萬記録飯沼村/天狗党之乱

提供:安岐郷誌
移動: 案内, 検索

元治元年 (1864年/江戸後期) 冬、千人ほどの浪人が筑波山で挙兵し街道筋の所々で合戦を繰り広げた (天狗党の乱)。信州和田峠で松本・諏訪勢と大合戦を行い、それから飯田へ下り妻籠へ出て 11 月 27 日に大井宿で止宿。その後、鵜沼宿、加納宿から越前へ向かい敦賀で処刑された。これは上古井村 (岐阜県美濃加茂市) 百姓の口上を書き写したものである。

元治元年冬、浪士千人ばかり筑波山より出 道筋所々合戦。信州和田峠にて松本勢、諏訪勢と大いに戦ひ それより飯田へ来り妻篭へ出、十一月二十七日 大井宿泊り、鵜沼、加納辺りより越前、敦賀にて事終り。右に付 上古井村百姓口上書写。


上古井村百姓 平七 兼吉

私どもは昨年 11 月 22 日に志願して近江国の多賀大社へ参拝し帰村致しました。その時の事を順を追って話します。

上古井村百姓 平七 兼吉

私共義、去る年十一月二十二日 志願に付江州多賀大社参詣仕り帰村し候。手統左に申上候。

  • 私どもは多賀大社を参拝して 11 月 20 日に加納宿 (岐阜県岐阜市) で泊まり 30 日 (晦日か翌日か) の朝に出立いたしました。新加納宿まで来ましたところで京都方面へ大勢の武士が抜き身の槍や鉄砲を持って向かっていたので恐ろしく思っておりました。

    12 月 (11月の誤記?) 29 日に水戸の浪士が鵜沼宿 (岐阜県各務原市) を出発し、私どもは予定通り往還致しまして北の方へ向かっておりました。林山辺を通って見物しておりましたところ、鉄砲を持った人々が近づき二十軒という所はこの辺かと尋ねて来ましたので、もっと東の方でございますと申し上げました。さらに似たような風貌の人たちが 3 人参りましてこの辺で人足を雇いたいと申されました。兵の人夫が足らず甚だ困っているので今晩の宿まで雇いたいと申してきましたが、私どもは多賀へ参拝し帰路の者でございますので何卒御断り申し上げますと答えました。さらに 10 人ほどが来て中には大将分と見える騎馬武者も一人おりました。その馬は一人に引かれ、一人で荷物を持っている様子でした。何度も頼まれましたので重ねてお断りを申し上げましたが、まったく聞かずに八手を引き立てて是非是非と頼まれました。どこの家の方だろうかと話しましたが、身柄の人に頼らされその上お断りの申しては如何様の義でも難しいと思いまして渋々付き添うこととなりました。

    平七は別になり、兼吉が少々の荷物を持って付き添い、途中の休息所でお聞きしたところ水戸浪士である事が分かりました。恐ろしくなって断ることも出来なくなりました。付き添って菱村へ出で長良川を渡り、天王村並びに鳥羽村、栗の村などへ止宿いたしました。又々断りまして帰村いたしたいと申し上げましたところ、先方の話では、今引き取ってはその方らは身の上が危うく大垣や彦根をはじめ所々で検問を行っているので召し捕られるかもしれない、今晩は泊まりなさいと丁寧に取り回し頂き、逃げ帰る事は無いと言われました。大変に心配になりましたがその天王という村境口の所々で出入口の道筋を大勢の浪人が堅めており出入りもかなわず様子を見ていました。翌朝になり中仙道へ出ました時には如何様にしてでも逃げ帰ろうと心に思っておりました。

    翌 12 月 1 日 早朝より一同の出立時にはまた引き連れられて長屋村で昼支度し、同日に揖斐村に止宿することになりました。

  • 私共多賀参詣の上、十一月二十日 加納宿 (岐阜市) 泊り晦日朝出立。新加納迄相越候処、上りの方へ多人数武士抜身の槍、或は鉄砲所持 押し参り候に付 恐しく存じ候。

