極楽寺跡
はかつて岩村と飯羽間の境界付近に存在した寺の名前およびその周辺の地名。寺のあった場所ははっきり分かっておらず、現在は周辺に散在していた五輪塔を山際に集め並べている。
明知鉄道極楽寺駅の名前はこの極楽寺という地名に由来している。極楽寺跡は極楽寺駅より約 400m の距離である。
極楽寺跡について
極楽寺の存在に付きまして文献等の少ない中世時代の各先祖ご霊位の生活状態を明らかにする事は極めて困難な事であり考古学的証明や伝承等により輪郭をつかむより仕方がありませんが極楽寺の遺跡につきまして何時創立された寺か明らかでありませんが遺物「岩村町歴史資料館に陳列」から考察すると平安末期の一一八五年 (今から約八百二十有余年前) の頃から存在し室町初期一三四〇年頃まで存在していたと岩村町史は記してあります。出土品から見て相当繁栄した民衆寺であったと想像されると記してあります。遠山庄たる恵那地域全円の中心本所としたものと考えるとも記してあります。ここの土地一帯の字名も極楽寺と登記されております。 合掌
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極楽寺の五輪塔について
期限は平安時代に慈覚大師にて法華経浄土三部経など写経し地中に埋め塚を築いてその上に五輪塔を建て霊位のご供養なされたと岩村町史は記しておりますが極楽寺にて多数の浄土教の経石も出土したとも記しております。
現在の五輪塔は極楽寺址の各所に散在しておりましたが心ある方がこの場所に移動されて現在に至っております。この附近の地域内にての古老・神原武一さんに往時歴史研究家の方が史実にお尋ねなられた文書が保存されておりましてお届け下さいました。
- 五輪塔
- 昔はそれは夥しい数だったが、終戦直前、軍艦を失くした海軍さんが富田のお寺 (岩村長富田東光院) に寝泊れて、ここを開墾した時埋めてしまって、今僅かにしか残っていない。今在るのは残ったものを寄せ集めたもので昔在った位置ではない。
- おらが子供の頃は悪さをして持って遊んだものだが、それはそこらじゅにありようた…
- 骨壷
- 開墾した時、巾2間ぐらい帯のようになって並んでわりに浅い場所からかぞえきれんぐらい出てきた。海軍さんが皆割ってしまた。家の子供が完全なものを3-4つ持ってきたかな。中に骨が残っていて気持ちのええないものものでないので返させてしまった。その後、珍重がって皆が探しに来たが、その時はもう無かった。陶器の欠片はいくつもあったが、それも皆突いて探して持って行ってしまって今あんまり無い。昨年安城の中学の先生が泊りこみで幾日か掘られたが結局何も出てこなかった。
- 経文石
- 開拓した時、石がかたまってたんと出たので畑の隅とかためて置いたが、一雨あった後、見たら達筆で経文が書いてあったので樋田先生に見てもらったら真宗の経文だったそうな。
- 伝説、由緒、地名
- 何も残っていない。ただ地名が極楽寺と言ゆし、色々な物が出てくるで此処がそうだうぞうと云う程度で、寺に関しては何も伝わっていない。山門、本堂、井戸など寺に因む地名は一切残っていない。
昭和46年4月に歴史研究に現地にて尋ねられた貴重な会話資料です「この地方の方言で」 合掌
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2009/12 古井戸について この附近に井戸があり釣鐘井戸として極楽寺としての地名の農耕地の用水として使わしていたとの里伝です
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2009/12 史蹟 極楽寺址之碑
話題
- 極楽寺跡から出土した四耳壺、経石は岩村歴史資料館に保管されている。
- 加藤景廉の孫に当たる善願上人順忍 (1303年 (嘉元元年/鎌倉) 没) が鎌倉極楽寺の三代である (加藤景廉一族の墓参照)。遠山氏の本家である伊豆加藤氏とつながりの深い寺を持ってきたものか。