岩村神社

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岩村神社(いわむらじんじゃ)[MAP]は岩村町の柳町にある神社。この地で遠山景朝によって処刑された後鳥羽上皇の近臣一条信能を祀っている。

目次

縁起

後鳥羽上皇の謀臣であった従三位参議左中将藤原(一条)信能は 1221年 (承久3年/鎌倉)承久の乱で妥当鎌倉幕府を唱えて挙兵した帝に従った。敗戦後、乱の首謀者として捉えられ身柄は遠山景朝に預けられた。景朝は信能を遠山荘に送り、同年8月14日に岩村の相原において32歳で処刑された。

承久記には「一条宰相中将は遠山左衛門尉景村 (景朝) 具足し、美濃国遠山荘へ下りて切り奉る。中にも此文を誦しきかす。種々法門皆解脱 無過念佛往西方 上盡一形至十念 三念五念佛來迎 乃至一念無疑心と、今はの時に臨て三度誦して切給ふ。紫電たなびき異香薫し音楽空に奏すと、人々も聞ける、有心も無心も袖しぼらぬはなかりけり」また吾妻鏡に「七月五日丁亥、小雨降、一條宰相中将信能相具于遠山左衛門尉景朝下著美濃國、即當國遠山庄刎首云々」

この一条信能の墓に小社を建てて霊を祭り若宮神社、若宮八幡としたのが岩村神社の始まりと言われている。

1703年 (元禄16年/江戸初期) の岩村明細帳(岩村町役場蔵)によれば若宮は三尺五寸四面、境内五間・六間御竿除地とあり極めて小さな小社であった事が分かる。

1880年 (明治13年) の明治天皇の中山道行幸の折に勅使を派遣し祭粢料金10円を賜り、これを機に神社の名前を岩村神社と改めた。

文献

濃飛両国通史

濃飛両国通史上巻第二十三章 承久の合戰より。

一條宰相信能は曩に義時追討の宣旨を下されしとき院御所に候し、次て官軍發向の際一軍に将とし宇治川なる芋洗に出陣す。戦破れ歸洛せしを、武家の申請により六月二十四日、六波羅に下され尋て張本の卿相として洛中に斬らる可かりしを、特に義時の旨あり、遠山左衛門尉景朝に預けられ、七月当国に下著し、八月十四日遠山荘に於て刎ねらる、年三十二。(吾妻鑑、前田本公卿補任、皇代暦)

〔岩村神社〕恵那郡岩村町字相原に在り、従三位参議左中将信能卿を祀る。卿この地に斬られたりしか、後人その墓に就きて小社を建て、その霊を祭り若宮神社と称せり。明治十三年 明治天皇中山道行啓の途、特に片岡侍従を差遣し祭粢料金拾圓を賜ふ。翌年岩村神社と改称し崇敬することとなれり。信能卿は正二位權中納言能保の二男にして、建久四年正月叙爵し、侍従左小将等を經て承元四年正月従四位上、建暦元年正月十八日美乃介となり同日左中将に陞り、尋て中宮權亮となる。承久二年正月二十二日蔵人頭より参議に任せられ左中将故の如し。翌年正月七日従三位に叙せられ、同十三年備中權守を兼ぬ。当乱に首謀の一人として七月一日断罪せられ当郡に護送せらる。承久記に「一條宰相中将は遠山左衛門尉影村 (○朝カ) 具足し、美濃國遠山へ下りて切り奉る。中にも此文を誦しきかす。種々法門皆解脱 無過念佛往西方 上盡一形至十念 三念五念佛來迎 乃至一念無疑心と、今はの時に臨て三度誦して切給ふ。紫電たなびき異香薫し音楽空に奏すと、人々も聞ける、有心も無心も袖しぼらぬはなかりけり」と、その斬られしは、吾妻鑑に「七月五日丁亥、小雨降、一條宰相中将信能相具于遠山左衛門尉景朝下著美濃國、即當國遠山庄刎首云々」とあるを以て大日本史料この日に係く。皇代暦は八月十六日に係く。今前田本公卿補任に拠りて本文を作る。

関連項目

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