巖邑府誌/飯狭

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飯羽間、あるいは苗木城譜では飯場と言う。本書は甲陽史に従う。

飯狭作飯羽間苗城譜作飯場茲從甲陽史

目次

飯狭

飯狭は城府の西北に位置し 4 つの村に分かれている。嶺上(ねのうえ)はここの城郭の西に接する。上限(かみぎり)は嶺上の西、中限(なかぎり)は上限の東北、下限(しもぎり)は中限の東である (現在の飯羽間字根ノ上、上切、中切、下切)飯羽間 4 村の戸数は合わせて百九十余りである。ここは黒い土壌で田畑も痩せており貢賦は最も下である。またこの民は貧乏である。田の溝と城府の川が合流し[1]、牛鼻山をめぐって小沢川と合流する。そして東北で安岐川と合流する。

  1. ^ この川は上限・嶺上より出るもの (飯羽間川)と、富田山から出るもの (富田川)、城府の川 (岩村川) である。全て中限で合流する。

○飯狭在城府西北分為四邑曰嶺上接于 ※1
城郊西曰上限在嶺上西曰中限在上限東
北曰下限在中限東其土黒壤田圃礟瘠故
貢賦最下其民又貧田溝水与城府水合其水
一出於上限嶺上一出於富田山其一則城府水也尽至中限而合
繞牛鼻山
合小澤水而東北入安岐川

※1 飯狭四邑民戸合一百九十餘

飯狭城

飯狭城の跡は上限にありこの下を沢が流れている。俗に城腰と呼ばれているのはこれである。

水中の土塊のような石に、淡い黒色に白の斑点で蛤や牡蠣などのような文様を成すものがある。打ち壊してみるとその片方ずつが手に応じる。壊された城壁の余りと思われる。土壁に貝殻を混ぜ合わせれば堅くなり矢や鉄砲を防げるということであろう。乱世の決まりである。これは貝石と呼ばれており、今でも各州の山の間にしばしば見られる[1]。また世が広々としていた時代に海水が凝り固まって山となり、そのために山の間に貝石が出るとも云われるがそれはないだろう。

苗木城譜によれば飯場城主に遠山友勝が入り子城の統率を任せられている。その子の友忠は飯場を領としたがそれほど経たないうちに明照(あでら)に移り、その子の友信が飯場を領とした (三世は全て右衛門佐と称する)。飯場は飯狭の事である。友勝は遠山景友の子である。

三河史によれば武田勝頼が飯狭を落として守将右衛門佐信次を捕らえた。信次は織田信秀の五子、信長にとっての一番若い叔父で遠山氏に入った者である。また飯狭城主が信友であることから現在ある信友という地名はこの別荘であるとも云われている。諸説入り乱れて混乱している。よく考えると、もしかしたら友信、信次、信友は同一人物で、記した者の聞き違いなのかもしれない。

○飯狭城墟在上限溪水繞其下俗呼名城
腰者是也水中有土塊如石者淡黒白斑成
蚧蛤牡蠣等之文打碎則片々應手蓋城壁
圯毀之餘也想土牆合貝殻堅硬可防矢砲
固乱世之制也呼名貝石方今各州山間徃
々有之或曰浩蕩之世海水凝而為山故山
中間出貝石非也苗城譜曰飯場城主遠山友
勝入承苗城之統其子友忠領飯場未幾徙
于明照友信領飯場三世皆称右衛門佐飯場當作飯
狭所謂友勝乃景友子也参河史曰勝頼陥
飯狭擒守将右衛門佐信次信次乃織田信 ※2
秀五子信長季父冒遠山氏者也或曰飯狭
城主名信友即今有地名信友者乃其別墅
也諸説紛々欠明鬯按友信信次信友疑非別人唯記者之異耳 