    十二月二十九日 水戸浪士 鵜沼宿出立。追々通り両人共往還。北の方へ引込み候。林山辺を通り見物致し罷在り候処。二十軒と申す所は此の辺 申所は此の辺に候哉と鉄砲所持の人々近寄り参り相尋ね申し候。暫く東の方に候旨申し候。同じ風俗の人三相越、此の辺にて人足相雇い申し度旨申込候へ 兵人歩之れ無く甚だ迷惑致し候に付ては今晩泊り迄相雇ひ度旨申聞候に付、私共は多賀へ参詣仕り帰路の者に御座候間、何卒御断り申上げ度と相答へ候。尚又 十人ばかり相越し、中には騎馬武者一人大将分と相見へ 此の馬一人引られ候申聞候。一人は荷物を持ちくれ候様 段々相頼候に付押て相断り候処。更に不聞八手を引立て 是非是非持参り申すべく旨やには 引立て候間何方の家中に候か 相弁ず候之共 身柄の人に頼らされ 此の上断の申し候ては如何様之義出来も難と計りと存じ奉り候間 不得止事。

    平七は別当に相成り 兼吉は荷物を少々持付 相添越し、途中休息の所にて承り候へば水戸浪士の由承知仕り、恐しき候へ共 断も相立ず。付添参り菱村へ出 長良川渡り越し天王村並びに鳥羽村 栗の村等へ止宿。又々相断り帰村致しくれ候様申し聞候処、先方の申し条には 只今引取候にては其方(そのほう)共 身の上覚束(おぼつか)なく大垣、彦根を始め所々堅めも之れ有り、召取り候も難しく計り、今晩は一宿致すべくと叮嚀に取廻し呉れ必ず逃帰る事 無用と申聞候間。甚に心配の余り 右天王と申す村境口の所々 出入りの口々 道筋を浪士多人数にて相堅め、出入更に相成らず様相見へ候間。翌朝に至り 中仙道へ出候はゞ 其の節は如何様に致して成とも逃帰り申すべくと心組に罷り在り候処。

    翌十二月一日 早朝より一同出立に付、又引連れられ候て 長屋村昼支度。同日揖斐村止宿仕り候。

  • 私共を召し連れている大将の名前をうかがいましたところ水戸に三百石を有する新太郎というお方でございました。
  • 揖斐村 (岐阜県揖斐郡) に泊まり、夜には彦根・大垣勢の夜討ちを警戒して浪士たちは全ての入り口を何人もで厳重に守っておりました。
  • 12 月 2 日 金原村 (岐阜県本巣市金原) に泊まり、同 3 日 長嶺村ならびに天神堂村、長嶋村などに止宿 (本巣市根尾長嶺、天神堂、長嶋)。私どもは金原村に止宿いたしました。大将分がその外で評議いたしましておりましたが様子は分かりませんでした。何分この辺りまで召し連れられた上には逃げ帰る訳にも行きません。逃亡するものも居りましたが、人の足では御堅め連中に召し捕られて即座に切り捨てられ、あるいは村々の百姓の手に掛かって一命を失った者もありました。付き添っておりましたところ、先方の大将を始め至って私どもを大切にして頂き、戦になるような事もあるから覚悟を持っておく様段々と申し諭しました。

    12 月 4-6 日の間は甚だ難渋いたしました。この辺りは雪深くまた追々の積雪もございました。蝿帽子峠という越前との国境の時には稲を切り落とし、あるいは松や杉を切り倒して道を整え、さらにどうにもならない場所に差し掛かると大将分の者も鋸や斧などを荷物から取り出して、往来の邪魔になる木々を伐り除き、または柴や松、杉で仮橋などを拵えて越し、私どもは馬を引き荷物を持ち運びました。

  • 私共召し連れられ候大将、名前承り候処 水戸に於て三百石分新太郎と申す人の由に御座候。

  • 揖斐村泊り夜彦根、大垣等夜討参るべく由にて浪士に於ては口々に堅人数を以て厳重に相守り候義に御座候。
  • 十二月二日 金原村泊り同三日長嶺村並びに天神堂村、長嶋村等に止宿。私共は金原村に止宿仕り候。大将分 其の外にて評義仕り候義に付、模様は相訳らずにても何分此の辺り迠召連られ候上は逃帰り候義も(とて)も行届ず、外々より逃帰り候。人歩は御堅めの手に召捕られ 又々即座にて切捨てられ、或は村々百姓の手に入り一命を失い候者も之れ有り候旨 承り候に付、不得止事。付添罷り在り候処、先方の大将を始め至て私共を大切に取廻し呉、(いくさ)に相成り候事も思ひ切り候様段々申し諭し之れ有り。

