鷹見家

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鷹見家(たかみけ)は岐阜県中津川市阿木で多く見られる家系。特に広岡 (清水) 地域に多く存在する。

目次

鷹見城と鷹見岩

鷹見姓の発祥は三河である。15世紀頃に足助付近で勢力を伸ばしていた三河藩三宅氏の傍系と伝えられるが定かではない。

現在の愛知県豊田市上高町古白に鷹見城(たかみじょう)[MAP]という城 (砦) があり、1431年 (永享3年/室町) 鷹見三郎久吉という者が守っていたといわれている。この地域には鷹見岩(たかみいわ)、上鷹見小学校などの遺存地名が残っている。

鷹見岩は登り口近くの近見岩(ちかみいわ)[MAP]と山頂近くの遠見岩(とおみいわ)[MAP]とがある。遠見岩から三河地方を一望できることから、鷹見城は三河の松平氏を監視・牽制するための出城であったと考えられる。

鷹見城は遠見岩から川を挟んで正面の、遠見岩より若干低い高さの小山の上にあった城である。ただしその城山は昭和の終わり頃に完全に削平され現在は畑となっている。造成前に大学生らによる調査が行われ陶器片や銭などが出たと言われている。城山のあった畑は現在でも古白(ふるしろ) (古城) という字で呼ばれている。

高いところから三河地方を一望できるこの地域は古くはタカミと呼ばれていて、ここを領地とした者が鷹見某を名乗ったのであろう。つまり鷹見という名は鷹見岩が由来と考えられる。

なお城跡の近くには真宗大谷派の鷹見山清通寺という寺があり住職は三宅姓である。

鷹見氏族

江戸時代には田原藩 (愛知県東部)古河藩 (茨城県古川市) などの家老や学者に鷹見の姓が見られる。蘭学者で古河藩家老の鷹見泉石像 (渡辺崋山画/国宝) は日本画に洋画の手法が加えられた傑作として有名である。姓氏家系大辭典[1]には鷹見正長とその孫鷹見星皐 (共に江戸時代中期から後期の三河国田原藩の学者) について書かれている。星皐は家老である。

鷹見 タカミ 前後數條參照。田原藩の家老に此の氏あり、もと三河より起る。鷹見正長 (爽鳩)、その孫星皐等、學名高し。又攝津國兵庫の名族に存す、繪屋と號す。祖先は大西と云ふ武士にて、筑前黑田侯の本陣たりき。内、爽鳩は、もと石河氏、同藩鷹見定重の養子となりしなりと。

青野鷹見家

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丸に違い鷹の羽

鷹見文書によれば 1615年 (元和元年/江戸初期) に三河から「鷹見弥左衛門」が来村し青野を開拓したと記されており、阿木の鷹見家はその庶族である。家紋は丸に違い鷹の羽。

阿木鷹見家の多くは岩村浄光寺の檀家で真宗 (一向宗) に属している。浄光寺は 1563年 (永禄6年/戦国) 三河一向一揆の折に上宮寺に付いた内田氏の子が上野国 (群馬県) で開山し、1601年 (慶長6年/安土桃山) 松平家乗の移封に付いて岩村に移ったものである[2]

これらのことから、三河で真宗に帰属し三河一向一揆に参加した鷹見氏の傍系が国を追われて青野にたどり着き (その間約70年ほど不明) 浄光寺の檀家となったのが青野鷹見家の祖と考えられている。

広岡鷹見家

鷹見文書によれば岩村藩の奨励により慶安の頃 (1648-1651年/江戸初期) に「鷹見弥兵次」以下74名が開拓のため広岡新田に移り住んだという。全国的に見ても鷹見の姓が集中しているのは広岡だけである。

曹洞宗派

広岡鷹見家の中でも何件かは萬嶽寺 (曹洞宗) の檀家である。分家を調べてみるとある家以降の分家が萬嶽寺であり、さらに調べるとその時期に女が家を分けられているという。この事から出戻り (離婚) の女が居いて勘当され家を分けられ、また格式高い浄光寺に一緒に入れておくわけには行かないと萬嶽寺に入ったのではないかと類推されている[3]

ただし萬嶽寺を檀家とする全ての家がその分家という訳でもなく、萬嶽寺が開山した時にそちらへ移したのではないかだとか、家に迎えた婿や嫁に合わせ変えたのではないかだとか、様々な憶測を交えつつ謎とされている。

  1. ^ 姓氏家系大辭典, 太田亮, 昭和十八年, 磯部甲陽堂
  2. ^ 巖邑府誌参照
  3. ^ この女の家は清水の倶楽部より110mほど下[MAP]の三叉路東南側角にあったそうである。

話題

  • 「豊田の中世城館 愛知県豊田市内中世城館跡調査報告」という本に鷹見城の事が載っているという。豊田市の図書館にあるだろうか。

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