正2年) は室町時代の後期、つまり龍泉寺は日本が戦国時代へ突入しようという時に建立された (現在萬嶽寺に納められている馬頭観世音菩薩が室町時代のものと言われているのはこれが根拠だろうか)。<br />
<br />
天正2年は武田軍の手に落ちた岩村城に[[w:武田勝頼|武田勝頼]]が入城した年。この時勝頼はまだ遠山勢の手にあった遠山十八子城を全て落とし、周辺の神社仏閣などを手当たり次第に焼き払ったと伝えられている ([[岩村城の戦い]]参照)。<br />
<br />
向かって右には馬頭観世音の石碑が建てられている。背面の碑文によればこれは {{年号|1978}} に山祇神社氏子総代の方の遺言によって建立されたものである。<br />
<br />
<hibun photo="09/02/21=龍泉寺 碑文02.jpg"><br />
<div>'''碑文'''<br/>昭和四十六年頃此の地方一帯は開発造成され旧龍泉寺跡 (山祇神社所有地) も売却処分する事となり西尾鍚雄氏は当時氏子総代会長として補償交渉に当られました。生前氏は往時を偲び同寺本尊馬頭観世音の建碑を望んで居られたが昭和五十二年七月志し成らずして不帰の人となられました。遺言により金壱拾萬圓也を寄進せられ昭和五十三年五月三日之を建立す。氏子一同</div><br />
</hibun><br />
<br />
== 文献散策 ==<br />
=== 巖邑府誌 ===<br />
{{年号|1751}} に書かれた[[巖邑府誌]]の[[巖邑府誌/安岐#龍泉寺|龍泉寺]]より。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
○'''龍泉寺'''は行事岳と呼ばれる村の東の高山の北山の上にある。補陀山龍泉寺という號の一草堂に観音像を安置しており仲春の初午に祭っている。住職は居らず現在は清宝院の尼が仮で寺務を執り行っている。この草堂は寛永 17 年に岩村藩主丹羽氏信侯が再建したものである。草堂の傍らには神祠があり、また血洗池と呼ばれる池がある。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
阿木の東の高山で龍泉寺跡の南とは[[天狗森山]]や[[橋ヶ谷山]]を指しているものと思われる。俗に[[阿木山]]と呼ばれる山々は古くは'''行事岳'''と呼ばれていたことが分かる。<br />
<br />
{{ruby|仲春|ちゅうしゅん}}とは陰暦の 2 月。{{ruby|[[w:初午|初午]]|はつうま}}は旧暦 2 月の最初の午日。龍泉寺焼き討ちより 66 年後の {{年号|1640}} には焼失を免れた馬頭観音菩薩が再び祀られ、岩村府誌が書かれた {{年号|1751}} にもまだ観音堂が建っていた。寛永 17 年は岩村城主{{ruby|[[w:丹羽氏信|丹羽氏信]]|にわうじのぶ}}によって賽之神神社や三森神社の祠が建てられている事から、この年は藩内で神社仏閣整備が行われたものと思われる。<br />
<br />
清宝院がどこであるかは不明。[[龍泉寺道]]では山野田にあった浄光院が預かっていたと書かれているためその跡を継いだ寺かもしれない。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
竜泉寺の西の麓には広く原野があり、その土地はやせている。ここの人の住む村は大野という名である (現在は大野と{{ruby|広阜|ひろおか}}の二地域となっている)。この地は阿木の東境に接しており全て阿木の部落である。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
巖邑府誌の書かれた江戸中期には大野はやせた土地であったという。また文脈から現在の広岡が大野より後に開拓された事が読み取れる。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
北野[[w:大智寺_(岐阜市)|大智寺]]<map title="" lon="136.841194" lat="35.509828"/>の桃翁が東濃大野大禅寺の南陔兄に贈った詩がある。<br />
<blockquote><br />
<div style="font-size:smaller;"><br />
山中冝<sub>シ</sub><sup>レ</sup>棲白雲身<br/><br />
露井秋風憶<sub>フ</sub><sup>レ</sup>古人<sub>ヲ</sub><br/><br />
寺下灘声居<sub>リテ</sub>自<sub>ラ</sub>聴<sub>ク</sub><br/><br />
安禅応<sub>ニ</sub><sup>ン三</sup>永<sub>ク</sub>嘱<sub>ス</sub><sup>二</sup>龍神<sub>ニ</sub><sup>一</sup><br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
この序によれば東濃大野村の吉祥山大禅寺とは{{ruby|峰翁祖一|ほうおうそいつ}}禅師<br />
開山の道場である (祖一については[[巖邑府誌/大円寺|大円寺記]]参照)。山や川がこの傍らを巡り、何より{{ruby|灘声|たんせい}} {{note|(急流の響き)}} がやかましい。あるとき一人の老翁が説法を聞きに訪れた折りに師は灘声が疎ましいと告げた。翁は私の力でこれを移して見せようと言った。師はにわかには信じられなかったのだが、しばらくすると雷鳴が轟き始め翁は竜となり井戸に消えた。その中から雲がわき起こり大雨が三日続いて山河は水で満たされ、そしてその急流は三里 {{note|(1.6km)}} ほど遠くに移動したと云う。この事から祠を建てて竜を祭り、昔から水無明神と呼ばれている。今でも大野村に井戸がないのはこのためだと。<br />
<br />
桃翁も南陔もいつの人間か分からないが、思うに勝国以前の人物であろう。この伝承は竜泉と称するのに十分な根拠である。多分に水無明神は山頂の神祠、竜が消えた露天の井戸はその傍らの池であろう。大野には井戸が無く村民が皆川の水を酌んでいるのは今なおそのようである。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
現在の大野に寺院があったという話は存在しない。[[巖邑府誌/飯妻]]の項に書かれているように、吉祥山大禅寺とは現在の禅林寺の前にあった飯沼のお寺なのかもしれない。<br />
<br />
龍泉寺跡の観音堂に馬頭観音像と一緒に祀られていたのは山の神 (大山祇神) である。このため龍を祀った水無明神という件もよく分からない。当時はそのような神が祀られていたのか、現在の字川上 7834 に[[水神神社]]<map title="" lon="137.528333" lat="35.439062"/>とあるのがこれを指しているのかもしれない。<br />
<br />
また大野なら掘れば水が出ると思うのだが井戸はなかったと書かれている。<br />
<br />
=== 角川日本地名大辞典 ===<br />
日本地名大辞典<ref><strong>角川日本地名大辞典 21 岐阜県</strong>, <i>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三</i>, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040014906</ref>の''阿木''の項には以下の記述がある。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
竜泉寺山に寛永17年より馬頭観音をまつり、<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
巖邑府誌と同様に寛永 17 年に馬頭観音が祀られたと書かれている。ただし武田の軍勢による焼き討ちには触れられていない。龍泉寺山とは保古山を指しているのだろうか? 現在の龍泉寺跡は山と言うより峠か尾根といったところである。<br />
<br />
また同書中津川市の''寺社と信仰''の項には以下のように書かれている。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
阿木竜泉寺跡にあった馬頭観音堂は、初午の日に馬を引き参詣する人を集めたが、現在は礎跡を残すのみである。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
この記述からは里人にとって初午参りが馬や牛を祭るものであったこと、また観音堂が建立された江戸時代初期の頃には龍泉寺まで馬を連れて行けるほどの道があったことが窺える。<br />
<br />
<references/><br />
<br />
== 伝承と四方山話 ==<br />
* 寺領は手賀野から千旦林周辺と聞く。当時の岩村藩には[[遠山荘]]だけでなく延暦寺領など小さな荘園も点在していた。<br />
* 焼失を免れた龍泉寺の山門が後に麓に移されたとも聞くが詳細は不明。<br />
* 天台宗が武装勢力として全国へ勢力を伸ばしていた時代背景や、東山道・中仙道と恵那地方一帯が見渡せる保古山という地理から、美濃・信濃・三河周辺地域を監視するための延暦寺の前線基地といった意味合いもあったと考えられている。<br />
* 里人には無人の別荘と林業者のプレハブが建ち並ぶ肝試し的な場所としての印象も強い。昭和50年代にプレハブの代わりに置いてあった廃バスは現在は朽ち果て熊笹に沈んでいる。<br />
<br />
== 参照 ==<br />
* [[龍泉寺道]]<br />
* [[岩村城の戦い]]<br />
* [[血洗神社]]<br />
* [[巖邑府誌/安岐#龍泉寺]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* 中津川市デジタルアーカイブ [http://www.city.nakatsugawa.gifu.jp/archives/sheet.php?code=2156 木造馬頭観世音菩薩像]<br />
<br />
[[Category:二分団|りゆうせんしあと]]<br />
[[Category:神社仏閣|りゆうせんしあと]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E9%BE%8D%E6%B3%89%E5%AF%BA%E8%B7%A1
龍泉寺跡
2013-08-12T13:21:23Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>{{infobox<br />
|タイトル=神社仏閣<br />
|名称=龍泉寺跡<br />
|画像=龍泉寺 跡地01.jpg<br />
|所在地=岐阜県中津川市阿木字竜泉寺<br />
|位置=<map title="龍泉寺跡" lon="137.504830" lat="35.435169" label="short"/><br />
|標高=868m<br />
|宗派=[[w:天台宗|天台宗]]<br />
|本尊=[[w:馬頭観音|馬頭観世音菩薩]] (岐阜県指定文化財/[[萬嶽寺]]管理)<br />
|祭神={{ruby|[[w:大山祇神|大山祇神]]|オオヤマツミノカミ}} (山祇神社/[[血洗神社]]へ遷座)<br />
|遺構=馬頭観音堂礎石、碑石<br />
|交通=国道363号線から[[根の上高原]]へ向かう市道の右側。<br />
}}<br />
<br />
{{ruby|'''補陀山龍泉寺'''|ほださんりゅうせんじ}}は室町時代に建立され戦国の世に焼失した保古山の寺院。現在は石碑と観音堂の遺構のみが残っている。<br />
<br />
兵火を免れた寄木造りの[[馬頭観世音菩薩]]は江戸時代に再建された観音堂に祀られていたが、現在は<strong>根ノ上観音</strong> (岐阜県重要文化財) として[[萬嶽寺]]が管理している。今は根ノ上観音は秘仏となっており恵那三十三観音参りの時期に合わせて4月と10月の12〜18日の間のみ開帳している。<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
<br />
{| style="font-size:0.9em;line-height:115%;padding:0px;"<br />
|-<br />
| 1501年頃 {{note|(文亀年間/室町)}} || 龍泉寺建立。<br />
|-<br />
| {{年号|1574}} || 武田勝頼の軍勢により焼き討ちに遭う。<br />
|-<br />
| {{年号|1617}} || 岩村城主 [[丹羽氏信]]が跡地に観音堂を再建。<br />
|-<br />
| {{年号|1911}} || 龍泉寺管轄の土地を売却。<br />
|-<br />
| {{年号|1934}} || {{ruby|[[w:大山祇神|大山祇神]]|オオヤマツミノカミ}}を[[血洗神社]]に遷座。<br />
|-<br />
| {{年号|1969}} || 本尊の馬頭観世音菩薩が岐阜県重要文化財指定。<br />
|}<br />
<br />
== 風景 ==<br />
<gallery><br />
File:龍泉寺 跡地01.jpg|<map title="龍泉寺" lon="137.504830" lat="35.435169"/>09/02/21 別荘地にたたずむ龍泉寺跡。<br />
File:龍泉寺 跡地02.jpg|<map title="龍泉寺" lon="137.504830" lat="35.435169"/>09/02/21 石碑と地蔵が立っている。<br />
File:龍泉寺 跡地03.jpg|<map title="龍泉寺" lon="137.504830" lat="35.435169"/>09/02/21 古い歴史を持ちそうな石。<br />
</gallery><br />
<br />
== 碑文 ==<br />
跡地に建てられている一番大きな龍泉寺・山祇神社の石碑には以下のように彫られている (一部判読不能)。<br />
<br />
<hibun photo="09/02/21=龍泉寺 碑文01.jpg"><br />
<div><br />
'''旧跡 龍泉寺 山祇神社'''<br/>龍泉寺は浦陀山と号し文亀年中の創建と伝えられ馬頭観音を本尊とし天台宗に属す。天正二年武田勢の兵火により僧堂悉く灰燼に帰したが本尊は難を逃れ後に萬嶽寺へ移祀され昭和四十四年岐阜県指定文化財とさる。山祇神社は祭神に大山祇命を奉斉し龍泉寺及び近隣山林の守護神として祀られ同寺焼失後境内境外山林に同神社所属の官有地となっていたが、明治四十四年一部を残し民間に拂下げられ同神社は昭和九年村社血洗神社へ遷座合祀された。昭和十七年松下開発株式会社並に株式会社大地…此の地域…当たり両社の協力により…拝を永久に保存し古暦を偲び碑を建てる。<br />
</div><br />
<div style="text-align:right;">昭和四十七年五月吉日 山祇神社氏子一同</div><br />
</hibun><br />
<br />