※2 美濃諸舊記曰飯狭城主右ヱ門尉重政居之

  1. ^ 江戸時代にはまだ古生物学がなく化石に対して古生物の遺骸や痕跡という観がなかった。

祇園社

城山の傍らの林には祇園社がある。この境界は久保原に接している。

○祇園社在城山傍林中其疆接于久保原

瑞鳳山徳祥寺

瑞鳳山徳祥寺[MAP]もまた上限に位置する。旧號を長福寺と言い、(火災にあったことから) 享保の始めに(いみな)を避けて名前を改めている。臨済宗で瑞林寺に属し黒衣僧を置いている。

○瑞鳳山徳祥寺又在上限舊號長福寺享
保初避 國諱更之臨濟宗属于瑞林寺置
黒衣僧

希菴の墓

希菴の墓 (希菴塚) は嶺上に位置する。希菴の屍を埋めたところである。その傍らの田の溝にかかる木橋は希菴橋と呼ばれ希菴が殺された場所と言われている (希菴の詳細は前述)。傍らに草堂がひとつあり観音仏が安置されている。草堂の號は鈎月庵である。

○希菴墓在嶺上埋希菴屍之處也其旁田
溝之木橋曰希菴橋即殺希菴之處也希菴事詳
于前
傍有一草堂安置観音佛       ※3

※3 草堂號鈎月庵

石窟

石窟は中限の山の中にあり俗に塚穴と呼ばれている (小箸原古墳[MAP])。大昔に雷雨があった時、民は塚穴を作ってこれを避けたと云う。または大昔の住居跡とも云われている。これが何なのかは分かっていない。かつて里人が石窟の中に入り大通寺天蓋(てんがい)塚穴記を発見している。下手でおおざっぱな文字のため読むことができない。

○石窟在中限山中俗呼塚穴曰上世天雨
火民作塚穴而避之或曰上世巢居穴處之
蹟未審俚人甞入窟中得大通寺天蓋塚穴
記文字麁拙不可成誦也

廣澤山天王院

廣澤山天王院 (現在の中切津島神社) は中限に位置する。寺の裏山に祇園神を祀る。

○廣澤山天王院在中限寺背山上祀祇園

西洞山福性院

西洞山福性院は下限に位置する。元は天王院に属していた。最近ここの僧は色衣を着けて、逆に天王院の右に坐している。

○西洞山福性院在下限本属于天王院近
世其僧著色衣却坐天王院之石

温泉

温泉は牛鼻山の北、小沢川の南岸に位置する。小沢川は正家山から出て東に流れ飯狭川 (現在は阿木川ダムの岩村川支流) と合流している。小沢川は嶺上の上平原の池を水源とし正家山の麓を経て安岐川に合流する。侍医の西川玄益が湯平原と名付ける。

里人によれば永禄年間 (1558-1569年/戦国) の頃、府主遠山氏の夫人が多病のために跡取りがなく朝晩子供ができるよう祈っていたと云う。ある晩に夢を見た。神が夫人に言うには「おまえは熱心に子供が欲しいと願っているので山中に霊泉を湧き出させる。一度これに入れば長患いも直り必ず子供が授かろう」と。夫人は驚いて目覚めて府主に語った。府主はこれを不思議に思い幾つかの川を調べてみたがどこにもこの霊験は現れてなかった。

ある日府主が釣りに出た折、思いがけなくここで 2 匹の鹿が谷の水に矢傷を浸しているのを見かけた。鹿の傷口は暫くすると塞いで走り去ってしまった。府主はこれを不思議に思って神のお告げはこれであろうと考えた。

試しにこの水を舐めてみると塩辛く、渋みは硫黄のようであった。泉の井を整え夫人を連れてきてこれに浴びせさせた。37 日浴すると換骨の霊験[1]があり、そして年が明けると男の子が産まれた。この事から府主は薬王石仏を刻み泉の井の傍らに建てて、ここは湯平原と呼ばれるようになった。程なく騒乱が相次ぎ泉井は埋没し石仏の所在も分からなくなってしまった。ただ湯平原という名前が残っているのみである。(永禄年間の城府とは景任である。)

