利用者:Torao/調査/2009.06

提供:安岐郷誌
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伊藤さん取材

2009年6月16日 農免橋横の伊藤の爺様 (邦彦さ?) の取材内容。

広岡分校

飯沼村は禅林寺が寺子屋のようなことをやっておった。学制が敷かれる前には禅林寺と新杜でやっておった。一緒にやるまいかとあすこに広岡分校を作った。阿木の小学校ができるより一年前。

大野杜の五輪塔

伊藤源助さが自分の土地に置いてあった五輪塔を集めてあそこに立てた。お侍さんらの墓じゃないかな。大野にはあんなような五輪塔があちこちに残っとる。源助さの子が明治35〜38年まで阿木の村長をやっておったので、あすこに五輪塔を集めたのは明治の初めの頃になるかな。

伊藤さん所もおらんようになっちまったので今は俺が管理しとる。

大野杜

恵那神社の礼拝所じゃなかったかという説もある。古さでいったら神明神社大野八幡神社見沢八幡神社だな。どっから勧請したか? そりゃ分からん。まぁ昔からあすこに祀られとった奴やろうな。

刀神様

西尾庄一君の先祖の誰かが宮司をやっておったのだが、恵那神社から預かった刀を無くしてしまってから不幸が続いたために祀った。御神木を見ても200年くらい経っとるでな、結構古いものだ。子供の頃は歯の痛いのを刀を供えると直ると言われていたが歯医者へ行った方がええわな。それよりもちゃんばらの刀にしよった。

誰かが新しい刀を2〜3本くらい置いてゆくという。西尾君の家は刀神様から農道をはさんで正面の3つ並んだ真ん中。刀神様にあげる祝詞に刀を無くして云々というような事が書かれているらしい (杉浦さんに確認)。

伊藤金衛門記念碑

伊藤金衛門の石碑は刀神様の横に立っている。記念碑付近に石塔がたくさん置いてある。この場所には昔に寺があったのかもしれない。

郷蔵

大野杜の郷倉は明治の終わりか大正に入った頃に建てられたもの。大野八幡の神田(じんでん)を借りた者が年貢として納めた米を入れるところだ。大野村で庄屋をやっておった伊藤さんがおらんようになって、年貢を個人で預かるのはかなわんということで作ったもの。何か古いものでもないかと探したが宗門帖(しゅうもんちょう) (寺や神社で戸籍の代わりに使用していたもの) くらいしか出てこんかった。

大野杜の石像

大野杜の裏に役行者、実利(ジツカガ)行者の石像が置いてある。実利行者は坂下に生まれて那智の滝に飛び込んだ行者さん。那智に実利行者が祀ってあるが、それ以外は坂下と大野と、あとどこかの3ヶ所くらいじゃないかな。

右衛門平

右衛門平は中組の一番上の付近。飯羽間から逃げてきた土岐右衛門というものがほらがたでほろを捨て、右衛門平に住んだという。土岐明神として祀られている。国道を挟んで反対側に杉があって馬が祀ってある。

若宮神社

応神天皇の子供のかさぎの尊が祀ってあるんじゃないか。

秋葉神社

秋葉様ちゅうもんはだいたい山の上にある。下広岡の高松山の上にも祭ってある。

阿木公会堂

元々は見沢の本庄に近い所にあった。現在の CHAO のあるあたり。宮田や見沢の組の舞台だったが阿木公会堂としてまとめた。

どっかの人が持っとった立派な木があったんやけどな、それを公会堂を造るで出さんかとみんなで迫ったわ。その人は渋々出したんやけど、ほりゃま立派な柱やったわ。だけどな、その柱が立派すぎて舞台がよう見えんちゅうことで切られちまった。そりゃ差し出した人はたまらんわな。

戦争中は軍需工場として動き始めてすぐに終戦になっちまった。何を作っておったか知らんが旋盤で削ったカスが表に出ておったで何か作りょったな。おった工員を見る限りは陸軍だったのだろう。工場を作るために回り舞台もとってしまった。

阿木公会堂を作る前は集会場やお蚕を飼うところがあった。

国道のくろにある丘の上に秋葉様が祀ってある。萬嶽寺の墓地を造ったところやな。前に募集しておったがすぐに売れちまったみたいだが。その秋葉様というのは公会堂が火事にならんように祀ってあったものだ。公会堂が潰れちまって今の場所に遷座したが。秋葉坂? ああそういやそれであそこらを秋葉坂というのかもしれんな。