浦陀は一般には通じず、後述の[[巖邑府誌]]からも{{ruby|補陀|ほだ}}の誤字か当て字と考えられる。補陀山は[[w:補陀落|補陀落]]とも呼ばれ、南海にあり観音が浄土する山を意味している。チベットのポタラ宮と同じサンスクリット語のポタラカを語源としている。<br />
<br />
1501年頃(文亀年間)〜1574年(天正2年) は室町時代の後期、つまり龍泉寺は日本が戦国時代へ突入しようという時に建立された (現在萬嶽寺に納められている馬頭観世音菩薩が室町時代のものと言われているのはこれが根拠だろうか)。<br />
<br />
天正2年は武田軍の手に落ちた岩村城に[[w:武田勝頼|武田勝頼]]が入城した年。この時勝頼はまだ遠山勢の手にあった遠山十八子城を全て落とし、周辺の神社仏閣などを手当たり次第に焼き払ったと伝えられている ([[岩村城の戦い]]参照)。<br />
<br />
向かって右には馬頭観世音の石碑が建てられている。背面の碑文によればこれは {{年号|1978}} に山祇神社氏子総代の方の遺言によって建立されたものである。<br />
<br />
<hibun photo="09/02/21=龍泉寺 碑文02.jpg"><br />
<div>'''碑文'''<br/>昭和四十六年頃此の地方一帯は開発造成され旧龍泉寺跡 (山祇神社所有地) も売却処分する事となり西尾鍚雄氏は当時氏子総代会長として補償交渉に当られました。生前氏は往時を偲び同寺本尊馬頭観世音の建碑を望んで居られたが昭和五十二年七月志し成らずして不帰の人となられました。遺言により金壱拾萬圓也を寄進せられ昭和五十三年五月三日之を建立す。氏子一同</div><br />
</hibun><br />
<br />
== 文献散策 ==<br />
=== 巖邑府誌 ===<br />
{{年号|1751}} に書かれた[[巖邑府誌]]の[[巖邑府誌/安岐#龍泉寺|龍泉寺]]より。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
○'''龍泉寺'''は行事岳と呼ばれる村の東の高山の北山の上にある。補陀山龍泉寺という號の一草堂に観音像を安置しており仲春の初午に祭っている。住職は居らず現在は清宝院の尼が仮で寺務を執り行っている。この草堂は寛永 17 年に岩村藩主丹羽氏信侯が再建したものである。草堂の傍らには神祠があり、また血洗池と呼ばれる池がある。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
阿木の東の高山で龍泉寺跡の南とは[[天狗森山]]や[[橋ヶ谷山]]を指しているものと思われる。俗に[[阿木山]]と呼ばれる山々は古くは'''行事岳'''と呼ばれていたことが分かる。<br />
<br />
{{ruby|仲春|ちゅうしゅん}}とは陰暦の 2 月。{{ruby|[[w:初午|初午]]|はつうま}}は旧暦 2 月の最初の午日。龍泉寺焼き討ちより 66 年後の {{年号|1640}} には焼失を免れた馬頭観音菩薩が再び祀られ、岩村府誌が書かれた {{年号|1751}} にもまだ観音堂が建っていた。寛永 17 年は岩村城主{{ruby|[[w:丹羽氏信|丹羽氏信]]|にわうじのぶ}}によって賽之神神社や三森神社の祠が建てられている事から、この年は藩内で神社仏閣整備が行われたものと思われる。<br />
<br />
清宝院がどこであるかは不明。[[龍泉寺道]]では山野田にあった浄光院が預かっていたと書かれているためその跡を継いだ寺かもしれない。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
竜泉寺の西の麓には広く原野があり、その土地はやせている。ここの人の住む村は大野という名である (現在は大野と{{ruby|広阜|ひろおか}}の二地域となっている)。この地は阿木の東境に接しており全て阿木の部落である。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
巖邑府誌の書かれた江戸中期には大野はやせた土地であったという。また文脈から現在の広岡が大野より後に開拓された事が読み取れる。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
北野[[w:大智寺_(岐阜市)|大智寺]]<map title="" lon="136.841194" lat="35.509828"/>の桃翁が東濃大野大禅寺の南陔兄に贈った詩がある。<br />
<blockquote><br />
<div style="font-size:smaller;"><br />
山中冝<sub>シ</sub><sup>レ</sup>棲白雲身<br/><br />
露井秋風憶<sub>フ</sub><sup>レ</sup>古人<sub>ヲ</sub><br/><br />
寺下灘声居<sub>リテ</sub>自<sub>ラ</sub>聴<sub>ク</sub><br/><br />
安禅応<sub>ニ</sub><sup>ン三</sup>永<sub>ク</sub>嘱<sub>ス</sub><sup>二</sup>龍神<sub>ニ</sub><sup>一</sup><br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
この序によれば東濃大野村の吉祥山大禅寺とは{{ruby|峰翁祖一|ほうおうそいつ}}禅師<br />
開山の道場である (祖一については[[巖邑府誌/大円寺|大円寺記]]参照)。山や川がこの傍らを巡り、何より{{ruby|灘声|たんせい}} {{note|(急流の響き)}} がやかましい。あるとき一人の老翁が説法を聞きに訪れた折りに師は灘声が疎ましいと告げた。翁は私の力でこれを移して見せようと言った。師はにわかには信じられなかったのだが、しばらくすると雷鳴が轟き始め翁は竜となり井戸に消えた。その中から雲がわき起こり大雨が三日続いて山河は水で満たされ、そしてその急流は三里 {{note|(1.6km)}} ほど遠くに移動したと云う。この事から祠を建てて竜を祭り、昔から水無明神と呼ばれている。今でも大野村に井戸がないのはこのためだと。<br />
<br />
桃翁も南陔もいつの人間か分からないが、思うに勝国以前の人物であろう。この伝承は竜泉と称するのに十分な根拠である。多分に水無明神は山頂の神祠、竜が消えた露天の井戸はその傍らの池であろう。大野には井戸が無く村民が皆川の水を酌んでいるのは今なおそのようである。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
現在の大野に寺院があったという話は存在しない。[[巖邑府誌/飯妻]]の項に書かれているように、吉祥山大禅寺とは現在の禅林寺の前にあった飯沼のお寺なのかもしれない。<br />
<br />
龍泉寺跡の観音堂に馬頭観音像と一緒に祀られていたのは山の神 (大山祇神) である。このため龍を祀った水無明神という件もよく分からない。当時はそのような神が祀られていたのか、現在の字川上 7834 に[[水神神社]]<map title="" lon="137.528333" lat="35.439062"/>とあるのがこれを指しているのかもしれない。<br />
<br />
また大野なら掘れば水が出ると思うのだが井戸はなかったと書かれている。<br />
<br />
=== 角川日本地名大辞典 ===<br />
日本地名大辞典<ref><strong>角川日本地名大辞典 21 岐阜県</strong>, <i>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三</i>, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040014906</ref>の''阿木''の項には以下の記述がある。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
竜泉寺山に寛永17年より馬頭観音をまつり、<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
巖邑府誌と同様に寛永 17 年に馬頭観音が祀られたと書かれている。ただし武田の軍勢による焼き討ちには触れられていない。龍泉寺山とは保古山を指しているのだろうか? 現在の龍泉寺跡は山と言うより峠か尾根といったところである。<br />
<br />
また同書中津川市の''寺社と信仰''の項には以下のように書かれている。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
阿木竜泉寺跡にあった馬頭観音堂は、初午の日に馬を引き参詣する人を集めたが、現在は礎跡を残すのみである。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
この記述からは里人にとって初午参りが馬や牛を祭るものであったこと、また観音堂が建立された江戸時代初期の頃には龍泉寺まで馬を連れて行けるほどの道があったことが窺える。<br />
<br />
<references/><br />
<br />
== 伝承と四方山話 ==<br />
* 寺領は手賀野から千旦林周辺と聞く。当時の岩村藩には[[遠山荘]]だけでなく延暦寺領など小さな荘園も点在していた。<br />
* 焼失を免れた龍泉寺の山門が後に麓に移されたとも聞くが詳細は不明。<br />
* 天台宗が武装勢力として全国へ勢力を伸ばしていた時代背景や、東山道・中仙道と恵那地方一帯が見渡せる保古山という地理から、美濃・信濃・三河周辺地域を監視するための延暦寺の前線基地といった意味合いもあったと考えられている。<br />
* 里人には無人の別荘と林業者のプレハブが建ち並ぶ肝試し的な場所としての印象も強い。昭和50年代にプレハブの代わりに置いてあった廃バスは現在は朽ち果て熊笹に沈んでいる。<br />
<br />
== 参照 ==<br />
* [[龍泉寺道]]<br />
* [[岩村城の戦い]]<br />
* [[血洗神社]]<br />
* [[巖邑府誌/安岐#龍泉寺]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* 中津川市デジタルアーカイブ [http://www.city.nakatsugawa.gifu.jp/archives/sheet.php?code=2156 木造馬頭観世音菩薩像]<br />
<br />
[[Category:二分団|りゆうせんしあと]]<br />
[[Category:神社仏閣|りゆうせんしあと]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E3%81%8D%E3%82%83%E3%82%89%E3%81%B6%E3%81%8D
きゃらぶき
2013-04-23T05:19:19Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>[[File:Petasites japonicus 2.JPG|thumb|120px|ふうき]]<br />
{{ruby|'''伽羅蕗'''|きゃらぶき}}}は{{ruby|蕗|ふき}} {{note|(阿木では「ふうき」と発音する)}} の茎の部分を佃煮にした料理。比較的全国で食べられている。<br />
<br />
[[Category:食べ物|きやらふき]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E9%98%BF%E6%9C%A8%E5%9F%8E%E8%B7%A1
阿木城跡
2013-03-18T14:57:28Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>{{Infobox<br />
|タイトル=名所旧跡<br />
|名称=阿木城跡<br />
|画像=agi jogane01.jpg<br />
|所在地=岐阜県中津川市阿木字大門前<br />
|位置=<map title="阿木城跡" lon="137.462986" lat="35.401778" label="short"/><br />
|標高=532m<br />
|遺構=本曲輪、二ノ曲輪、腰曲輪、堀切<br />
|文化財=市指定史跡<br />
|交通=明知鉄道阿木駅徒歩20分<br />
}}<br />
{{ruby|'''阿木城'''|あぎじょう}}は戦国時代に築かれた中世の城。[[遠山十八支城]] (岩村城の枝城) の一つとして信長軍記、甲陽軍鑑などにその名が記されている。<br />
<br />
[[見沢八幡神社]]裏手の{{ruby|[[城ヶ峰]]|じょうがね}}と呼ばれる里山に山城の遺構が残っており、そこに城か砦のようなものがあったと古くから伝えられている。ただし石垣などのような長期にわたって居住するための遺構は存在しておらず、見張りや戦時に立て篭もるための山城だったと考えられる。<br />
<br />
現在ではこの城ヶ峰の山城跡を阿木城跡と呼んでいる。<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
[[File:Japanese Crest gosunihashi.svg|thumb|合子箸]]<br />
阿木城 (山城) がいつ頃に築かれたものなのかははっきりしていない。岩村城の[[八幡神社 (岩村)|八幡神社]]から勧請された[[八幡神社 (見沢)|神社]]があることからも、岩村遠山氏が支配していた時代である。<br />
<br />
* 永享年間 {{note|(1429-1440年/室町後期)}} 頃から遠山安木孫太郎の支配。<br />
* 文安年間 {{note|(1444-1448年/室町後期)}} 頃から遠山安木孫次郎の支配。<br />
* 応仁元年 {{note|(1467年/室町後期)}} 見聞諸家紋 其之弐拾参 三番に安木遠山氏の家紋「合子箸」あり。<br />
* 長享元年 {{note|(1487年/室町後期)}} 江州御動座到着に孫太郎の名あり<br />
* {{年号|1574}} 武田勝頼の軍勢のより陥落。<br />
* {{年号|1575}} 信長が岩村城を奪還。<br />
<br />
== 構造 ==<br />
[[File:Agijo-annnai01.png|thumb|阿木城の構造]]<br />
阿木城はまだ本格的な調査が行われていないが、脆い[[サバ]] {{note|(堆積岩)}} の山肌ながら杉の根が土壌を保持しており非常によい状態の遺構が残っている。<br />
<br />
山頂の本曲輪 (本丸) は直径50m近いほぼ円形で<strong>千畳敷</strong>と呼ばれている。この周囲に二ノ曲輪、腰曲輪、堀切などの造成跡が残っている。石垣や石段のような本曲輪への長期的・恒常的な往来を示す遺構は存在しない。脆い土壌の土塁造りながら良い状態で現在まで残っているのは現在のように造成されて期間を置かずに森に戻ったためであろう。<br />
<br />
小規模ながら本格的な造りとなっているのは、元亀3年から天正2年 {{note|(1572-1574年)}} にかけて武田軍に落とされた[[岩村城]]に対する織田方の最前線拠点となったためと推測される。織田方の兵法築城に通じた軍学者によるものか。<br />
<br />
