利用者:Torao/ノート/濃飛両国通史

提供:安岐郷誌
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濃飛両国通史の安岐郷史に関係しそうな記述の抜粋。一部旧漢字を変更。

目次

上巻第十八章 祖神奉祀

【恵那郡】延喜式三座 (美濃國神名帳七社)

  • 坂本神社 從五位上清坂明神歟。今の坂本村大字茄子川坂本に在りしも、延文二年三月野火の為消失せり。因て旧蹟に式内坂本神社てふ石標を建つ。祭神不詳、或云大山祇命歟。大日本史神祇誌には坂本村十二奏社を充てたり。
  • 中川神社 從五位上中津川明神 村社中川神社 中津町字北野鎮座。旧時白山社と称し、菊理姫命・伊弉册命・木花開姫神を祀るといふ。
  • 惠奈神社 從五位上惠奈明神 郷社惠那神社 中津町字惠那山頂上鎮座。祭神未詳。里伝に伊弉諾・伊弉冉二神を祀るといふ。
從四位上阿氣明神 阿木村字阿木字大門前、郷社八幡神社歟
從五位上長窪明神 静波村杉野字長窪、村社八幡神社歟
從五位上加上(カヲレ)明神 中津町字川上、恵那神社
座地末考 從五位上雁栖明神

上巻第二十章 王朝の文物駅伝

恵那郡の地、人煙未だ多からざる際、駅伝の負担重くして、駅子の逃亡相つぐ。郡に良宰ありと雖も尚且つ治績を見難し。国司最も苦心するところなり。されば斉衡二年更に國解を上り、賞を懸けて復興を計る。曰く「惠那郡阪本驛は信濃國阿智驛(伊那郡會地村) と相去ること七十四里 (今の十里十町)、雲山疊重し、路遠くして坂高し、星を戴て早く發するも夜を犯して晏く至る。一驛の程も猶數驛に(マサ)る。驛子の負荷常に遞送に苦しみ寒節の中には、道にて死するもの衆し。朝廷之を悲み殊に恩貸を降し永く驛子の祖調を免許す。又去る承和十一年擧郡三年の復穎 (免祖) を給ひ無限の恩を施すと雖も、徒に公家に費し曾て息ふ所無し。前任の良宰治方を展ふと雖も猶興復し難し。況や復愚吏に任するに於ては更に何の術をか施さん。今彼の郡の課丁を檢するに總して二百九十六人なり、就中二百十五人は驛子たり、八十一人のみ調庸を輸す、之を諸郡に比するに衰斃尤も甚だし。望み請ふらくは諸郡司の富豪恪勤なる者を擇び、募るに五位を以てし三年中を期して件の郡を治めしめん、謹んで官裁を請ふ」と。勅して請に依らしめ給ふ。後世伝馬役にて郷村披露せしと同じ。又以て当時恵那郡の事情を察するに足らん。

上巻第二十三章 承久の合戰

一條宰相信能は曩に義時追討の宣旨を下されしとき院御所に候し、次て官軍發向の際一軍に将とし宇治川なる芋洗に出陣す。戦破れ歸洛せしを、武家の申請により六月二十四日、六波羅に下され尋て張本の卿相として洛中に斬らる可かりしを、特に義時の旨あり、遠山左衛門尉景朝に預けられ、七月当国に下著し、八月十四日遠山荘に於て刎ねらる、年三十二。(吾妻鑑、前田本公卿補任、皇代暦)

