元禄の山村騒動

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元禄の山村騒動(げんろくのやまむらそうどう)は江戸時代初期に岩村藩で起きたお家騒動。これが原因で当時城主であった丹羽氏が越後へ左遷され、岩村藩は松平氏の治める所となった。

目次

事の起こり

1686年 (貞享3年/江戸初期)、岩村城主丹羽氏明(にわうじあき)が疱瘡のため20歳で急死。急遽 9 歳という若さで養子に入った丹羽氏音(にわうじおと)が城主となり藩政は家老が執り行う事となった。

成人した氏音は、悪化の一途をたどっていた藩財政を立て直すため改革の側用人として山村瀬兵衛(やまむらせえべえ)を抜擢した。しかし瀬兵衛の活躍を快く思わない家臣らによって氏音に瀬兵衛の専横を訴える騷動が発生。若年の氏音はこの家臣らを押さえられずやむなく瀬兵衛に謹慎処分の命を下した。瀬兵衛も一度はこれを謹んでこれを受けた。

山村の訴えと顛末

しかし瀬兵衛の怒りは治まらず、数年後の 1702年 (元禄15年/江戸初期) に瀬兵衛は自らの無罪を訴えて幕府へ訴状を提出。この件は幕府評定所の預かる所となった。

幕府の取り調べによって瀬兵衛は無罪と定まった。また武士の身でありながら徒党を組み、一家の騷動を起こすとは言語道断として、騷動の首領格である浅井新右衛門、田湖平蔵、西尾治大夫、須賀金左衞門の 4 人を打ち首、妻木郷右衛門を三宅島へ島流し、その他 25 人を追放とした。また氏音もこの騷動での政務の怠慢を問われ石高の半分を没収。越後高柳一万石に転封となり、この後の岩村藩は松平氏が納める事となった。

遠山来由記

この騒動は遠山来由記に詳しく書かれている。

(チナム)ニ 丹羽家衰變ノ由ヲ(タヅヌ)ルニ、其ノ濫觴ハ守城五代目氏音ノ代ニ方テ 家臣丹羽三郎兵衛 領七百石 鈴木源太左衛門 領五百石 丹羽角左衛門

三百五十石 他角左衛門舎弟ニ山村瀬兵衛 二百五十石用人役 ト伝者アリ。頗ル材力有テ出頭眤近ス強ガチニ 主君ノ徳用ヲ重シテ 儉役ヲ専ラトシ 權ニ募テ家中諸事ノ支配ヲ我意ニ任ス。

老臣等、材量足ラ不ルカ事ト皆ナ瀬兵衛ニ(ユダ)()テ家士等大ニ之ヲ憎嫉、主君ニ訴ヘテ瀬兵衛ヲ罪セント欲ス。故ニ徒黨組ミ樹メテ以會議ス。老中騷動夥シ是於主人氏音已得不。

瀬兵衛ニ永キ暇マヲ申シ付ラル命ニ曰、其ノ方事指シタル為ノ故也ト。瀬兵衛 欽テ之ヲ領リ 此ヲ出?ム。然シ共 鬱憤止マズ、暫ク年ヲ歴テ訴状ヲ認メ 自ラ罪無ク傍輩ノ非義ナル事ヲ舉テ以コレヲ江戸ノ官廰ニ達ス()テ、丹羽家中多江 府ヘ(メシ)呼ハレ、始終次斷アルニ 瀬兵衛ニ於テハ 罪無キニ定リ、傍輩ノ家士等 理分明ラ不故ニ事次シ御咎ニモ、汝等武門ニ似合ザル徒黨ヲ結ビ 一家ヲ騷動セシム言語道斷ナリトテ與リ黨ノ者共三十士罪ノ輕重ヲ糺明有テ之ヲ行フ。

曰ク 浅井新右衛門 百五十石田湖(タゴ)平藏 百三十石、西尾治大夫 同前、須賀金左衛門 同前、此ノ四人ハ徒黨ノ張本タルニ依テ下使ノ手ニ渡テ頸ヲ刎ラル。妻木郷右衛門 二百五十石 ハ遠嶋。其ノ外二十五人ハ士官ノ御搆イニテ追放セラル。城守泉刕ハ政勢ノ示シ疎カナル過怠トシテ 本領半減シテ越州上之山ヘ所替仰付ラル。時ニ元禄十五壬午初秋ナリ。

また巖邑府誌でも、瀬兵衛は次々と富国の策を打ち出したが代々の土地を削るなど定めたために家臣らからの反発を買い、家臣20人余りが連名して氏音に山村の専横を訴えるに至った、と記されている[1]

  1. ^ 山村の専横を幕府に訴えたという話も聞くがその出典は不明。

戯曲版「村山騒動」

この騒動を元に講談や舞台用に変化した話では瀬兵衛が悪者で領民を苦しめたという形に変化している。

瀬兵衛の理不尽な増税によって領内農民は一揆寸前まで困窮。庄屋の田中与市郎なる者が江戸へ向かい直訴を行う。これが受け入れられて増税は中止。しかし直訴の罪で与市郎には磔の刑が下される。領民達は高僧を通じ与市郎の助命を嘆願したが間に合わず、とうとう与市郎は磔になってしまう。

関連項目

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