[[File:阿木城からの景色.gif|thumb|城ヶ峰山頂から南]]<br />
本曲輪からは杉の木に遮られなければ岩村城を臨む事が出来る<ref>Google Earth で確認。本庄からでは[[打杭峠]]に阻まれて見ることが出来ない。</ref>。ただし岩村城への狼煙場というには近すぎるし、そもそも岩村城からは[[保古山]]や[[花無山]]の山頂が見えるため、それらの見張り台から直接上げた方が早いと言える。阿木は岩村・大井・中津を繋げる道の合流地点であるため、防衛拠点と併せて兵の詰め所や伝令の中継地点という役割が大きかったと思われる。<br />
<br />
また城ヶ峰の山頂は阿木の中心地域のほとんどと[[岩村街道]] ([[県道407号]]) を見渡すのにも都合が良い。<br />
{{-}}<br />
<references/><br />
<br />
== 写真集 ==<br />
<i>[[阿木城跡/写真集]]参照。</i><br />
<br />
== 文献 ==<br />
[[阿木城]]に関する諸文献。<br />
<br />
=== 美濃明細記 ===<br />
[[File:阿木城縄張図.png|thumb|阿木城縄張図]]<br />
江戸時代中期の美濃明細記<ref><strong>[http://opac.lib.ryukoku.ac.jp/kicho/exhibi/cont_02/pages_02/v_menu/0208.html 美濃明細記]</strong>, <i>伊東実臣</i>, 1738年(元文3年)</li></ref>の''[http://opac.lib.ryukoku.ac.jp/kicho/exhibi/cont_02/pages_02/0208S/02080152.html 恵那郡遠山荘]''には支城の一つとして阿木城の名前が挙げられている。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
明智 遠山氏部後相模守号乾樹院甲陽軍鑑ニハ天正二年勝頼明智城遠山与助ヲ攻取云々<br/><br />
飯羽間 遠山右衛門天正二年勝頼攻取<br/><br />
串原 遠山弥右彳 天正二年勝頼攻取<br/><br />
久須見 佐々良木 藤 阿木 野井 曽木等之城 一族居之<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
<blockquote class="translated"><br />
<div><br />
明智 遠山氏部 (後に相模守)、號は乾樹院。甲陽軍鑑に天正 2 年武田勝頼が明智城遠山与助を攻略云々とある。<br/><br />
飯羽間 遠山右衛門。天正 2 年に勝頼が攻略。<br/><br />
串原 遠山弥右衛門。天正 2 年に勝頼が攻略。<br/><br />
久須見、佐々良木、藤、阿木、野井、曽木等が一族の居た場所である。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
=== 巖邑府誌 ===<br />
美濃明細記より10年ほど後の[[巖邑府誌]]<ref><strong>巖邑府誌</strong>, <i>首藤元震</i>, 1751年(寛永4年) (<i>岩村町教育委員会</i>, 昭和53年, 大衆書房)</ref>の[[巖邑府誌/安岐|安岐]]に阿木城について詳しく書かれている。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
城山跡は本城 {{note|(本庄)}} の西にある。里人によれば昔は大藤権允という人が城を守っており、かつて[[打杭峠|打杭山]]で岩村兵と共に戦ったと云われているがいつの事であるかは分からない。また堀田某という者が城を守り見沢殿と呼ばれていた。現在も堀田という地名があり邸舎の跡もある。調べてみると遠山子城の一つに振田がある。堀田と読みが近いためこれは安岐城を指したものだろうか。<br />
</div><br />
<div><br />
邸の壁跡は現在でも残っている。農民がここを耕すと矛先ややじり、酒などを入れる瓶の破片などが掘り出される。また八屋戸 {{note|(八屋砥)}} の土地から銭をまとめる紐も見付かっている。<br />
</div><br />
<div><br />
城跡の南の鬱蒼とした森の中には[[八幡神社 (見沢)|八幡神社]]が祀られている。これは見沢社とも呼ばれ武並神が祀られているという。田畑の中に高さ数仞の鳥居があるようだが、現在見沢と言われているところは古い壇場だったのではないだろうか。もしそうなら、俗に廟社を指して宮と言うが見沢は宮沢の訛りであろう。<br />
</div><br />
<div><br />
○野田の村山にもまた砦跡がある。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
<strong>大藤権允</strong>、また<strong>堀田</strong>という者が阿木城を守っていた書かれている ([[w:甲陽軍鑑|甲陽軍鑑]]に阿木城は堀田という名で載ってるという{{要調査}})。[[堀田屋敷跡]]は現在[[倶楽部 (久須田)|久須田の倶楽部]]がある場所である。またこの他にも野田に砦跡があると書かれているが野田の古老に聞いても所在は不明である。<br />
<br />
また振田という城の名を挙げてこれが阿木城ではないかと推測しているが、甲陽軍鑑あたりに載っていた堀田という名が当時は振田で岩村に伝わっていたのかもしれない。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
○振田という城の所在は分かっていない。調べると安岐城を堀田という者が守っていたと云う。振田と堀田は読みが似ているため安岐城を指すのではないだろうか。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
=== 大日本地名辞書 ===<br />
明治時代の[[大日本地名辞書]]の''岩村城址''の項には岩村城の枝城として阿木城の名が挙げられている。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
其枝城は苗木、明智、飯羽間、串原、大井等なり、織田軍記「明智の城主、遠山勘左衛門云々、久須見、佐良木、阿木、野井、曾木の諸城」とあり、<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
また同書の''安岐郷''の項には以下のように書かれている。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
永享以来御番帳に、遠山安木孫太郎見え、また長享元年江州御動座到着に濃州遠山安城孫次郎としるし、家家紋帳にも遠山安木氏の家紋をのせたり、皆こゝの人なるべし。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
室町時代後期の永享年間 {{note|(1429-1440年)}} 頃から遠山氏族である<strong>遠山安木孫太郎</strong>が阿木村の役人だったと書かれている。いわゆる阿木遠山氏である。<br />
<br />
長享元年 {{note|(1487年)}} 江州御動座到着とは「長享元年九月十二日常徳院殿様江州御動座當時在陣衆着到」の事で、将軍{{ruby|足利義尚|あしかがよしひさ}}が室町幕府への圧力を強めていた近江守護六角頼高の討伐 ([[w:六角討伐|六角討伐]]) へ向かった時の軍記である。編成した総勢 8,000 人に及ぶ外様衆に孫太郎の弟である<strong>遠山安木孫次郎</strong>の部隊が参加していた事が分かる<ref>この時代の名前に付けられる太、次、三、四… とは嫡位 (跡継ぎの優先順位) を示している。また「孫」とは偉業をなした祖父にあやかって付ける場合が多く、つまり孫太郎の祖父の代で領地を賜り岩村遠山氏より分家独立した可能性が高い。</ref>。<br />
<br />
なお、遠山来由記には「遠山孫太郎左衛門尉景長」なる者が記載されているが、文応、弘長、文永など 1260年代頃 {{note|(鎌倉中期)}} の人物である事から遠山安岐孫太郎とは別人である<ref>こちらは初代遠山氏である遠山景朝の孫の意味と思われる。</ref>。<br />
<br />
=== 角川日本地名辞典 ===<br />
<br />
[[角川日本地名大辞典]]の''阿木''の項には遠山安木孫太郎・孫次郎が阿木村を納めていた時代が記されている。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
のち中世には遠山氏の支配するところとなり、文安番帳には安城孫次郎、永享番帳には遠山安木孫太郎の名が見える。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
孫太郎は永享年間 {{note|(1429-1440年)}} 頃、孫次郎は文安年間 {{note|(1444-1448年)}} 頃の人である。<br />
<br />
<references/><br />
<br />
== 交通 ==<br />
[[File:Topographical Map of Agi Castle.png|thumb|現地案内図<small>([[Media:Topographical Map of Agi Castle.pdf|印刷用PDF]])</small>]]<br />
* JR中央線恵那駅より明知鉄道に乗り換え阿木駅下車。本曲輪まで徒歩約20分。<br />
* 中央自動車道恵那ICより国道19号-国道257号、阿木川ダム花無山トンネル通過後左折直進。恵那ヂーゼル横のコイン精米器前もしくは阿木駅に駐車が可能 (山道入り口は小型車のみ)。<br />
{{-}}<br />
<br />
== 話題 ==<br />
* 巖邑府誌には野田にも砦の跡があると書かれているが詳細不明{{要調査}}。<br />
* 本庄という地名から、現在の[[阿木高校]]から[[忠霊塔]]、[[阿木村役場|旧村役場]]付近に城館 (本城) があったのかもしれない。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[岩村城]]<br />
* [[遠山十八支城]]<br />
* [[八幡神社 (見沢)]]<br />
* [[阿弥陀堂 (見沢)]]<br />
* [[堀田屋敷跡]]<br />
* [[岩村城の戦い]]<br />
* [[共同墓地 (見沢)]]<br />
<br />
[[Category:五分団|あきしようあと]]<br />
[[Category:旧跡|あきしようあと]]<br />
[[Category:中世|あきしようあと]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E9%98%BF%E6%9C%A8%E5%9F%8E%E7%B8%84%E5%BC%B5%E5%9B%B3.png
ファイル:阿木城縄張図.png
2013-03-18T14:54:53Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div></div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E3%82%AD%E3%83%84%E3%83%84%E3%82%AD%E3%81%A8%E9%9B%A8
キツツキと雨
2013-03-16T13:33:58Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>'''[[w:キツツキと雨|キツツキと雨]]'''は 2012 年 2 月 11 日に上映された日本の映画。第24回東京国際映画祭で審査員特別賞を受賞。第8回ドバイ国際映画祭では、最優秀脚本賞と最優秀編集賞、さらに主演の[[w:役所広司|役所広司]]が最優秀男優賞を受賞。妻を亡くし思春期の息子とうまく行かない木こり (役所広司) と、ゾンビ映画の地方ロケに訪れた映画監督 (小栗旬) が出会い映画を通じて打ち解けてゆくハートフルストーリー。<br />
<br />
福岡町や加子母の明治座などの恵北地方を中心にロケが行われ、[[阿木川]]上流でも役所広司扮するゾンビ役に奮闘するシーンの撮影が行われた。<br />
<br />
== 外部サイト ==<br />
* [http://kitsutsuki-rain.jp/ 映画『キツツキと雨』公式サイト]<br />
* [http://www.youtube.com/watch?v=rNLQPe4HvxY 『キツツキと雨』予告編]<br />
<br />
[[Category:平成|きつつきとあめ]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E5%AE%89%E5%B2%90%E9%83%B7%E8%AA%8C:%E6%9C%80%E8%BF%91%E3%81%AE%E5%87%BA%E6%9D%A5%E4%BA%8B
安岐郷誌:最近の出来事
2013-03-13T16:24:31Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>* サイトの URL を wiki.koiroha.org/agi から agi.koiroha.org へ移動します。 [[利用者:Torao|Torao]]([[利用者・トーク:Torao|トーク]]) 2013年3月14日 (木) 01:24 (JST)<br />
* 大量のスパムアカウントが作成されたため匿名ユーザによるアカウントの新規作成を制限します。 -- [[利用者:Torao|Torao]]([[利用者・トーク:Torao|トーク]]) 2012年5月21日 (月) 18:48 (JST)<br />
* さくらインターネットを 2 コア 1GB メモリプランに変更しました。-- [[利用者:Torao|Torao]] 2012年5月16日 (水) 12:31 (JST)<br />
* さくらインターネットにサーバを移転しました。接続速度が ADSL40Mbps からバックボーン直結 100Mbps になりましたのでだいぶ快適になったと思います。 --[[利用者:Torao|Torao]] 2011年1月2日 (日) 17:30 (JST)<br />
* MediaWiki を 1.16.0 にバージョンアップしました。-- [[利用者:Torao|Torao]] 2010年8月8日 (日) 18:00 (JST)<br />
* MediaWiki を 1.14.0 から 1.15.4 にバージョンアップしました。 --[[利用者:Torao|Torao]] 2010年6月25日 (金) 13:33 (UTC)<br />
* 中国、韓国などからの大量のスパム書き込みが続いているため、非登録ユーザによる編集、新規ページ作成 (ノート含む) を無期限にブロックします。編集に参加する場合はユーザ登録を行って下さい。[[利用者:Torao|Torao]] 2010年4月29日 (木) 02:47 (UTC)<br />