    十二月四日、五日、六日之間、勘だ難渋。其の辺り雪深く 追々降り積もり 蝿帽子峠と申し越前越しの節は稲を切り落し、或は松、杉等を切り倒し往来通行留め、更に相成らず場所に差掛り候て、大将分の者 鋸、斧等 荷物より取出し 往来の妨ある木々切り除き、又は仮橋等芝松杉を以て取拵え相越し、私共は引馬荷物を持運び候次第に御座候。

  • この辺りではもう浪士も鎧を捨て、駕篭や小筒、その他の不要な荷物は谷へ捨て、または焼き払って身軽にして峠を越しました。
  • 荷運びの馬も細道の難場で荷物もろとも谷へ落ちたこともございました。
  • 病人らもこの辺りでは駕篭を捨て背負いまたは手を引き、大病の者は 2-3 人がかりで難所を越しました。
  • 此の辺りへ罷成候ては浪士鎧を捨て、又は駕篭、小筒、其の外不用の荷物は谷へ捨て、又は焼き失ひ身軽に致し峠を越し申し候。
  • 小荷駄馬の内細道難場にて谷へ荷物共に馬欠落場所も之れ有り候。
  • 病人等も此の辺りにては駕篭を捨て或は背追ひ又は手を引き合わせ、大病の者は二人三人して難所を取越し申し候。
  • 此の辺りに至り候ては一日に一里二里位の所にて一宿致し候に付 四日より六日迄は甚だ難所に御座候。
  • この辺りに至りましては 1 日に 1-2 里 (4-8km) ほどの所で宿を取りました。4 日から 6 日は特に難所でございました。
  • この辺りの村々は人が去り村内に一人も居ないような村が多く見かけられました。そのうち人の居る場所もありましたが、人々は土色のような顔をしており一言も話をする者がおりませんでした。
  • 夜になりますと空き屋に入り篝火(かがりび)を盛大に焚きました。周辺から薪などを手当たり次第に集めて昼のようでございました。
  • 金子(きんす)は所々で戴きましたが、私共は願わずとも食べ物などもたくさん戴けましたので特に金の用もなく、先方へ預け置いておきました。
  • この峠を越す所々で川などに差し掛かりました時には、大将にてそれぞれ工夫致しまして人家へ駄賃を出し川中へ敷いて人馬を渡したり、または柴を苅って流して橋を作り人を渡しておりました。
  • 此の辺り村々人家立ち去り 一人も村内に居り候者之れ無き村多く見へ、其の内居合せの者之れ有り場所も御座候へ共、人々土色の如くにして一言も申す者御座無く候。
  • 夜に入り候えば空屋に入り篝火多分に焚き、其の辺りの薪等勝手次第所々にて取集め 篝火昼の如くに御座候。
  • 金子等は所々にて貰ひ候義、叶はす食物等も多分に私共に得宛行候に付、入用御座無く先方へ預け置き申候。
  • 右峠越前所々差掛り候節、人馬渡し方 大将にてそれぞれ工夫致し人家へ行てだちんを取出し川中へ敷人馬を渡し、芝を切り流し橋を致し人歩を渡し申し候。
  • この辺りの谷々では結構な数の甲冑や武器を流しました。もっともこの場所からは槍と大筒以外の武器は持ちませんでした。身軽になったところで峠を越え越前大野の城下の村々へ入り込みましたところ、大野御領分 7 村が領主より焼き払いとなり、また陣場の指図で落とされたと思われる橋々のあった所ヘ 6 日の朝五ツ半 (午前9時) 頃に到着致しました。

