和宮様御東下

提供:安岐郷誌
和宮御東下から転送)
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皇女和宮 肖像画

1861年 (文久元年/江戸後期) 10月、皇女和宮様が御東下される際に大井宿中津川宿を御通行。街道周辺の助郷村は宿場や休息所、道路の整備、伝令や荷運びの労役に駆り出された。

目次

熊崎新三郎事件

和宮様の御通行に際して岩村藩の代官吉田泰蔵は野井村に対して大井宿へ人足30人を差し出すよう命じた。しかし野井村は大湫宿(おおくてじゅく)助郷が割り当てられていたし、その人足は明らかに中野村が出すべきものであった。野井村は断ったが最終的に強要され道路整備や通行人の接待を行わせられた。

一行御通行後の夕方、こんな事が先例になってはいかんと野井村の百姓熊崎新三郎なる者が吉田の泊まっていた本酒屋 (現中野村庄屋屋敷跡) に乗り込み吉田を斬りつけて逃亡。そのまま新三郎は行方知れずとなり、熊崎家は閉門、家族は親戚預かりとなった。

野井村もまたこのような事が今後も続いてはいかんと岩村藩を相手に幕府へ訴状を提出。評定所の取り調べで野井村は勝訴し、今後野井村に大井宿の労役を課さないこと、野井村に金25両を出すこと、代官を罷免することが決定した。野井の里人は新三郎を義民として称えた。

和宮泉

大井宿本陣の裏手、現在の城ヶ丘保育園の校庭に和宮泉(かずのみやせん)[MAP]と呼ばれる井戸が残っている。由緒書きによれば本陣の林家が使用しており、和宮様に水を供した井戸だと云う。

和宮泉(かずのみやせん)

ここ中山道大井宿は古くから領水の湧く井戸がたくさんありました。地中深くから良質な玉石を積み上げて掘られたこの井戸もその一つで、本陣林家が常用した井戸でした。文久元年十月、皇女和宮様の御東下の折にはこの井戸水を汲んで供したという話が残されています。御昼食の御小休憩にここ本陣にお立ち寄りになられた和宮様は生まれて初めての長旅でたいそうお疲れのご様子、ご同行の水見役の山城守は、庭の木陰の脇から湧くこの井戸水を検水されて、「良水これに勝る水なし」とたいそうお褒めになり、幾杯も汲み上げてお泊りの中津川宿までお運びになられました。(大井宿本陣十八代当主林茂樹氏の話より) 幕末の悲劇と言われた和宮様の御降嫁を後世に伝えるかのようにこの井戸は今も枯れることも濁ることもなく、水はこんこんと湧いています。

和宮泉由緒書き01.jpg
資料撮影 09/06/14 [1]

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