* 地図の詳細表示に Yahoo! 地図を追加しました。Yahoo! 地図は携帯電話 (i-mode, ezweb) からの地図表示に対応していますので、携帯電話片手に旧跡探しなどを行うことが出来るようになりました。また中津川・恵那地方では Google Map に比べてかなり詳細な航空写真を見ることが出来ます。--[[利用者:Torao|Torao]] 2009年8月28日 (金) 11:42 (UTC)</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E9%A6%AC%E7%B1%A0%E6%A9%8B
馬籠橋
2013-01-06T06:44:10Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>[[File:baro bridge04.jpg|thumb|馬籠橋]]<br />
{{ruby|'''馬籠橋'''|ばろうばし}}<map name="馬籠橋" lat="35.399638" lon="137.489278"/>は下広岡で[[馬籠川]] (木戸ヶ入川) を渡る橋。この橋の東北側の田んぼは新開と呼ばれている。<br />
<br />
馬籠橋は[[長楽寺]]と[[龍泉寺]]をつなぐ[[龍泉寺古道]]である。[[田島農園]]裏の山の中に古い主要道があったという言い伝えと、昭和の終わり頃まで下広岡の衆が山道を通って[[共同墓地|共同墓地 (広岡)]]まで来ていたことなどから、馬籠橋を渡って山に入り共同墓地の前を通って[[駕台]]へ行く経路が龍泉寺古道と比定される。<br />
<br />
橋の上流側に見える水路は[[狸沢]]から天狗森山のトンネルを通ってひいた[[槙平用水]]である。<br />
<br />
{{-}}<br />
<gallery><br />
File:baro bridge01.jpg|2010/01 馬篭川<br />
File:baro bridge02.jpg|2010/01 馬篭橋<br />
File:baro bridge03.jpg|2010/01 昭和三十三年八月竣功<br />
File:baro bridge05.jpg|2010/01 <br />
</gallery><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[木戸ヶ入川]]<br />
* [[中根橋]]<br />
* [[槙平用水]]<br />
* [[龍泉寺古道]]<br />
<br />
[[Category:二分団|はろうはし]]<br />
[[Category:交通設備|はろうはし]]<br />
[[Category:龍泉寺古道|りゆうせんしことう]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E9%A6%AC%E7%B1%A0%E6%A9%8B
馬籠橋
2013-01-06T06:36:04Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>[[File:baro bridge04.jpg|thumb|馬籠橋]]<br />
{{ruby|'''馬籠橋'''|ばろうばし}}<map name="馬籠橋" lat="35.399638" lon="137.489278"/>は下広岡で[[馬籠川]] (木戸ヶ入川) を渡る橋。この橋の東北側の田んぼは新開と呼ばれている。<br />
<br />
馬籠橋は[[長楽寺]]と[[龍泉寺]]をつなぐ[[龍泉寺古道]]である。[[田島農園]]裏の山の中に古道があったという言い伝えと、昭和の終わり頃まで下広岡の衆が山道を通って[[共同墓地|共同墓地 (広岡)]]まで来ていたことなどから、馬籠橋を渡って山に入り共同墓地の前を通って[[駕台]]へ行く経路が龍泉寺古道と比定される。<br />
<br />
{{-}}<br />
<gallery><br />
File:baro bridge01.jpg|2010/01 馬篭川<br />
File:baro bridge02.jpg|2010/01 馬篭橋<br />
File:baro bridge03.jpg|2010/01 昭和三十三年八月竣功<br />
File:baro bridge05.jpg|2010/01 <br />
</gallery><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[木戸ヶ入川]]<br />
* [[中根橋]]<br />
* [[龍泉寺古道]]<br />
<br />
[[Category:二分団|はろうはし]]<br />
[[Category:交通設備|はろうはし]]<br />
[[Category:龍泉寺古道|りゆうせんしことう]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E6%A2%A8%E6%B2%A2%E3%81%AE%E6%A9%8B
梨沢の橋
2013-01-06T06:33:11Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>[[File:bridge in nashizawa01.jpg|thumb|梨沢の橋]]<br />
'''梨沢の橋'''<map name="梨沢の橋" lat="35.403974" lon="137.494361"/>は[[梨沢]] {{note|(四重洞川)}} の最上流に架けられている無名橋。<br />
<br />
古くは恵南地方、阿木、長楽寺、龍泉寺、恵那神社、恵那山をつなぐ[[龍泉寺古道]]として使用されていた。下広岡の[[馬籠橋]]から[[共同墓地 (広岡)|共同墓地]]まで山道を登り、この橋を渡って右折し[[越沢口]]へ向かう道が龍泉寺古道にあたる。<br />
<br />
橋の右岸側にある家は新田開拓のため江戸時代初期に[[青野]]から移り住んだ[[広岡鷹見家]] 2 軒のうちの 1 軒である (もう 1 軒は[[越沢口]]右岸の家; 昔の土地の有力者は灌漑のため沢口を押さえていた)。この家は{{ruby|駕籠台|かごだい}}という屋号であり、この家の領地だった土地は{{ruby|駕台|かごだ}}という小字で呼ばれている ([[小字 (阿木)|阿木の小字]]参照)。この名前はこの家に{{ruby|駕籠立場|かごたてば}} {{note|(駕籠を下ろして一行が休むための見晴らしの良い休憩所)}} があり{{ruby|御駕籠台|おかごだい}}や水場があったことに由来している。<br />
<br />
[[9.28水害]]の時には四重洞川上流で発生した土砂崩れによる流木がこの橋で堰止を作り、この橋の左右の田んぼに大量の土砂が流れ込んだ。ただし橋自体は無事で流木を撤去した後も曲がった欄干のまま利用されていた。現在欄干は撤去されガードレールが設置されているが橋桁はその時のままである。<br />
<br />
{{-}}<br />
<gallery><br />
File:bridge in nashizawa02.jpg|2010/01<br />
</gallery><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[四重洞川]]<br />
* [[龍泉寺古道]]<br />
<br />
[[Category:二分団|なしさわのはし]]<br />
[[Category:交通設備|なしさわのはし]]<br />
[[Category:龍泉寺古道|りゆうせんしことう]]</div>
Torao
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駕台
2013-01-06T05:41:39Z
<p>Torao:梨沢の橋へのリダイレクト</p>
<hr />
<div>#REDIRECT [[梨沢の橋]]</div>
Torao
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飯沼
2013-01-06T05:40:46Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>[[File:一分団.png|thumb|飯沼一分団]]<br />
{{ruby|'''飯沼'''|いいぬま}}は阿木の北にあり東野と接している集落。現在の一分団に相当し、明治までは恵那郡飯沼村であった。<br />
<br />
谷と尾根が入り組み複雑な地形を成しており、[[大日向遺跡]]や[[阿木の遺跡#宮ノ根1号古墳|宮ノ根古墳]]、[[阿木の遺跡#狐塚1号古墳|狐塚]]などの古代の遺跡が多く残されている。<br />
<br />
== 由来 ==<br />
古くから[[遠山氏]]夫人に与えられた土地であった事から{{ruby|飯妻|いいづま}}という名であったが、湿地や沼の多い土地であったことから江戸時代前期に現在のような飯沼と表すようになったと伝えられている。<br />
<br />
飯妻のイイは近隣の「飯」と付く地名を考えても米のとれる土地という意味だろう。ツマの語源を調べると、古代から中世頃の倭言葉では「{{ruby|端|つま}}」という意味であり、端を切ったような家屋の造りを[[w:切妻造|切妻造]]、離れの寝所を[[kotobank:妻屋|妻屋]]、端まで行ってしまう事を詰まる、添えてあるものを刺身のツマというように呼んでいた。現在の妻という言葉も妻屋に居る者という意味で夫も妻もツマと呼んでいたものがいつの時代からか女の方だけ残ったものである (諸説あり伴侶として傍らに居る者を男も女もツマと呼んだという説もある)。これを踏まえて飯沼周辺の歴史と特徴を考えると、飯妻とは「(飯沼川の? 荘園の? 旧大野村の?) 一番端 (奥) にある米のとれる地域」といった意味と考えられる。<br />
<br />
[[巖邑府誌]]では飯妻と呼ばれる前は[[旧大野村|大野村]]の一部であったのではないかと推測している。また同誌では遠山夫人がこの飯妻村で安産の祈祷し、村はその供物などを納めていたために村人は難産しなくなったと云われている。この風習は現在でも[[子安講]]として続いている。<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
* {{年号|1601}} [[岩村藩]]領となる<ref name="歴史地名大系"><strong>日本歴史地名大系</strong>, <i>平凡社地方資料センター</i>, 1993年, 平凡社, ISBN 978-4040012100</ref>。<br />
* 慶長郷帳 {{note|(1596-1615年/安土桃山)}} 高459石余<ref name="歴史地名大系"/>。<br />
* 正保郷帳 {{note|(1645-1648年/江戸初期)}} 飯妻村とあり、田方267石余、畑方22石余、無地之田169石余<ref name="歴史地名大系"/>。<br />
* {{年号|1648}} 飯妻村宗旨改帳(吉村文書)による戸口は54戸261人<ref name="歴史地名大系"/>。<br />
* {{年号|1699}} 頃から沼地が多かったため飯沼村と呼ぶ<ref name="歴史地名大系"/><ref><strong>角川日本地名大辞典 21 岐阜県</strong>, <i>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三</i>, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040012100</ref>。<br />
* {{年号|1703}} [[旧大野村]]から[[大野村]]が枝村として編入。<br />
* {{年号|1717}} 宗旨改帳(可知文書)による人数333人<ref name="歴史地名大系"/>。<br />
* 天保郷帳 {{note|(1830-1843年)}} 高535石 (新田、大野村、川欠けによる減石分含む)<ref name="歴史地名大系"/>。<br />
* {{年号|1872}} 村明細帳によれば高442石余、反別田35町2反余、畑7町4反余、家数84、人数410、馬46。内大野村分高92石余、反別田6町6反余、畑2町6反余、家数12、人数54、馬11<ref name="歴史地名大系"/>。<br />
* {{年号|1897}} 明治の大合併で阿木村と合併しその名は字として残る。<br />
* 現在飯沼の名前は中津川市の大字。<br />
<br />
<references/><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[宮ノ根]]<br />
* [[萬記録飯沼村]]<br />
* [[旧大野村]]<br />
<br />
[[Category:一分団|いいぬま]]<br />
[[Category:地名|いいぬま]]</div>
Torao
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飯沼
2013-01-06T05:37:00Z
<p>Torao:/* 由来 */</p>
<hr />
<div>[[File:一分団.png|thumb|飯沼一分団]]<br />
{{ruby|'''飯沼'''|いいぬま}}は阿木の北にあり東野と接している集落。現在の一分団に相当し、明治までは恵那郡飯沼村であった。<br />
<br />
谷と尾根が入り組み複雑な地形を成しており、[[大日向遺跡]]や[[阿木の遺跡#宮ノ根1号古墳|宮ノ根古墳]]、[[阿木の遺跡#狐塚1号古墳|狐塚]]などの古代の遺跡が多く残されている。<br />
<br />
== 由来 ==<br />
古くから[[遠山氏]]夫人に与えられた土地であった事から{{ruby|飯妻|いいづま}}という名であったが、湿地や沼の多い土地であったことから江戸時代前期に現在のような飯沼と表すようになったと伝えられている。<br />
<br />
飯妻のイイは近隣の「飯」と付く地名を考えても米のとれる土地という意味だろう。ツマの語源を調べると、古代から中世頃の倭言葉では「{{ruby|端|つま}}」という意味であり、端を切ったような家屋の造りを[[w:切妻造|切妻造]]、離れの寝所を[[kotobank:妻屋|妻屋]]、端まで行ってしまう事を詰まる、添えてあるものを刺身のツマというように呼んでいた。現在の妻という言葉も妻屋に居る者という意味で夫も妻もツマと呼んでいたものがいつの時代からか女の方だけ残ったものである (諸説あり伴侶として傍らに居る者を男も女もツマと呼んだという説もある)。これを踏まえて飯沼周辺の歴史と特徴を考えると、飯妻とは「(飯沼川の? 遠山領地の?) 一番端 (奥) にある米のとれる地域」といった意味と考えられる。<br />
<br />
[[巖邑府誌]]では飯妻と呼ばれる前は[[旧大野村|大野村]]の一部であったのではないかと推測している。また同誌では遠山夫人がこの飯妻村で安産の祈祷し、村はその供物などを納めていたために村人は難産しなくなったと云われている。この風習は現在でも[[子安講]]として続いている。<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
