利用者:Torao/調査/2009.08

提供:安岐郷誌
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鷹見さんの話

2009年8月15日 ほらがた近くの鷹見照夫さんと奥さんの話。照夫さんは 1933年 (昭和8年) 元日生まれ。

牧野

僕は 1936年 (昭和11年) に牧野へ来た。上のユウキ建設が家で弟がやっている。それ前の牧野には家を持たない乞食が住んでいた。本格的な開拓が始まって入植を推奨したのは戦後の 1947年 (昭和22年) 10月だったと思うけど、それまではほとんどが森で藤上の桑畑が少しあったくらいだった。

今は藤上の口の所に家や別荘が建ちよる。そこに家を建てた不動産屋が分譲地に良い名前を付けるのに「ポプラ台」という名前を付けた。ポプラっちゅう木はやたらと大きくなって倒れて危ないので今はもうほとんど伐っちまったんだがな。家の縁側から見える所にも大きいポプラが立っとる。古くなったらこっちの道へ倒れんように伐ってもらわないかんな。

街の人から見ると土地代が安いが農地だと転用が面倒。牧野は原野で登録されとる土地が多いで分譲には都合が良い。

牧野には遺跡があって、今テニス場になっているところの横の畑[MAP]からはよく土器が出ていた。阿木写真集に載っている槙平の土器は僕が出したものだが、あの土器はどっかへやっちまった。昔は桑で耕しとったが今は耕耘機でやっとるもんだで、全部粉々になっちまっとるかもしれん。

阿木山

風神神社から上がっていって槙平をまっすぐ上がっていったところに赤滝がある。

昔からロクロを回す木地師が住んでいた。明治になって住んでいたところが国有林化されてしまうという事で、ここは俺んたあの土地だと主張するためにロクロ天井の所の峠に墓を立てた。

山の様子は変わりやすくて、猟師が霧に巻かれたのでじっとして居って、霧が晴れたら3mくらい先に熊が同じようにじっとしていた。熊にしてみればかなわんな。

阿木山は断層で隆起した山で、昔は里側はもっと絶壁になっていた。その絶壁側の方に万年茸が生えていて、その頃はザイルなんてものはなかったもんで、上からロープをかけて下りて取っておった。じゃが天狗がロープをほどいちまって戻れんようになるで、縛り口の所に小便をかけておくと汚がって寄ってこんと云われていた。水で濡らせば縛り目が締まるという事かな。

槙平用水

槙平用水は大根木の新開へ出ている水路じゃなかったかな。丸山のシクラメン農園を上へ登っていった所に出ていると思う。(大根木の人に聞いたらこれは風神神社の下から引かれている用水だった。)

戦争

阿木からは出兵はしたが爆撃は受け取らんかった。野田の所に地下工場を造ろうとしていた。 戦争中から戦後まで配給制だった。石油も1ヶ月に5合しかくれない時もあったので囲炉裏の火で本を読んだ。 疎開は親戚を頼って来ていたのも居たし、団体で来たのは萬嶽寺に来ておった。

憲兵や兵隊なんかはまぁ必要に応じて来ていただろうが、ザイゴクジンはいっぱい来ていた。退役したあとに指導教官として来ていた人たちだった。

どんど焼き

どんど焼きは昔からやりょうった。子供の頃にやっていたし、ずっと昔から続いているんじゃないのか。ここらへんはゴミ置き場の先の最初の家の前あたりでやっていた。

阿木夏祭り

阿木の夏祭りは戦後暫くしてから始まったんじゃなかったかな。終戦の時分はやけくそになって、地下工場に徴用されてきた工員たちも盆踊りをした。戦時中は広岡は広岡(新杜)でやっとった。阿木全体で集まってということはなかった。

虫送り

このへんでやっておった記憶はない。

郵便局

昔は長田(永田?)医院の下にあった。今の藤屋と佐々木工務店の向かいの家のあるところ。

大根木の人の話

2009年8月16日 大根木の丸山のシクラメン農園の下で近所らしき人に聞いた話。

槙平用水

ここの上に流れている水路は風神神社の下あたりから阿木川の水を引いているもので、槙平から引いているのはもっと上の下広岡を流れている。広岡の四ツ辻を上に上がって突き当たりを右に行くとすぐ橋がある。この橋の横を通している水路が槙平用水の水。

途中までは車で上って行けるが、そこからはずっと山道になるで山を歩く格好でないとちょっと行けんぞ。まぁ水路沿いに行けばいいので道に迷うことはないと思うが。

河内さん取材

2009年8月16日 萬嶽寺の和尚さんの奥さんの話。

根ノ上観音

根ノ上観音 (龍泉寺の馬頭観世音菩薩) は秘仏になっていて、恵那三十三観音参りが行われる毎年4月と10月の12日〜18日にのみご開帳。恵那山十三観音になっているところは大抵その期間に開帳している。

十六羅漢

根ノ上観音の前には十六羅漢が祀られている。これは昔、萬嶽寺の山門の上に居られた方たちだが、伊勢湾台風で山門が潰れたときに本堂の方へ移動して、新しい山門が完成しても戻らないでそのままここに居る。

梵鐘

鐘突堂は伊勢湾台風の後にあった名もない小さな台風で壊れた。しばらくは山門の梁に柱を通してそこで打っていた。お寺の鐘も戦争で持って行かれた。兵隊さんと同じように鐘が白いタスキを着けて引っ張られていった。

戦争

本堂の左側には戦争に出兵して亡くなられた方々の位牌が安置されている。最近、戦後に強制労働させられたロシアの方で見付かった遺骨の DNA 鑑定で阿木の人と分かったらしい。兄弟や息子の DNA と照らし合わせて分かったと言う事である。

千社札

黙って千社札を貼って行く人が居て困る。御札を頼んで書くまでのちょっと引っ込んだ隙に貼って行く。若い人が何人かで来て貼って行く人たちも居る。本堂の軒や中にまで貼るのは勘弁して欲しい。前にこりゃいかんということでおっさんと二人で五十〜六十枚はがしたが高くて大変なので何枚か残してある。「トおる」「寺尾」などの千社札は別の遠いお寺でも見たからそうやって全国廻っている人やろうね。

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