    この夜は寒風が強く雪やみぞれも降り身が凍えて甚だ難渋いたしました。先の 7 村を焼き捨てた場所には一人の堅め人数もおらず、大将を始め焼け残りが居りました。土蔵の中から夜具を取りだして一夜を明かしました。もっとも夜中には軍卒に、このような事があれば明日は戦になるかもしれないから、大筒をさらって (手入れして) おけと申し付けられました。大筒方は夜中に筒さらいを致して、大筒の音が山間に響き渡り今にも戦になるかという心持ちでございました。

  • 此の辺りの谷々へ結構の甲冑等武器多分押流し候。尤も此の場所より所持の武器、槍、大筒の外持参致さず。身軽に相成り峠を越え 越前大野御城下村々の内へ入込候処。大野御領分七ヶ村領主より焼払に相成り陣場の手当と相見え橋々切落し之れ有り候処へ六日朝五ツ半頃着致し候処。

    其の夜は寒風強く雪みぞれ降り身凍へ 甚だ難渋仕り候。去りたら七ヶ村焼捨候場所に一人も堅め人数も之れ無く大将始め焼残り居り候。土蔵の内より夜具取り出し一夜を明し申候。尤も夜中軍卒へ申付、之れ有候には明日必軍に相成るべく候間、大筒をさらへ申すべしと申し付けられ、大筒方にては夜中筒さらへ致し、大砲の音山間に響き今にも軍になり候心持に御座候。

  • 兵糧で迷惑を受けたのはこの場所でございます。もっともこの場所では野陣になったと心得えおり申しました。
  • 12 月 7 日 木の本から北国海道池田へ出て止宿致しました。8 日 松ヶ鼻村 (福井県吉田郡永平寺町松岡松ケ原) で泊まり翌 9 日に今庄宿 (福井県南条郡南越前町今庄) へ到着しました。同所は彦根が堅めておりましたが、本陣を始めとして明け渡し彦根勢も前述の宿を出立して逃げ去った後と見えまして、宿々の席札などが門に打たれた所で浪士一同止宿致しました。
  • 兵糧に迷惑仕り候は此の場場所に御座候。尤も此の場所にて野陣に相成り候と相心得居り申し候。
  • 十二月七日 木の本より北国海道池田へ出 止宿仕り候。八日 松ヶ鼻村泊り、翌九日今庄宿へ着候処。同所は彦根に御堅めに由、然るに本陣始め明渡し彦根方右宿出立致し逃去り跡と相見へ宿々席札等門に打之れ有り候所にて浪士一同止宿仕候。
  • この辺りの村人は既に逃げ去って居りませんでした。雪が降り 5-6 尺 (1.5-1.8m) にもなっておりました。2-3 日滞在し 12 日に新保宿で止宿。これも彦根勢が堅めた跡でございました。

    この日でありましたか日もはっきり覚えておりませんが、浪士より加賀の御堅めへ願い出られたため、下々の私どもがお聞き致した限りでは、去る戌年 (文久2年/1862年?) 以来、朝廷より異国討ち払いの意向が御公儀様 (江戸幕府) はじめ諸大名様へ仰ぎ出されましたが討ち払いは行わないという事になりましたため、この度、水戸の御隠居様の思し召す所を家臣を始め朝廷へ願い出申すために、加州様へ降参の上、理不分明の事。この願いが聞き入られたなら武田をはじめ浪士も本望で一命はもちろん差し出す事を願うというような事を浪士衆よりお聞き致しました。

  • 此の辺り村人数更に之れ無く所逃げ去り。雪降り事五六尺滞留。二、三日にして十二日 新保宿へ止宿。是も彦根堅め場之跡に御座い候。

    同日に候()、日並(しか)と覚無く御座候処。浪士より加州御固め御人数へ願出られ候由、下々の私共承り居り候には、去る戌年以来、天朝より異国討払の義 御公儀様始め諸大名様へ仰出され候所、打払之れ無くに付 此度水戸御隠居様の思召を臣下初め天朝へ願出申され候に付、加州様へ降参の上理不分明の事。御分下れ度願の田右願御聞入り相成候へば武田初め浪士本望の由、一命は勿論差出し願出候趣の由浪士衆より承り申し候。