* {{年号|1601}} [[岩村藩]]領となる<ref name="歴史地名大系"><strong>日本歴史地名大系</strong>, <i>平凡社地方資料センター</i>, 1993年, 平凡社, ISBN 978-4040012100</ref>。<br />
* 慶長郷帳 {{note|(1596-1615年/安土桃山)}} 高459石余<ref name="歴史地名大系"/>。<br />
* 正保郷帳 {{note|(1645-1648年/江戸初期)}} 飯妻村とあり、田方267石余、畑方22石余、無地之田169石余<ref name="歴史地名大系"/>。<br />
* {{年号|1648}} 飯妻村宗旨改帳(吉村文書)による戸口は54戸261人<ref name="歴史地名大系"/>。<br />
* {{年号|1699}} 頃から沼地が多かったため飯沼村と呼ぶ<ref name="歴史地名大系"/><ref><strong>角川日本地名大辞典 21 岐阜県</strong>, <i>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三</i>, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040012100</ref>。<br />
* {{年号|1703}} [[旧大野村]]から[[大野村]]が枝村として編入。<br />
* {{年号|1717}} 宗旨改帳(可知文書)による人数333人<ref name="歴史地名大系"/>。<br />
* 天保郷帳 {{note|(1830-1843年)}} 高535石 (新田、大野村、川欠けによる減石分含む)<ref name="歴史地名大系"/>。<br />
* {{年号|1872}} 村明細帳によれば高442石余、反別田35町2反余、畑7町4反余、家数84、人数410、馬46。内大野村分高92石余、反別田6町6反余、畑2町6反余、家数12、人数54、馬11<ref name="歴史地名大系"/>。<br />
* {{年号|1897}} 明治の大合併で阿木村と合併しその名は字として残る。<br />
* 現在飯沼の名前は中津川市の大字。<br />
<br />
<references/><br />
<br />
== 話題 ==<br />
* 古代から中世の妻とは「{{ruby|端|つま}}」と同義であり、文字通り端の方という意味を持っている。つまり元々イイツマとは米の採れる端の地域という意味である。大野村の端あるいは飯沼川の最深部という意味か。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[宮ノ根]]<br />
* [[萬記録飯沼村]]<br />
* [[旧大野村]]<br />
<br />
[[Category:一分団|いいぬま]]<br />
[[Category:地名|いいぬま]]</div>
Torao
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龍泉寺道
2013-01-05T23:21:36Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>[[File:Ryusenji roal.png|thumb|龍泉寺道]]<br />
{{ruby|'''龍泉寺道'''|りゅうせんじどう}}は山野田の<strong>浄光院</strong>{{要調査}}から[[龍泉寺]]へ向かう参道。また恵南地方から[[恵那山]]、[[恵那神社]]へ参拝するための道でもあった。<br />
<br />
浄光院は兵火を免れた龍泉寺の馬頭観音を預かっており、毎年{{ruby|初午|はつうま}} {{note|(旧暦二月の最初の午日)}} になると馬頭観音を龍泉寺観音堂に運んで祭りを行っていた。古くは大根木から清水の山際を廻る道が使われていたが、{{年号|1702}} からは藤上から下広岡へ行く道 (現在の[[国道363号]]) が使われるようになった。<br />
<br />
旧道の痕跡は下広岡の{{ruby|[[馬籠橋|馬籠]]|ばろう}}、{{ruby|[[梨沢の橋|駕台]]|かごだ}}といった小字にも見ることが出来る。<br />
<br />
{{-}}<br />
== 文献 ==<br />
阿木公民館冊子「あぎ」昭和57年度版に載せられている文書の現代語訳。小字名が多いので[[小字 (阿木)|阿木の小字]]も参照。<br />
<br />
<blockquote class="translated"><br />
<p><br />
[[龍泉寺]]という龍泉寺観音堂の観音は阿木村山野田の浄光院で預かり置き、毎年二月の初午に浄光院観音を御供にして龍泉寺観音堂にてお祭りを行う。この日は人馬の参拝が多く、同日中にお帰りとなる。この道を龍泉寺道と呼ぶ。この道の頭を記す。<br />
</p><br />
<p><br />
阿木村のうち山野田浄光院より山野田富士{{判読不能|子}}間の森の前を通り、[[熊野神社 (真原)|真原熊野神社]]の森の前を通り、根木屋坂を下り、[[根木屋橋]]を越し、大根木観音堂 {{note|([[長楽寺]])}} の前を通り、梅本坊の門前を越し、ワラビ野の山之神の森の北を上り、渡場へ出て、瀧ヶ沢を越し、[[室ヶ沢]]を越し、押ノ沢原を上へ登り、平四郎屋敷の東を通り、[[木戸ヶ入川]]を渡り、[[馬籠橋|馬籠川]]を越し、清水平右衛門屋敷 {{note|(平屋敷)}} の前を登り、タタキ {{note|(?)}} を通り、伝太平の西之麓を通り、古屋敷にて[[越沢]]を越し、大柳平の横を通り、[[松沢|松沢川]]を越し、右衛門平の[[土岐明神]]の前を通り、安気野原の扇風石 {{note|([[屏風石]]?)}} の前を通り、[[朴沢|朴沢川]]を越し、与作新田 {{note|(グリーン牧場?)}} の中を通り、腰掛石の前を越し、[[血洗池]]の北の畔を登り、神明の森の中を登り、井嶋ヶ峰の息次清水を通り、龍泉寺馬場に出ると観音堂である。これが龍泉寺道で当村の古道である。<br />
</p><br />
</blockquote><br />
<br />
<blockquote class="original"><br />
<div><br />
龍泉寺ト申事ハ、龍泉寺観音堂之観音。別当阿木村山野田之浄光院ニ預リ置、毎年二月初午ニハ別当浄光院観音ヲ御供ニテ、龍泉寺観音堂ニテ御祭リ有之候。此日人馬参詣多シ。其日之内ニ御帰リ相成候。此道ヲ龍泉寺道ト申候。此道之頭ヲ印候。阿木村之内、山野田浄光院ヨリ、山野田富士{{判読不能|子}}間之森之前ヲ通リ、[[熊野神社 (真原)|真原熊野権現]]之森之前ヲ通リ、根木屋坂ヲ下リ、[[根木屋橋]]ヲ越シ、[[長楽寺|大根木観音堂]]之前ヲ通リ、梅本坊之門前ヲコシ、ワラビ野之山之神之森之北ヲノボリ、渡場江出テ、瀧ヶ沢ヲ越し、室ヶ沢ヲ越し、押ノ沢原ヲ上江登リ、平四郎屋敷之東ヲ通リ、木戸ヶ入川ヲ渡リ、馬籠川ヲコシ、清水平右エ門屋敷之前ヲノボリ、タ々キヲ通リ、伝太平西之麓ヲ通リ、古屋敷ニテ越沢コシ、大柳平ヲ横ニ通リ、松沢川越シ、右エ門平土岐明神之前ヲ通リ、安気野原扇風石之前ヲ通リ、朴沢川コシ、与作新田之中ヲ通リ、腰掛石之前ヲコシ、血洗之池之北之畔ヲノボリ、神明之森之中ヲノボリ、井嶋ヶ峰息次清水ヨ通リ、龍泉寺馬場ニ出テ観音堂也。是龍泉寺道ナリ。是ガ当村之古道也。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
<blockquote class="translated"><br />
<p><br />
川狭 {{note|(加狭)}} 渡場から六地蔵へ出て狐ゴウロを登る道は新道である。元禄15年 {{note|(1702年/江戸中期)}} 7月16日より川上アセボ坂の道替えが行われた。阿木村分の人足90人、当村新田分10人、川上人足60人が出た。川上への人足へは一人につき米7合5勺づつ頂いた。御代官様、西山様、一右太夫様、山奉行の近藤宗左衛門様、道奉行足軽の佐太夫様らがこの時に川狭渡場から与佐田へ上がり、清水渡瀬を越し、狐ゴウロを上がり、大柳平にて龍泉寺道と出合ったところで右のお役人様らが御見分の上に定まったものである。同16年 {{note|(1703年/江戸中期)}} 6月までに完成した。<br />
</p><br />
<p><br />
領主様 {{note|([[松平乗紀]])}} と御代官様のどなたかが12月に勘定の折にはこの道をご案内した。御代官様の<br />
右衛門殿。<br />
〓<br />
</p><br />
</blockquote><br />
<br />
<blockquote class="original"><br />
<div><br />
川狭渡場~六地蔵江出テ、狐ゴウロヲノボルハ新道ナリ。元禄十五年七月十六日ヨリ川上アセボ坂道替リ候。阿木村分人足九拾人、当村新田分拾人出申候。川上人足六拾人出申候。川上人足江ハ、壱人ニ付米七合五勺ヅ々被下候。御代官様、西山様、一右太夫様、御山奉行近藤宗左エ門様、道奉行御足軽佐太夫様、此時川狭渡場~与佐田エ上リ、清水渡瀬ヲコシ、狐ゴウロ上リ、大柳平ニテ龍泉寺道ト出合候処ニ右之御役人様御見分之上相定リ候。処同十六年六月迠ニ出来上リ候。是御当代様十二月御代官様御中。勘定之節ハ此道ヲ御案内仕候。御代官様之駄荷壱駄ハ加ト分伝定、右エ門殿七里口之替リ二年々引却飯沼迠送リ候。事例各地御上様江御出役之時ハ、八月に検見又御山通リ節ハ、大根木渡場ヘ出向候。案内仕候。又外用之節ハ川狭渡場江御出向御案内、川上ヘ御越シ時ハ丼嶋ヶ峰御茶場迠御案内夫~川上之役人是各式也。何事ニテ茂出入村方ニ出来候節ニハ古帳面取調之上取斗候事。<br />
</div><br />
<div class="right smaller">今井久助扣</div><br />
</blockquote><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[龍泉寺]]<br />
<br />
[[Category:旧道|りゆうせんしとう]]<br />
[[Category:三分団|りゆうせんしとう]]<br />
[[Category:二分団|りゆうせんしとう]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E3%82%AD%E3%83%84%E3%83%84%E3%82%AD%E3%81%A8%E9%9B%A8
キツツキと雨
2013-01-05T23:14:56Z
<p>Torao:ページの作成:「'''キツツキと雨'''は 2012 年 2 月 11 日に上映された日本の映画。第24回東京国際映画祭で審査員特別賞を受...」</p>
<hr />
<div>'''[[w:キツツキと雨|キツツキと雨]]'''は 2012 年 2 月 11 日に上映された日本の映画。第24回東京国際映画祭で審査員特別賞を受賞。第8回ドバイ国際映画祭では、最優秀脚本賞と最優秀編集賞、さらに主演の[[w:役所広司|役所広司]]が最優秀男優賞を受賞。妻を亡くし思春期の息子とうまく行かない木こり (役所広司) と、ゾンビ映画の地方ロケに訪れた映画監督 (小栗旬) が出会い映画を通じて打ち解けてゆくハートフルストーリー。<br />
<br />
主に福岡町や加子母の明治座などの恵北地方でロケが行われ、阿木川上流も役所広司扮するゾンビが押し寄せるシーンの撮影で使用された。<br />
<br />
== 外部サイト ==<br />
* [http://kitsutsuki-rain.jp/ 映画『キツツキと雨』公式サイト]<br />
* [http://www.youtube.com/watch?v=rNLQPe4HvxY 『キツツキと雨』予告編]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E6%A7%99%E5%B9%B3%E7%94%A8%E6%B0%B4
槙平用水
2013-01-05T22:48:38Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>{{ruby|'''槙平用水'''|まきだいらようすい}}は[[槙平]]の[[狸沢]]から下広岡の新開まで水を引くための農業用水路。{{年号|1921}} に<strong>下広岡耕地整理組合</strong>によって天狗森山を貫くトンネルが完成し下広岡に水を引くことが出来た。<br />
<br />
トンネルの調子は良いが、出てからの用水路がよく詰まったり崩れたりして保守が大変と言われている。広岡からトンネルまでの道は未舗装の悪路が続き、さらに途中から険しい山道 (徒歩) となっているため山登りの服装が必要となる。新開から出て[[馬籠橋]]の横を流れているのが槙平用水である。<br />
<br />
==写真集==<br />
=== 槙平側 ===<br />
<gallery><br />
File:tanukisawa 01.jpg|<map name="狸沢" lat="35.391758" lon="137.526075"/>2009/11 狸沢を少し上がると用水路が見える。<br />
File:makidairayosui01.jpg|<map name="槙平用水" lat="35.3919777778" lon="137.5259861111"/>2009/11 <br />
File:makidaira yosui route 01.jpg|<map name="槙平用水" lat="35.3917388889" lon="137.5259194444"/>2009/11<br />
File:makidairayosui03.jpg|<map name="槙平用水" lat="35.3909472222" lon="137.5210611111"/>2009/11<br />
File:makidairayosui04.jpg|<map name="槙平用水" lat="35.3908694444" lon="137.5185250000"/>2009/11<br />
File:makidairayosui05.jpg|<map name="槙平用水" lat="35.3902500000" lon="137.5178666667"/>2009/11 一部水路が壊れパイプのみになっている。<br />
File:makidaira yosui route 03.jpg|<map name="槙平用水" lat="35.3902222222" lon="137.5177472222"/>2009/11 用水路がトンネルとなる。<br />
</gallery><br />
<br />
=== 下広岡側 ===<br />
<gallery><br />
File:shimohiroka yosui 03.jpg|<map name="槙平用水" lat="35.399638" lon="137.489333"/>2009/08 橋のたもとを流れる槙平用水。<br />
File:shimohiroka yosui 04.jpg|<map name="槙平用水" lat="35.399638" lon="137.489333"/>2009/08 [[燈籠場 (広岡)|四ツ辻]]の上にある橋。横を槙平用水が流れている。<br />
