天狗党の乱

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武田耕雲斎 筑波山之図

天狗党の乱(てんぐとうのらん)は 1864年 (元治元年/江戸後期) 3月に水戸藩の尊皇攘夷過激派である天狗党が筑波山に挙兵した事件。各地での争乱の末、慶喜を頼りに上洛を試みたが幕府の追討を受けて 1865年 (慶応元年/江戸後期) 1月に敦賀で投降した。

京都に向かう途中に大井宿で止宿。阿木村や飯沼村の領民も天狗党の警戒に駆り出された。

目次

経緯

幕末の 1864年 (元治元年/江戸後期)、尊皇攘夷の過激派「天狗党」が水戸の筑波山で挙兵 (天狗党の乱)。各地で幕府の軍勢と合戦を行った。

武田耕雲斎率いる党軍は幕府による追撃を逃れ、京都に居る一橋慶喜 (後の徳川慶喜) に尊皇攘夷の志を訴えるべく中山道を西進。11月16日には下仁田で高崎勢と、19日には和田峠[1]で松本・高島勢との合戦で勝利し、下諏訪から飯田へ三州街道 (東山道) を南下していた。

大井宿通過

天狗党の経路(旧暦)

周辺の国々へは幕府より追討令が出されていたが、相手は高崎・松本勢に勝利する程の手練れ揃い。加えて岩村藩主が大坂加番で留守ということもあり、当所槙ヶ根[MAP]付近に敷いていた陣を東野まで下げて警戒するのみとなった。

1864年 (元治元年/江戸後期) 11月25日、東野の小野川に陣を敷くが、しかし党軍が馬篭へ出るのか上村 (上矢作) へ向かうのかが分からない。26日、やはり上村だとそちらへ陣を移動したところ、馬篭に向かったとの報が入り27日朝には再び東野に布陣する。

東野の陣には侍30人、足軽70人、猟師・郷夫600人に大筒2門。100人1組ずつ鉄砲や竹槍で武装し花無山保古山などに展開。27日朝より中山道からの進入路の警戒にあたった。対する天狗党は実戦経験豊富な侍総勢1000人余りに加えて大筒数十門を帯行。合戦となれば岩村勢に勝ち目がないのは明らかであった。

天狗党は27日に大井宿で止宿。飯沼村の作右衛門 (宮地) という者が東野の陣を抜け出て大井へ見物に出かけたところ、天狗党の侍に飯沼村の袖印[2]を見付かり、大垣・彦根あたりの廻し者かと捕まった。槙ヶ根へ連れられ散々取り調べを受けたが、ただの百姓だという事が分かったため釈放され逃げ帰った[3]

党軍は28日朝五ツ (午前8時頃) に大井宿を出立。その後幕府軍の討伐部隊が通過したが、28日夜には警戒を終了し29日には東野の陣も引き払った。

天狗党の顛末

その後、天狗党は大軍勢の待ち受ける大垣藩・彦根藩・尾張藩などを避けるため鵜沼で中山道を外れて琵琶湖沿いを目指す。しかし揖斐で再び行く手を阻まれ日本海側からの京都を目指した。越前国境の蝿帽子峠を冬期に越えるのは容易ではなく、積雪の中で藪を払い川を渡り、兜も甲冑も捨てて槍や大筒のみの行軍であった。

何とか越前国に入った天狗党であるが、新保に到着した党軍は幕府軍に討伐令を出しているのが自分たちの目指していた慶喜本人である事を知り、志潰えたとして遂に投降した。敦賀に捕縛された党員は取り調べの上、3月1日の武田耕雲斎の斬首を始めとして主要格を処刑。他に遠島や追放などの処分が下されて天狗党の乱は終わった。行軍の道すがらに人夫として召し捕られた人々は取り調べ後に釈放され6月26日に籠に乗って大井宿を通ったという。

  1. ^ 和田峠に水戸浪士の墓[MAP]が残っている。
  2. ^ 騒乱時に部外者を見分け遺骸の所属を知るために袖口に付けた村ごとの印
  3. ^ 決起当初の天狗党は荒々しく庶民への略奪・放火・切り捨てなどの狼藉を働いていた。しかし穏健派の耕雲斎が党首となった時に庶民の理解が得られなくては攘夷も難しいとしてそのような行為を禁止する軍規を定めた。島崎藤村の「夜明け前」でも天狗党が礼儀正しく宿賃を払っていった事が書かれている。

外部リンク

参考文献

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