  • この願いを書き出して 12 日から 24 日まで段々と交渉を進めている様子に見受けられました。同日に聞いた話では加州様へ願意が引き受けになったため、同日より敦賀へ向かう事になったということでした。これにより、途中から加賀勢の案内にて先達の浪士 50 人ばかりを加賀勢が厳重に縛り、段々この通りに敦賀表寺へ引き入れました。この寺は幕打ち廻し加賀勢で外を堅め門外へは出る事が出来ませんでしたが、もっとも至って丁寧に馳走などを頂き、一日替わりに焼き魚なども付けて下されました。
  • 右、願書き出し 十二日より二十四日迄段々御引合之様子に身請け申し候。同日承り候には、加州様へ願意御引請に相成候由、同日より敦賀へ御引入れ相成り申候。右、途中加州勢案内にて先立浪士五十人ばかりの中へ加州勢厳重に締り致し、段々右の通り致し敦賀表寺へ引入れ、右寺には幕打廻し加州勢ばかりにて外を固め、門外へ出候事叶ず、尤至って叮嚀に馳走一日替りに焼物付にして下され候。
  • 12 月 19 日 加賀国より使者が来られました。この時の様子では、浪士が降参したことから異国討ち払いの折には必ず加賀国が味方を引き受けるので、槍、長刀、両刀、大筒その他の武器や馬まで残らず刺し渡すようにとの事でした。これで日本三軍師と呼ばれた武田も安心して大守の命に従って武器を残らず引き渡し、既に同日長持に入れて残らず武器を引き渡しになりました。
  • 十二月十九日 加州より御使者来り。其の節の様子承り候には浪士降参致し候由、然る上は異国打梻ひの味方は加州必ず引受申すべく旨、鑓、長刀、両刀、大筒其の外武器類馬迄残らず相渡しべくとの使者の由、夫に付日本三軍師と申し候 武田も安心して武器残らず大守の命に随ひ相渡し既に同日長持入にして残らず武器相渡し申し候。
  • 29 日に縛り人足と役人が参り武田をはじめ 10 人で出るとお申し入れになり、それぞれ用意の上で入り口を出て元関へ向かい順々に出て行きました。私どもはどうなる事かと心配致しておりましたら名前が呼ばれましたので、入り口を出たところで駕篭に布団を敷いて乗るよう言われました。すぐに乗り門外へ出て両側を見ましたところ、御公役並びに諸大名衆とみられるものが槍、鉄砲で隙間泣く堅めておりました。

    一目見てから体が震え縮み上がりました。敦賀の町を引き回し、町の端から行き当たった所で幕打ち竹柵の場所へ入り込み、これ以上もないという大勢が押しかけ締め上げられ、足には木材で拵えた足ばさみを六寸釘で打ち締め、さらに牢に押し込まれました。このように大将分をはじめとして一人ごとに同様の次第でありました。

    私ども両人は一人は四番の牢へ入れられもう一人は十一番の牢へ入れられました。これは土蔵の大きなもので十七戸を前牢に立てて、横には丸穴を空け食事を通す場にしており、その余りは更に空ける間もありませんでした。入り来る人々は誠に心外だという様に見え、早く打ち首をするようこのように仕向けるのは加賀の大守にあるまじきこと、もっともこの様に大名の怒りがあると知っていたならば先般の諸大名の堅めを切り抜いて上京すべきであった、一万二万の勢は皆殺しに致すのに今さら心外千万だと実に立腹した声が聞こえておりました。

  • 二十九日に相成り候所、締り人足役人参り武田を初組にて十人で罷出之旨申入れ候に付、夫々用意の上 入口を出候て元関へ向ひ順々に出て行き候。私共如何の事と心配致し居り候中、名前呼び候間、入口へ出候所 駕篭にふとん敷き乗り候様申し聞き候間、則ち乗り門外へ出、両方を見請候処、御公役並びに諸大名衆と相見え、槍、鉄砲にて透間(すきま)も無く御固め相成り候。

    一目見るより身体震へ縮み罷り在り候処。敦賀町引廻し参り 町端より行当りの所に幕打ち竹失来の場所有の内之馳込み、無二、無三に大勢押掛り高午小午に〆上げられ足には木材を以て拵え足狭(あしはさみ)、六寸釘にて打〆め 其の上牢の内へ押込み申し候。右の通り 大将分初め一人毎に同様の次第に御座候。