File:shimohiroka yosui 02.jpg|<map name="槙平用水" lat="35.399638" lon="137.489333"/>2009/08 [[燈籠場 (広岡)|四ツ辻]]の上にある橋。<br />
File:shimohiroka shinkai 01.jpg|<map name="下広岡新開" lat="35.399536" lon="137.489875"/>2009/08 槙平用水が山から出る場所。道の先には古い別荘分譲地がある。<br />
</gallery><br />
<br />
==四方山話==<br />
* [[阿木川]]の水を[[風神神社]]の下から大根木の上に繋げる用水路もある。<br />
<br />
==関連項目==<br />
* [[槙平]]<br />
* [[狸沢]]<br />
* [[天狗森山]]<br />
<br />
[[Category:二分団|まきたいらようすい]]<br />
[[Category:農林漁業|まきたいらようすい]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%A4%A7%E9%87%8E)
八幡神社 (大野)
2013-01-05T22:33:54Z
<p>Torao:/* {{ruby|竈|くど}} */</p>
<hr />
<div>{{Infobox<br />
|タイトル=名所旧跡<br />
|名称=大野八幡神社<br />
|画像=大野杜01.jpg<br />
|所在地=岐阜県中津川市飯沼806<br />
|位置=<map title="大野八幡神社" lon="137.485319" lat="35.409918" label="short"/><br />
|祭神=誉田別命<br />
|摂社=御鍬,天白,秋葉,神明,金比羅,愛宕,山祇,州原<br />
}}<br />
{{ruby|<strong>大野八幡神社</strong>|おおのはちまんじんじゃ}}は[[大野農免農道]]沿いの大野にある神社。正確には飯沼に属する。付近の森と合わせて[[大野杜]]と呼ばれている。<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
創建は不詳だが阿木の中で最も古い神社とも言い伝えられている。古くからある神社で、恵那郡誌によれば従四位下[[阿氣明神]]と比定している。また[[恵那神社誌]]では[[恵那神社]]の{{ruby|遙拝所|ようはいじょ}}だったとも云われている。<br />
<br />
{{年号|1571}} に大野村を襲った山崩れにより古い記録をすべて失い {{年号|1624}} に再建されたと伝えられている ([[恵那神社誌]])。<br />
<br />
== 境内 ==<br />
大野八幡神社は[[八幡神社 (見沢)|見沢八幡神社]]よりも古く、もはやどこから勧請されたものであるかも分からない。旧大野村の村社であり、また広岡八幡神社ができる前は現在の広岡新田も併せての産土神であった。境内には大銀杏があり倉や{{ruby|竈|くど}}が併設されている。<br />
<br />
<gallery><br />
File:oonohachiman01.jpg|09/06/15 拝殿。<br />
File:oonohachiman02.jpg|09/06/15 社の裏手には四十八夜供養塔などが多く置かれている。<br />
File:大野杜02.jpg|<map title="大野杜" lon="137.48491" lat="35.4097"/>09/02/21 福祉巡回バスの停留所が設置されている。<br />
File:大野杜04.jpg|<map title="" lon="137.48491" lat="35.4097"/>09/02/21 狛犬と社。<br />
</gallery><br />
<br />
=== 摂社 ===<br />
[[File:大野杜 摂社01.jpg|thumb|left|90x90px|摂社一覧]]<br />
摂社は向かって右から{{ruby|御鍬|おくわ}}神社、{{ruby|天白|てんばく}}神社、{{ruby|秋葉|あきば}}神社、{{ruby|神明|しんめい}}神社、{{ruby|金刀比羅|ことひら}}神社、八幡神社、{{ruby|愛宕|あたご}}神社、稲荷神社、{{ruby|山祇|やまつみ}}神社、{{ruby|州原|すはら}}神社が祭られている。<br />
<br />
<strong>御鍬祭り</strong>は伊勢神宮から下向した御鍬様を村々で継ぎ廻った五穀豊穣の祭り。鉦や太鼓、笛を打ち鳴らして村々を巡回し、境内では神楽や獅子舞が行われた。また途中の村で社を建てて祀られることもあったという。江戸時代に美濃で何度か巡回が行われている<ref><strong>岐阜県の歴史</strong>, <i>松田之利 他</i>, 山川出版社, ISBN 4-634-32210-2</ref>。この御鍬神社も大野に来た御鍬様を祀ったものだろうか。<br />
<br />
<gallery><br />
File:大野杜05.jpg|<map title="" lon="137.48491" lat="35.4097"/>09/02/21 右から御鍬神社、天白神社、秋葉神社、神明神社、金刀比羅神社。<br />
File:大野杜06.jpg|<map title="" lon="137.48491" lat="35.4097"/>09/02/21 右から愛宕神社、稲荷神社、山祇神社、州原神社。<br />
</gallery><br />
<br />
=== 倉 ===<br />
<!-- [[File:大野杜03.jpg|thumb|09/02/21 大野八幡の倉]] --><br />
[[File:granary of oono hachiman01.jpg|thumb|09/06/15 大野八幡の倉]]<br />
八幡神社の境内には倉が建てられている。<br />
<br />
古くからこの八幡神社は{{ruby|神田|じんでん}}を持っており、その田を借りた者が神社に年貢を納めていた。しかし大正時代にその年貢米を管理していた大野村の庄屋が村を出てしまったため、年貢米なんてものを個人で管理するのはかなわんということで建てられた蔵である。<br />
<br />
組の衆が何か古い文書などが納められていないか調べてみたが、[[w:宗門人別帳|宗門帳]]くらいしか出てこなかったという。<br />
{{-}}<br />
<br />
=== {{ruby|竈|くど}} ===<br />
<!-- [[File:大野杜07.jpg|thumb|left|09/02/21 大野八幡の竈]] --><br />
[[File:stoves in oono hachiman01.jpg|thumb|left|09/06/15 大野八幡の竈]]<br />
八幡神社の祭事にはこの竈で湯を沸かし宮司が笹の葉で参拝者に振りかける[[w:湯立神楽|湯立て]]が行われる。六連の竈は全国でも非常に珍しく、祭事以外にも炊き出しや暖を取るためなどにも使用されている。<br />
{{-}}<br />
<br />
=== 大銀杏 ===<br />
[[File:ginkgo in oono hachiman01.jpg|thumb|120px|09/06/15 大野八幡の大銀杏]]<br />
[[長楽寺]]程ではないが大野八幡神社にも大きな銀杏が立っている。この銀杏は秋になるとぎんなんを落とす。<br />
{{-}}<br />
<references/><br />
<br />
== 文献散策 ==<br />
=== 惠那神社誌 ===<br />
明治時代にまとめられた[[惠那神社誌]]の[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40042812&VOL_NUM=00000&KOMA=57&ITYPE=0 第三編 往古に於ける氏子存在區域]では、大野八幡神社は元々[[恵那神社]]の遙拝所だったと記されている。広岡川にかかる川上橋とは[[越沢]]にかかる[[越沢口の橋]]、[[中清橋]]、[[広岡橋]]のいずれかであろうか。<br />
<br />
<blockquote class="translated"><br />
<div>'''[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40042812&VOL_NUM=00000&KOMA=58&ITYPE=0 第三章 安岐郷]'''</div><br />
<p><br />
区域は現在の阿木を中心として富田、飯羽間、岩村、山岡、串原まで及んだか。その安岐の中心だった阿木村広岡のうち大野<ref>広岡も元は大野と称したが、その頃の大野とは現在の阿木村全体に渡っていた。後に小組に名前を付けて分立した。飯沼村の分村も[[巖邑府誌]]にある通り元は大野の内である。最後に大野の本区に旧来の大野の名称を付け、本区を廣阜 (後に広岡と改めた) と改称した。<br />
故に名称は変わったが元より土地の中心は広岡である。近世に大野村は飯沼村と合併し、広岡はそれ以前に分裂した数村と併せて阿木村と言うようになった。現在では阿木村と飯沼村が合併し阿木村となっている。</ref>の里にある八幡神社は元々恵那神社の{{ruby|遥拝所|ようはいじょ}}だったが、{{年号|1571}} に連日の霖雨で山崩れが起きて押し流されてしまった。その後の {{年号|1624}} に再建し、改めて譽牟田別命を祀り八幡神社と称するようになったものである。<br />
</p><br />
<p><br />
このため広岡大野の青年が恵那神社に出勤する前には祭典を行う旧慣があるという。今なお古老の言い伝えるところを見ても、元々は恵那神社の氏子であったことは明白である。また広岡川に架けられている橋は元は恵那神社が架設したものであるため、今でも川上橋と呼ばれている。<br />
</p><br />
<div class="original"><br />
<strong>〔大日本史〕</strong><br />
:安岐 (淡気の東北に現在阿木村がある)。文治中に岩村城の遠山荘にあった (吾妻鏡)。<br />
</div><br />
<references/><br />
</blockquote><br />
<br />
<blockquote class="original"><br />
<div><br />
'''第三章 安岐郷'''<br />
</div><br />
<div><br />
今の阿木村其本土にして、(第二編第三章[[血洗池]]條参照) 其の區域は本郷村、岩村、遠山村、串原村、近傍まで及ぼせしか、其安岐の本土たる、阿木村廣岡の内大野、<small>廣岡も元は大野と稱したりしが、其の大野の地域は、今の阿木村全體に渡りしならん、後漸次小組に名稱を附して夫々分立したり、飯沼村野の分村も、巖邑府誌に載する如し、([[血洗池]]の條参照) 元は大野の内なりき、然して最後に大野の本區に舊來の大野の名稱を附し、本區を廣阜、(後廣岡に改む) と改稱したり、故に名稱は變りたれど、元より土地の本土は廣岡なり、近世大野と飯沼と合併して飯沼村と稱し、廣岡は其以前に分裂したる數村を合わせて阿木村と稱し、現今又阿木村飯沼村二村も合併し、阿木村とす。</small>此の郷にある八幡神社は、元惠那神社の遙拜所なりしが、元龜二年霖雨連日に亘り、山岳崩壊して土石を押し流したるとき此の遙拜所も流失したりしが、其後寛永元年に至りて再建し、改めて譽牟田別命を祀り八幡社と稱するに至れり、故に廣岡大野の青年の惠那神社に出勤せざる前は、祭典執行せざりし舊慣ありしと、今尚古老の言ひ傳ふるを以ても、往古惠那神社の氏子たりしこと明白なりとす、又廣岡川に架する橋は、元惠那神社に於て架設せし故、今も川上橋と稱し居れり。<br />
</div><br />
<div><br />
〔大日本史〕<br/><br />
安岐<span class="s">今阿木村在淡氣東北</span>文治中曰遠山莊<span class="s">東鑑</span>有岩村城<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[大野杜]]<br />
* [[倶楽部 (大野)]]<br />
* [[広岡八幡神社]]<br />
<br />
<references/><br />
<br />
[[Category:二分団|はちまんしんしや おおの]]<br />
[[Category:神社仏閣|はちまんしんしや おおの]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E8%BE%B2%E5%85%8D%E6%A9%8B
農免橋
2013-01-05T22:21:38Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>{{ruby|'''農免橋'''|のうめんばし}}<map title="農免橋" lon="137.483347" lat="35.412036"/>は[[大野農免農道]]が[[松沢川]]を渡る橋。大野ゴウロの福祉巡回バス停が設定されている。農道ができる以前はすぐ下の[[大野橋]]が使われていた。<br />
<br />
ここは[[9.28災害]]で橋が破壊され、あふれた土砂で田畑が埋まり、車が潰された場所である。橋の傍らには9.28水害の碑石<map title="9.28災害碑" lon="137.483458" lat="35.412172"/>が建てられている。<br />
<br />
<gallery><br />
File:農免橋01.jpg|09/02/21 9.28水害以降に岸と川底がコンクリートで完全に固められた。<br />
File:農免橋02.jpg|09/02/21 下に見えるのは[[大野橋]]。大野橋を渡った先に[[広岡分校]]跡がある。<br />
</gallery><br />
<br />
== 参照 ==<br />
* [[松沢川]]<br />
* [[災害復旧碑]]<br />
* [[広岡分校]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* 中津川市デジタルアーカイブ [http://www.city.nakatsugawa.gifu.jp/archives/sheet.php?code=825 北側の農免橋]<br />
<br />
[[Category:二分団|のうめんはし]]<br />
[[Category:交通設備|のうめんはし]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%A9%8B
清水橋
2013-01-05T22:19:35Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>[[File:shimizubashi01.jpg|thumb|清水橋]]<br />
{{ruby|'''清水橋'''|しみずはし}}<map name="清水橋" lat="35.4034472222" lon="137.4925638889"/>は{{ruby|駕台|かごだ}}の[[四重洞川]]に架けられている橋。[[9.28水害]]時には山抜けで流れ出た流木が大量に引っかかって堰止となり周囲の田んぼに大量の土砂が流れ込んだ。現在の橋は四重洞川の護岸整備と共に {{年号|1984}} に竣工したものである。<br />