公会堂のあの立派な看板は公民館に置いてあるが、雨ざらしになっておるでな。カバーでもかけとりゃ良いのに。ちゅうても部屋に入れるにゃ難儀な大きさやし。

八屋戸

八屋戸のサバ山でも軍需工場のトンネルを掘っておった。

阿木中心部

今の佐々木工務店の所に喜樂(きらく)という旅館があった。中心地にはパチンコ屋 (指で打つ奴) や一杯飲み屋もあった。旅館は坂本屋、桔梗屋、鈴田屋、徳田屋があった。昔は空いた銚子の本数で勘定を付けようったで、銚子をぽーいと畑の方に投げちまっとった。朝になりゃ分かるのにな。60年くらい前の話だ。そう思やだいぶ寂れちまったな。

戦争

明知線は客車が無くて貨物に乗って岩村に行っておった。明知線が攻撃されたことは無かったが、爆撃を受けた名古屋やそこらへ持って行かれたのだろうな。扉を閉めちまうと真っ暗になっちまうで、明り取りにちょっと開けてな。一応中には椅子が置いてあったが。

阿木に爆弾が落ちたことは無かったが名古屋かどこかへ行く B29 が上を飛んで行っとった。

戦後にセーラー服が配給されたが数が足らずくじで決めた。分厚くぐわんぐわん(ごわごわ)した生地であった。

昭和18年12月11日に、名古屋師団岐阜38連帯に属している阿木の青年団が優秀と言うことで師団長だった賀陽宮様が視察においでになられた。道に這い出た枝は全部切れと。へへぇーと頭を下げておったのでまったくわからなかった。車でこられた。師団は幾つかあったが、中でも賀陽宮様は皇族やでな。同じ師団長の中でも格が違った。

学制

小学校(6年) → 小学校高等科 (2年) → 青年学校 (阿木高の前身;夜学もあった) で青年学校は4年くらい。以降は研究科として行っても行かんでも良いようなものが+2年くらいあった。

役場

鈴田屋の上に役場があった。その役場の横に駐在所もあった。駐在所は後に見沢に移り、そして現在の場所に移った。

槙平用水路

下広岡の大根木との境あたりを新開と呼んどる。槙平から天狗森山を貫いて阿木川の水を引いた水路がある。大正10年 下広岡耕地整理組合という。

養蚕

養蚕はもう阿木でも飯沼でもやっている人は居ない。中津川で1-2人くらいか。昔は自分で食うだけ米を作ってあとは全部桑畑にしていた。現金収入だった。ほりゃもう寝る場所も蚕の中というくらいだった。

炭焼き

炭焼きを商売でやっとる人ももういない。中ノ島公園で教室みたいなことでやっとる。

グリーン牧場

保母牧場

血洗池

今の石碑がある所がドブのようになっとって一抱えくらいの水溜りがあった。

ふるさと林道三森山線をちょっと上がったところに屏風石がある。道のくろにあって石碑も立っとるですぐわかる。そのちょっと上に髪を摺って祀ったという髪塚という石がある。これは山の中で道からは見えない。

子安堂

文明11年(1479)に岩村の殿様が寄付をした。本尊が盗まれかけたことがあって、庄屋の宮地が預かっていた。江戸の末期か明治に入った頃に茅葺のお堂を建ててそこに移した。

子安講

大野の20件くらいで小さなお堂に入れた観音様を廻している。どこかの家で子供ができると貸してくださいと言ってそこの家へ移る。何処か別の家で子供ができるまでその家でお祀りする。そうやって回しておる。

最近は子供ができんようになって全然動かんで困っとる。何処かのお寺に奉納しようかという話もしとる。

庚申講

まだこの近所の6件くらいでやっとる。お薬師様もお弘法様もやっとる。四十八夜講をやっているとは聞かないな。

お立ち待ち

旧暦の9月22日、何かの願をかけ、日が沈んでから月が上がるまで立ったままでいる風習があった。別に強制も集まることも無く、その人の好き好きに生活の中でやっておった。

立ったままじゃやることも無いので、大野から広岡の六地蔵を参って戻ってくると大体それくらいの時間になっておった。阿木の中なら大体通じるやろうが他の村でやっとったかどうかは知らん。

吉村弥吉

平成5年には亡くなっておる。

虫送り

享保5年(1720)くらいから始まる。大野でも新田との境の山 (槙が根) に送り神を持ってゆく虫送りをやっておった。阿木の中でも方々でやっとった。

御火(おひ)の供養

神明神社正面の坂の上、今の共同墓地がある近所でどんどをやっとった。

飯沼のお墓の前くらいに瓦製の馬頭観音が置いてある。阿木から行くと県道406号の右側に石仏がいくつか置いてあるところ。

子供みこし

保育園がやりようる。まぁ作っておるのは大人だが。

どんどやき

まだやっとるが集め取るのは大人だな。

禅林寺

むかーしの奥さんは在所が何かやっとったのか知らんけど、えらい信心深い人で、池の場所が悪いちゅういうことで埋めることになった。それで池を埋めるときに家におっちゃいかんということで一家で出かけておったところにお葬式が入ったが、寺はもぬけのから。えらいめこいてさがいたと。

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