〔岩村神社〕恵那郡岩村町字相原に在り、従三位参議左中将信能卿を祀る。卿この地に斬られたりしか、後人その墓に就きて小社を建て、その霊を祭り若宮神社と称せり。明治十三年 明治天皇中山道行啓の途、特に片岡侍従を差遣し祭粢料金拾圓を賜ふ。翌年岩村神社と改称し崇敬することとなれり。信能卿は正二位權中納言能保の二男にして、建久四年正月叙爵し、侍従左小将等を經て承元四年正月従四位上、建暦元年正月十八日美乃介となり同日左中将に陞り、尋て中宮權亮となる。承久二年正月二十二日蔵人頭より参議に任せられ左中将故の如し。翌年正月七日従三位に叙せられ、同十三年備中權守を兼ぬ。当乱に首謀の一人として七月一日断罪せられ当郡に護送せらる。承久記に「一條宰相中将は遠山左衛門尉影村 (○朝カ) 具足し、美濃國遠山へ下りて切り奉る。中にも此文を誦しきかす。種々法門皆解脱 無過念佛往西方 上盡一形至十念 三念五念佛來迎 乃至一念無疑心と、今はの時に臨て三度誦して切給ふ。紫電たなびき異香薫し音楽空に奏すと、人々も聞ける、有心も無心も袖しぼらぬはなかりけり」と、その斬られしは、吾妻鑑に「七月五日丁亥、小雨降、一條宰相中将信能相具于遠山左衛門尉景朝下著美濃國、即當國遠山庄刎首云々」とあるを以て大日本史料この日に係く。皇代暦は八月十六日に係く。今前田本公卿補任に拠りて本文を作る。

上巻第二十六章 荘園郷保

【恵那郡】遠山氏の繁衍と共に遠山荘の拡張となり郷村を包括す。鎌倉時代の地名を徴すべき古文書に手向郷内明智上下村荒木村窪原佐々良木等あり。

遠山荘 東鑑文治元年 (1185年/鎌倉) の條に出づ、鎌倉時代以後遠山氏の所領たり、岩村その本所なるべし。遠山氏の繁盛なることその氏人の條に述べし如く恵那一郡のみならず木曾にも及べり。康正造内護段錢十二貫二百二十五文、遠山左京助殿、遠山庄所々とあり、同書土岐氏御要脚の内三十貫文の約半數なり。庄は蓋し恵那全郡に亙りしならん。長禄四年 (1460年/室町) 九月二十八日香巖院領遠山荘大井郷云々と季瓊目録に見ゆ。近世庄名を襲用するもの、岩村・馬場・山田・久保原・手賀野・駒場・千旦林・茄子川・付知・加子母等あり。(新撰美濃誌)

上巻第三十一章 応仁文明の乱

〔大井城址〕恵那郡大井町の東端崖上の字内城、城畑の一部にて今の小学校の辺が主要部なり。土岐系図を案ずるに原蜂屋氏の祖なる定親の玄孫に大井遠江守行秀あり。定親の弟頼貞の玄孫は守護持益 (文明六九卒) なれば時代を考ふるに、行秀当事城主たるものの如し。恵那郡長島町字正家に字寺平という、一高薹あり。地勢高燥にして大井長嶋東野の平野を俯観すべし。ここに廃寺址あり、塔の土壇礎石並に鐘楼址等の遺蹟より案ずるに大刹たりし如し。傳へ云、これ眞言古寺にして今の禅宗長國寺の前々身にして応仁乱時兵火に掛りて災するものなりといふ。

上巻第三十五章 岐阜城

当事 (元亀三年) 東濃の遠山氏、武田氏に従ひ居たること左の書状に依りて知るべし。

先書、此表之備不相替候。然者小里儀自隣邦助成、既逆心露顯之様に候哉、無是非次第と於遺恨勿論、當手前之事候之條、先寛宥之儀尤候。其上以時節成敗候者本意眼前に候歟。委曲己附歟、万可口上候間不具候、恐々謹言
 七月七日 信玄
  遠山左衛門尉殿○景任
  同左近助殿○直廉

(武家事紀古案)

寛政重修諸家家譜遠山氏の條に、寛永系図を引きて、兄左衛門尉某、岩村城に住し、弟左近某苗木の城に住す。左近死して、嗣無きにより、右府其親族友勝をして遺跡をつがしむ、といふ。

十月十八日謙信、越中の陣より上野廐橋 (今の前橋) の守将河田伯耆守重親にその事情を報知したる次の書状に拠れば、武田氏先に東濃遠山氏を降しその質を取り置きたるに、岩村城主兄弟病死によりて、再び信長の籠絡するところとなり、甲兵追ひ払はれ信長より弟三郎五郎信廣等を入れて戌らしむといふ。

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