<br />
{{-}}<br />
<gallery><br />
File:shimizu bridge03.jpg|2010/01<br />
File:shimizu bridge04.jpg|2010/01<br />
File:shimizubashi02.jpg|2009/11 清水橋<br />
</gallery><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[四重洞川]]<br />
<br />
[[Category:二分団|しみすはし]]<br />
[[Category:交通設備|しみすはし]]</div>
Torao
http://agimura.net/index.php5/%E6%A2%A8%E6%B2%A2%E3%81%AE%E6%A9%8B
梨沢の橋
2013-01-05T22:19:19Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>[[File:bridge in nashizawa01.jpg|thumb|梨沢の橋]]<br />
'''梨沢の橋'''<map name="梨沢の橋" lat="35.403974" lon="137.494361"/>は[[四重洞川]]の最上流に架けられている無名橋。<br />
<br />
古くは恵南地方、阿木、長楽寺、龍泉寺、恵那神社、恵那山をつなぐ[[龍泉寺古道]]として使用されていた。また左岸の駕台、右岸の清水という地名もここに{{ruby|駕籠立場|かごたてば}} {{note|(駕籠を下ろして一行が休むための見晴らしの良い休憩所)}} があり{{ruby|御駕籠台|おかごだい}}や水場があったことに由来すると思われる。下広岡の[[馬籠橋]]から[[共同墓地|共同墓地 (広岡)]]まで山道を登りこの橋を渡って右折し[[越沢口]]へ向かう道が龍泉寺古道にあたる。<br />
<br />
[[9.28水害]]の時には四重洞川上流で発生した土砂崩れによる流木がこの橋で堰止を作り、この橋の左右の田んぼに大量の土砂が流れ込んだ。ただし橋自体は無事で流木を撤去した後も曲がった欄干のまま利用されていた。現在欄干は撤去されガードレールが設置されているが橋桁はその時のままである。<br />
<br />
{{-}}<br />
<gallery><br />
File:bridge in nashizawa02.jpg|2010/01<br />
</gallery><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[四重洞川]]<br />
* [[龍泉寺古道]]<br />
<br />
[[Category:二分団|なしさわのはし]]<br />
[[Category:交通設備|なしさわのはし]]<br />
[[Category:龍泉寺古道|りゆうせんしことう]]</div>
Torao
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梨沢の橋
2013-01-05T22:15:12Z
<p>Torao:</p>
<hr />
<div>[[File:bridge in nashizawa01.jpg|thumb|梨沢の橋]]<br />
'''梨沢の橋'''<map name="梨沢の橋" lat="35.403974" lon="137.494361"/>は[[四重洞川]]の最上流に架けられている無名橋。<br />
<br />
古くは恵南地方、阿木、長楽寺、龍泉寺、恵那神社、恵那山をつなぐ[[龍泉寺古道]]として使用されていた。また左岸の駕台、右岸の清水という地名もここに{{ruby|駕籠立場|かごたてば}} {{note|(駕籠を下ろして一行が休むための見晴らしの良い休憩所)}} があり{{ruby|御駕籠台|おかごだい}}や水場があったことに由来すると思われる。この橋の左岸を[[共同墓地|共同墓地 (広岡)]]まで行きそこから下る山道、右岸を上流方向に行く[[越沢口]]へ向かう道が龍泉寺古道にあたる。<br />
<br />
[[9.28水害]]の時には四重洞川上流で発生した土砂崩れによる流木がこの橋で堰止を作り、この橋の左右の田んぼに大量の土砂が流れ込んだ。ただし橋自体は無事で流木を撤去した後も曲がった欄干のまま利用されていた。現在欄干は撤去されガードレールが設置されているが橋桁はその時のままである。<br />
<br />
{{-}}<br />
<gallery><br />
File:bridge in nashizawa02.jpg|2010/01<br />
</gallery><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[四重洞川]]<br />
* [[龍泉寺古道]]<br />
<br />
[[Category:二分団|なしさわのはし]]<br />
[[Category:交通設備|なしさわのはし]]<br />
[[Category:龍泉寺古道|りゆうせんしことう]]</div>
Torao
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血洗神社
2013-01-05T22:02:43Z
<p>Torao:/* 巖邑府誌 */</p>
<hr />
<div>{{infobox<br />
|タイトル=神社仏閣<br />
|画像=血洗神社01.jpg<br />
|名称=血洗神社<br />
|住所=岐阜県中津川市阿木字血洗6872-1<br />
|位置=<map name="血洗神社" lat="35.42594" lon="137.5035" label="short"/><br />
|標高=835m<br />
|祭神={{ruby|[[w:天照大神|天照大神]]|アマテラスオオミカミ}}<br/>{{ruby|[[w:大山祇神|大山祇神]]|オオヤマツミノカミ}} ([[龍泉寺跡|龍泉寺]]山祇神社より遷座)<br />
}}<br />
{{ruby|'''血洗神社'''|ちあらいじんじゃ}}は[[国道363号]]で[[広岡]]から[[川上]]に向かうに途中に位置する神社。日の神が子を産んだ時にその産穢を{{ruby|<strong>血洗池</strong>|ちあらいいけ}}で洗い浄めたという伝説が名の由来となっている。<br />
<br />
血洗神社は美濃国神名帳 {{note|(平安時代)}} に記されている[[阿気明神]]とも言われており地元では{{ruby|血洗様|ちあらいさま}}の名で呼ばれている。夏になると隣接している[[名古屋市キャンプ場|キャンプ場]]や[[フォーティーンヒルズCC|ゴルフ場]]が賑わいを見せる。<br />
<br />
このページでは血洗神社と関連の深い血洗池も併せて説明する。<br />
<br />
== 血洗池跡 ==<br />
'''血洗池'''<map name="血洗池跡" lat="35.42397" lon="137.501847"/>は血洗神社から国道を西に 200m ほど下った場所に存在した池。現在の血洗池跡はほぼ完全に埋没しており、流入する小さな沢と湿地のみが池の痕跡を残している (江戸時代頃の古文書などにも載っているが、大正生まれの人によれば昭和の初め頃にはかなり小さくなっていたと聞いている)。血洗神社は元々この血洗池の湖畔に祀られた神社であったが、土砂の流入による池の変形や土砂崩れによって現在の位置に遷座したと伝えられる。<br />
<br />
血洗という名は{{ruby|[[w:天照大神|天照大神]]|アマテラスオオミカミ}}を出産した{{ruby|[[w:イザナミ|伊邪那美命]]|イザナミノミコト}}が産の血をこの池で清めたという伝説に由来している。またこの時に{{ruby|[[w:胞衣壺|胞衣]]|えな}} {{note|(胎盤)}} を納めた山が胞衣岳 (恵那山) と呼ばれるようになったという[[天照大神の胞衣伝説]]を示す遺跡の一つである。<br />
<br />
現在の血洗池跡は {{年号|1986}} の国道363号の拡張工事で整備されたものである。この時に血洗池の南にあった腰掛け岩を現在の位置に移動している。腰掛け岩の側面に現れている×状の文様は古代のペトログラフ (岩刻文字) とも言われている。<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
{| style="font-size:0.9em;line-height:115%;padding:0px;"<br />
|-<br />
| {{年号|1738}} || 美濃明細記に血洗社と胞衣伝説の記。<br />
|-<br />
| {{年号|1916}} || 12月 本堂・境内改築。御大典記念碑。<br />
|-<br />
| {{年号|1934}} || [[龍泉寺]]の山祇神社から{{ruby|大山祇神|オオヤマツミノカミ}}を遷座。 <br />
|-<br />
| {{年号|1986}} || 国道整備に伴い本殿遷座、履舎造営、血洗池跡の整備。<br />
|}<br />
<br />
== 風景 ==<br />
<gallery><br />
File:血洗神社 境内01.jpg|2009/12 血洗神社境内。<br />
File:血洗神社 境内02.jpg|2009/12 血洗神社境内。<br />
File:血洗神社 境内03.jpg|2009/12 階段。<br />
File:血洗神社 境内04.jpg|2009/12 拝殿。<br />
File:血洗神社 境内05.jpg|2009/12 拝殿の中。<br />
File:血洗神社01.jpg|<map title="血洗神社" lat="35.42594" lon="137.5035"/>09/02/21 血洗神社。シンプルな神明鳥居は天照大神を祀っているため。<br />
File:血洗神社 村社石柱01.jpg|<map tilte="血洗神社" lat="35.42594" lon="137.5035"/>09/02/21 血洗神社。村社血洗神社の石柱。<br />
File:血洗神社 拝殿01.jpg|<map title="血洗神社" lat="35.42594" lon="137.5035"/>09/02/21 血洗神社拝殿と本殿。<br />
</gallery><br />
<gallery><br />
File:血洗池 跡地04.jpg|2009/12 血洗池。<br />
File:血洗池 跡地05.jpg|2009/12 血洗池。<br />
File:血洗池 跡地06.jpg|2009/12 血洗池。<br />
File:血洗池 跡地01.jpg|<map title="血洗池" lon="137.502014" lat="35.423913"/>09/02/21 血洗池跡。山からの小さな沢が流れ込み湿地のようになっている。<br />
File:血洗池 跡地02.jpg|<map title="血洗池" lon="137.502014" lat="35.423913"/>09/02/21 血洗池跡。腰掛け岩は跡地の整備で写真に移動している。元の場所は不明。<br />
File:血洗池 跡地03.jpg|<map title="血洗池" lon="137.502014" lat="35.423913"/>09/02/21 血洗池跡。腰掛け岩の文様はペトログラフを成していると言われている。<br />
</gallery><br />
<br />
== 血洗池の由緒書き ==<br />
血洗池に建てられている由緒書きには以下のように記されている。<br />
<br />
<hibun photo="09/02/21=血洗池 由緒書き01.jpg"><br />
<div>'''安岐明神御由緒と旧跡血洗池、腰掛岩の傅承'''</div><br />
<div><br />
神代の或る御神 (伊装册命) 御子 (天照大神) を産み給ひその御胞衣 (胎児を包んでいる膜と胎盤) を洗いしに池の水赤くにぞなりけり。血洗の池と呼名され、{{ruby|胞衣|えな}}は恵那嶽に納む。胞山の名これより起る。我国に漢字移入以前の神代文字<br />
{{ruby|[[File:血洗池 由緒書きホツマ.png|37x12px|ホツマ]]|ホツマ}} ({{ruby|秀眞伝|ホツマツタエ}}) の記録に判然として残る。又日本名勝地誌、新撰美濃誌にも明らかなり。産終わりて母神、岩に腰掛け、御心地爽にして、安らかにぞなり給い、今よりこの処を安気野の里と名付けよと宣り給う。和名抄に恵那六郷の内安岐郷はこの地に起因す。後安気から安岐となり明治以降阿木となる。住時は深さ五米広さ一ヘクタールの大池にして、その周囲は古木うっそうと茂り幽邊の霊池たりしが、宝永年間の大雨など度重なる水禍により土砂混入し、昭和初期には一坪足らず小池となり何時しか埋没してその姿無し。池の近くに安産を深謝して安気明神を祀る。美濃国明神帳に恵那郡七社の内従四位上安気明神とあるは血洗神社是なり。今天照大神、大山祇神を併せ祀る。安産、育児、山林守護の神として霊験あらたかなること普く世人の尊崇する由縁なり。壬申の乱 (672) の折 {{ruby|大海人皇子|おゝあまのおうじ}} (天武天皇) は伊勢の大廟を拝し、美濃地に入りて当社を遙拝して戦勝を祈願し給ふと云う。今度改修されたる国道三六三号線は古くより東山道と三河路を結ぶ重要道路にして俗に中馬街道とも呼ばれ明治中頃までは人馬かろうじて通る山路であり亦式内恵那神社 (権現様) 詣での参道でもあった。国道改修により社地の一部が道路敷地となりその代償を以て血洗神社本殿を奥深く遷座し奉り、履舎を造営、腰掛岩の移築、血洗池の復原を育行し天皇在位六十年記念事業として之を建つ。<br />
<div style="text-align:right;">昭和六十一年五月三日 血洗神社氏子一同</div><br />
</hibun><br />
<br />
以下はこの由緒書きを現代風に書き直したものである。<br />
<br />
<blockquote class="translated"><br />
昔々の神の時代、{{ruby|伊邪那美命|イザナミノミコト}}が {{ruby|天照大神|アマテラスオオミカミ}}を出産した折に、胞衣 {{note|(胎盤やへその緒など)}} の血を池で洗い流して山に納めた。伊邪那美命はこの腰掛け岩に腰をかけホッと一息、この地を安気野と里と名付けるよう命じた。阿木という名はここから来ている。また血を洗った池は後に血洗池と、 {{ruby|胞衣|エナ}}を納めた山は恵那山 (昔は胞山などと書いた)<br />
と呼ばれるようになった。<br />
</blockquote><br />
<br />
神話の時代の出来事と、阿木、恵那、血洗の名前の由来について書かれている。ここで恵那山の由来の根拠として挙げているホツマツタヱ、日本名勝地誌 {{note|(1896/明治29年)}}、新撰美濃志 {{note|(1931年/昭和6年)}} には実際に恵那の由来が天照大神の胞衣であると記されている。<br />