近頃、再び里人がこの泉源を探し出し、石を敷き詰め砂を慣らし井を整えて瘡疹 (皮膚病) に試浴している。療養者も珍しくない。

あるとき僧侶が痔に苦しんでいた。その傷は飜花のようだった。耐え難いような酷い痛みで苦しみうなる声は隣人をも動かし、あらゆる治療も効果がなかった。ある者に小沢の水に霊験があると聞き、籠に乗ってここまで来て浴したところ数日の内に痛みが消えたという。そして一月もしないうちに完治してしまった。

この不思議な体験は噂に広まりそれから浴者が相次ぎ来る人が絶えなかった。異常とも言える出来事である。現在これを試してみると、この冷気は激しく、塩辛く渋みがあって温暖ではない。ただ薪火を借りその寒気の助けとする。

古井は南岸にある。新井は洲にあって激しさは古井に勝るが川が増水すれば使用できない。

○温泉在牛鼻山北小澤水南岸小澤水出於正家山 ※4
東流合于飯狭水 
俚人言永禄中府主遠山氏夫人
多病無嗣且夕禱求嗣一夕夢神告夫人曰
汝至誠懇請求嗣故山中靈泉湧出若一浴
之則沉痾悉除必有挙子之慶矣夫人驚覚
以語府主府主又竒之試諸水皆不驗一日
府主釣至於此忽見二鹿伏礀水浸矢傷瘡
須臾瘡口合而逸去府主異之以為神告是
也試甞其水味醎渋氣如硫黄即修泉井遣
夫人浴焉浴三七日有換骨之驗越明年果而
育一男子於是城府刻藥王石佛建泉井旁
故其地名湯平原未幾裘乱相踵而泉井埋
没石佛失所在唯存湯平原之名耳永禄中城府即
景任
輓近里人復覔得其泉源而疂石浚砂為
井試浴瘡疥而瘳人未珍之會有一緇徒苦
痔瘡如飜花痛楚難忍伸吟之聲動隣諸治
不効或言小澤水有靈驗也即乘轎来浴焉
未浹旬其痛如失不踰月而康復竒験周布
人口自是浴者相踵項背相望可謂一勝事
也即今試之其水氣悍烈醎渋殊不温暖伹
假薪火資其氣古井在南岸新井在洲渚烈
性勝於古井若河水漲則不可得也

※4 小澤水発源於嶺上上平原池經正家山麓入安岐水 侍醫西川玄益作湯平原

  1. ^ 丹骨から仙骨となること。換骨羽化は仙人になるという意。

都多淵

都多淵(つがたふち)は小沢川の上流にある。滝が正家山から落ちている (雄滝、雌滝がある)。深く青々とした淵である。

里人によれば昔に都多(つた)という女が居て嫉妬に狂ってこの淵に身を投げて死んだと云う。この霊が鬼となって隠れ消え、これを見た者は必ず病にかかった。里人はこれに苦しめられたという。あるとき隣村に名望の高い僧が来た。淵に踏み入って念仏を唱えたところたちまち鬼が現れて喝を受けたいと願った。僧はこれを聞いて一喝すると鬼は消えて、以後に鬼の禍は現れなくなったと云う。

愚かな人々の面前で夢を語ったものと言ったところだろう。今淵の周辺を見てみるとここの岩の上に薜蘿(へいら) (かずら、つた、またはつる状の植物の総称) が生えている。従って単に薜蘿淵(つたがふち)と名が付いただけであろう。

○都多潭在小澤水上流瀑泉直下於正家
有雄隴雌隴 而為碧潭俚俗言昔者有女子名
都多者因嫉妬之事投潭而死其靈為鬼隱
見無時観之者必罹疾里人苦之會隣邑有
名望之僧就踵潭上諷誦佛經鬼忽見請受
一偈僧即授之而喝不復見自是妖災永消
可謂癡人面前語夢者也今見潭邉薜蘿生
于巖上故名薜蘿潭耳


古文書の翻訳: このページは巖邑府誌を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

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