<br />
<blockquote class="translated"><br />
当時の血洗池はうっそうとした森の中にあり、深さ 5m、広さ 1 ヘクタール {{note|(10,000㎡)}} ほどの大きな池だったが、山からの土砂の流入によって昭和の時代に埋没してしまった。この血洗池の近くには安産を祈願して現在の血洗神社である安気明神を祀りっている。美濃国明神帳に恵那郡七社の内従四位上安気明神とあるは血洗神社の事である。壬申の乱 ({{年号|627}}) には美濃の地を訪れた大海人皇子 (天武天皇) も訪れて戦勝を祈願したと云われている。<br />
</blockquote><br />
<br />
[[w:濃飛両国通史|濃飛両国通史]] {{note|(1923年/大正12年)}} では帳内社[[阿気明神|安気明神]]が阿木村にあったと推定しているが、その安気明神が血洗神社の事であるとした根拠はこれだけでは分からない。<br />
<br />
[[w:壬申の乱|壬申の乱]]で[[w:天武天皇|大海人皇子]]が押さえたのは同じ美濃でも滋賀県の県境、不破の道 (関ヶ原)。阿木から見ると美濃の正反対に位置する。記紀によれば主に東山道・東海道から美濃の兵を集め、遠くは長野からも来たと言われている。東山道は大井-坂下から[[w:神坂峠|神坂峠]] (恵那山トンネルの真上) を越えるルートである。もし大海人皇子本人が徴兵に回ったのであれば[[安岐郷]]の近くを通った事になるが、実際に東山道を駆け抜けたのは伝令使のような人たちであろう。<br />
<br />
壬申の乱においては、不破関の徴兵令から援兵到着までの期間が短いことから、美濃地方の多くの地域に大海人皇子の天領や屯倉のようなものが存在していたと考えられている<ref><strong>岐阜の歴史</strong>, <i>松田之利 他</i>, 株式会社 山川出版, 2000, ISBN 4-634-32210-2</ref>。このことは壬申の乱から 5 年後の {{年号|677}} に恵那郡から天武天皇 {{note|(大海人皇子)}} へ新嘗祭に使う米が献上されている事からも推測できる ([[飛鳥池の木簡]])。また阿木地内にも宮田や両伝寺 (領天神) などの天領を示唆する地名があり、それぞれに古い[[天神神社 (宮田)|天神神社]]、[[天神神社 (両伝寺)|天神神社]]があることから、阿木にも天皇家領地があって壬申の乱の伝令使が来ていたかもしれない。<br />
<br />
<blockquote class="translated"><br />
国道363号は古くから東山道と三河路をつなぐ重要な道路で中馬街道と呼ばれていた。明治中頃までは馬がやっと通れる程度の道であり、また恵那神社への参道でもあった。国道の拡張工事で血洗神社の敷地を提供したお金で神社の改築と血洗池跡の碑石を建て、天皇在位六十年記念事業とする。<br />
</blockquote><br />
<br />
中馬街道としての国道363号は岩村か、せいぜい阿木小学校前の交差点までかと思われる。血洗神社の前を通って中津川に出る道は中馬街道から見ればかなりの裏ルート的な扱いだったのではないだろうか。<br />
<br />
血洗神社前を通る国道363号は[[龍泉寺古道]]であり、[[龍泉寺]]や[[恵那神社]]、[[恵那山]]詣の参道でもあった。日本地名大辞典<ref><strong>角川日本地名大辞典 21 岐阜県</strong>, <i>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三</i>, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040014906</ref>には龍泉寺の馬頭観音堂に馬で参拝したと記述されていることから、江戸時代初期の頃には馬の通れる程の道があったと推測できる。<br />
<br />
<references/><br />
<br />
== 御大典記念碑 ==<br />
血洗神社境内、鳥居左側の石碑には[[w:大正天皇|大正天皇]]の[[w:即位の礼|御大典]] {{note|(1915年11月10日)}} を記念して血洗神社の改築を行った碑が建てられている。{{年号|1916}} 12月の日付と寄付者の芳名が刻まれている。<br />
<br />
<hibun photo="09/02/21=血洗神社 御大典記念碑01.jpg,血洗神社 御大典記念碑02.jpg"><br />
<div>'''御大典記念'''</div><br />
<div><br />
本堂及境内改築寄附芳名<br/><br />
<span class="smaller"><br />
一金五円 鷹見弥市<br />
一金四円 鷹見弥吉 鷹見?一<br />
一金三円 西尾?美 本多?酒 増尾仙治<br />
一金二円五十銭 鷹見?? 安藤巳之助 森兵蔵<br />
一金二円 ???吉 血洗??場 鷹見?蔵 鷹見金三郎 大井久? 大森兼吉 後藤賢治 安藤長次郎 足立金治 佐々木惣兵ヱ<br />
一金一円七十銭 佐々木?治<br />
一金一円?十銭 〜 田並典? 鷹見?次郎 鷹見健治 梅村?? 丸山?治 丸山?? 安藤?? 〜<br />
一金一円二十銭 石川菊蔵 <br />
一金〜<br />
</span><br />
<div class="right">大正五年十二月</div><br />
</hibun><br />
<br />
== 文献 ==<br />
<br />
=== 美濃明細記 ===<br />
{{年号|1738}} に編纂された[[美濃明細記]] 第三巻 ''神社'' の最後のページに'''血洗社'''として記述されている。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div>[[File:血洗神社 美濃明細記01.png]]</div><br />
<div><br />
恵奈郡阿木山麓大野平<br/><br />
一 血洗社 上古神ノ胞洗之池云々 恵奈之名起于此歟<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
太古に神の胞衣を洗ったと言われる池があり恵那の名はこれに由来か、と書かれている。つまり江戸時代中期には血洗池や胞衣の伝承が存在したことになる。<br />
<br />
現在の血洗神社付近までを大野と言うかは微妙なところ。もしかしたら昔は大野の何処かに血洗神社の前宮があったのかも知れない (そんな話は聞かないが)。あるいは、昔の大野が飯沼村の枝村だったことから飯沼の神社と書きたかったのかも知れない。<br />
<br />
=== 巖邑府誌 ===<br />
{{年号|1751}} に編纂された[[巖邑府誌]]の[[巖邑府誌/飯妻|飯妻]]に大神廟についての記述がある {{note|(神の中でも大神とは天照大神の意)}}。ただしここに書かれている大神廟とは飯沼の[[神明神社]]の事かもしれない。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
村内の鬱蒼とした森の中に大神廟がある。言い伝えによれば大昔に日の神が恵那岳に降り立ち、胞衣を納めたことから胞山という名が付いたと云われている ({{ruby|胞衣|えな}}を俗に恵那とした)。お産の穢れを清めた事からその名の着いた血洗池が竜泉山にある。またへその緒を切った鎌が[[三森神社]]に納められている。大神廟はこれらの遺跡である。<br />
</div><br />
<div><br />
この大神廟は占いをして伊勢の{{ruby|度会|わたらい}}郡に遷ったという。この事から伊勢廟の御用材には恵那岳の木材を献上して今に至るとの事である。もちろん根拠が無く信ずるに足らないが、国史では垂仁天皇 25 年 {{note|(紀元前5年)}} に{{ruby|[[w:倭姫命|倭姫命]]|やまとひめのみこと}}が大神鎮座の地を求めて近江 {{note|(滋賀県)}} の東から美濃を廻って伊勢に至ったと云われている。つまり、かつて倭姫命が占いをして現在の地に決めるまでの行宮 {{note|(元伊勢)}} と言われるようなことがあったのかもしれない。そうして里人がたくさんの妄説を付けたのである。<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
[[天照大神の胞衣伝説|胞衣伝説]]の現実性は薄いにしても伊勢神宮の[[w:元伊勢|元伊勢]]があったかもしれないと推測している。<br />
<br />
[[w:日本書紀|日本書紀]]には[[w:伊勢神宮|伊勢神宮]]が現在の場所に定まるまでに近畿周辺地域を巡幸したと記されている。より詳しい{{ruby|倭姫命世記|やまとひめのみことせいき}}によれば紀伊、吉備、大和、伊賀、近江、美濃、伊勢と巡幸し、またそれぞれの地で仮宮の置かれた場所も記されているが、美濃でも最東端の恵那地方まで来たとの記録はない。ただし倭姫命世記自体が鎌倉時代 {{note|(1185年頃-1333年)}} に書かれた物語であり、編算内容に当時の公家や武家勢力の影響を色濃く受けていると考えられる。<br />
<br />
=== 大日本地名辞書 ===<br />
{{年号|1902}} に編算された[[大日本地名辞書]]の''安岐郷''の項にも胞衣と血洗池に関して記述されている。この項の [補] に「名細記」と記されていることから、新撰志とは前述の美濃明細記であろう。血洗池を古跡と記していることから明治の時代には既にかなり埋没が進んでいる事が窺える。<br />
<br />
<blockquote class="quote"><br />
<div><br />
新撰志伝、血洗社は阿木山の麓、大野平にあり、神代のむかし、ある御神こゝにて御子を産給ひ、胞衣を洗ひ給ひし跡也といひ云え、血洗池という古跡ものこり、また恵奈山の名もそれより興りしよし、里老いへり<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<br />
=== 惠那神社誌 ===<br />
{{年号|1912}} の[[惠那神社誌]]では[[阿氣明神]]は血洗神社であると推測している。また血洗神社が現在の場所に移るまでの経緯の言い伝えが記されている。<br />
<br />
<blockquote class="original"><br />
<div><br />
血洗の池は、惠那山の西南麓なる、阿木村廣岡にあり、昔時は深さ十數尺、大さ三百餘坪の池にして、其周圍近傍には古木蓁々と繁茂し、幽邃の氣人をして戰慄せしむる程の靈池たりしが、寶永元申年霖雨の際、山岳崩壊して、土砂竄入したるため、今は全部埋まれたり、此の池より流れ出る水赤かりきと、而して池の北方二三町の處に血洗神社あり、天照大神を奉祀す、小祠なれども村社に列せらる、又此の池の南に腰掛石、東の方に屏風岩あり、又産髪を納めし石塚あり、清淨ヶ丘、鶴ヶ峰、甘露ヶ峰、祠ヶ澤、等の地名皆是れ等に起因すと伝ふ、和名妙に安岐郷と有るは、此所にして廣岡は其本土なり、美濃國神名帳に從四位上安氣明神とあるは、此の血洗神社たること、明細記、地理志料等に伝へるが如し、此の社本來は、血洗池の東南、森林中にありし大社なりしが、元龜年間に飯沼村との間に山論起りし時、安氣明神の森を燒拂ひ、降て承應明暦の頃、又々境界論を惹起し、互随て神社をも今の處に移し、僅に小祠を建立して、奉祀を繼續せるものなりと伝ふ、(此の一節は、編者十四歳の頃、阿木村廣岡、今井豊次郎氏の祖父久助翁の舊記及口碑等書冩せるものを、拔萃せしものなり)<br />
</div><br />
</blockquote><br />
<blockquote class="translated"><br />
<p><br />
血洗池は恵那山西南の麓の阿木村広岡にある。昔は深さ十数尺 {{note|(3〜6m)}}、大きさ三百餘坪 {{note|(約1,000㎡)}} の池で、その周囲は古木が鬱蒼としており霊能に長けた人を持ってしても戦慄する程の霊池であったが、{{年号|1704}} の長雨で山崩れが起きて土砂が流入したため現在は全て埋まっている。この池から流れ出る水は赤かったと言われている。<br />
</p><br />
<p><br />
池を北に二三町 {{note|(約300m)}} 行ったところに血洗神社があり天照大神を奉祀している。小祠であるが村社に列せられている。またこの池の南に腰掛岩、東に[[屏風石]]があり、また産髪を納めた石塚があり、清浄ヶ丘、鶴ヶ峰、甘露ヶ峯、祠ヶ沢などの地名はこれに起因すると言われている。和名抄に載っている安岐郷とはこの場所であり広岡はその中心である。美濃国神名帳の從四位安氣明神とはこの血洗神社を指していると明細記、地理志料などに伝えられている通りである。<br />
</p><br />
<p><br />
この社は本来は血洗池東南の森の中にあった大社であるが、元亀年間 {{note|(1570-1573/安土桃山)}} に飯沼村と山境紛争が起き安氣明神の森を焼き払ってしまった。さらに承応明暦 {{note|(1652-1657/江戸初期)}} の頃に再び山境紛争が起き神社を現在の場所に移し、僅かに小祠を建立して奉祀を継続したものであると伝えられる (この一節は編者が14歳の頃に阿木村広岡の今井豊次郎氏の祖父である久助翁の旧記および口碑などの書き写しから抜粋したものである)。<br />
</p><br />
</blockquote><br />
<br />
元亀年間には[[岩村城の戦い]]があり、武田勝頼の軍勢が遠山子城を攻めて阿木周辺の神社仏閣を焼き払った時代であることから、山境紛争ではなく兵火で焼かれたのが正しいのかも知れない (血洗神社は[[龍泉寺]]と[[長楽寺]]を結ぶ[[龍泉寺道]]にある)。<br />
<br />
<references/><br />
<br />
== 伝承と四方山話 ==<br />
* 血洗神社前は恵南から中津川方面へ向かう近道である。阿木から中山道中津川宿へ[[w:助郷|助郷]]に向かう道としても使われたと思われる。<br />
* 昭和50年代頃までは血洗神社前の小川は「清水」と呼ばれ、[[阿木小学校]]の根ノ上遠足で水汲み場としていた。[[龍泉寺道]]の古文書における息継清水とはこの小川と思われる。ただし、現在は上流にキャンプ場が出来たことにから飲料には適さないだろう。<br />
* 千旦林城や龍泉寺を攻め落とした武田の軍勢が通ったのであれば、その血を洗ったのが本当の語源かもしれない。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[阿気明神]]<br />
* [[恵那神社]]<br />
* [[天照大神の胞衣伝説]]<br />
* [[屏風石]]<br />
* [[龍泉寺道]]<br />
<br />
[[Category:二分団|ちあらいしんしや]]<br />
[[Category:神社仏閣|ちあらいしんしや]]<br />
[[Category:国道363号|ちあらいしんしや]]<br />
[[Category:龍泉寺古道|りゆうせんしことう]]</div>
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