    私共両人、一人は四番の牢へ入、一人は十一番の牢へ入り申し候。右と申は土蔵の大き成り十七戸、前牢に立て仕り横に丸穴を明け食事通ひ場に致し 其の余は更に明間御座無く候。入り来り候人々 誠に心外の体にて相見へ、早く首打ち申すべく斯の如く仕向け加州大守に有るべく事無し。尤大名と怒り斯く有と知るならば先般諸大名の固め切抜き上京致すべき義は安き事。一万、二万の勢は皆殺しに致すべくを今更心外千万と実に立腹の声承り申し候。

  • 牢に拵えた土蔵は長さ 25-26 間 (45-47m)、内 8 間より少ないものは長さ 11 間。そのうち 4 間くらいで 17 戸前。人数八百余人がこの様なところにおりました。
  • 2 月 1 日 士分ばかり一人ごとに呼び出し尋問が行われました。牢へ帰ったその人々に様子をお聞きしたところ、筑波山を皮切りに湊川合戦、それより高崎、和田峠で討ち取った人数を尋ねられたそうでございます。私どもは牢の丸穴の口へ役人がお越しになり事の次第を訪ねられました。
  • 平七は四番の牢で大将分の国分新太郎、小栗弥平、山形半六をはじめ一同の中へ入りました。牢中の様子は一日に握り飯三つを貰いました。
  • 入牢の時には衣類を脱がせられ裸で吟味致されました。金子ともども外着替えなども残らず渡しました。
  • 牢に拵え候土蔵 長二十五六間内、八間より少きは長さ十一間。内四間位にて十七戸前人数八百余人右の通りに相成り申し候。
  • 二月一日 士分ばかり一人毎に呼出し相尋ね申し由に御座候。右の人々牢へ帰り之上風聞を聞候所、筑波山初め湊川合戦、それより高崎、和田峠人数を討取り候分相尋ね候由に御座候。私共義は牢の丸穴の口へ役人参り始来相尋候。
  • 平七の義は四番の牢 大将分国分新太郎、小栗弥平、山形半六初め一同の中へ入り申し候。牢中の様子に御座候。一日ににぎり飯三ツ貰ひ候。
  • 入牢の時、衣類をぬがせ裸にして吟味致し候間、金子其の外着替等迄残らず相渡し申し候。
  • 2 月 4 日、四番牢より大将分の国分新太郎が呼び出されましたが夕刻になっても帰ってこないためどうしたものかと思っておりました。この日は風雨が強く天地が鳴動しているようで不気味な事だと人々で申しておりました。牢ごとに大将分ばかりを同じ様に呼び出し駕篭に乗せて連れて行きましたが帰ってくる人は一人もおりませんでした。同日中に大将分 28 人が呼び出されました。
  • 二月四日 四番牢より大将分国分新太郎呼び出し、夕方迄も帰り之れ無く如何と存じ候。其の日は雨風強く天地鳴か如く、定て変と人々思ひ合せ申し候。牢毎に大将分ばかり右の通りに呼出し、駕篭に乗せ連れ行き帰る人 一人も之れ無く、同日大将分二十八人呼出しの由。
  • 同 7 日 私共は助命となるという事で敦賀の御役所まで一人一人呼び出されお取り調べがありました。牢破りをして逃げた者は居るかと聞かれ、また加賀を始め公役を恨んでいるものが居るという噂があることからありのままに申し上げるようお尋ねになられましたが、そのような事は一向にありませんとお答え致しました。
  • 同七日 私共初助命相成るべく分、敦賀御役所迠一人毎に呼出し御尋之れ有り候には、牢破りして逃去り候と申す者も相聞き、且つ又 加州始め公役を々恨み候風聞之れ有候に付有体に申上ぐべく旨御尋ね之れ有り候へ共 左様の義一向に及ばずと相答え申し候。
  • 15 日に 134 人、16 日に 99 人の呼び出しがございました。武田を始め呼び出されたまま帰らない人が居りましたため、きっと駕篭などで江戸へ差し送りになったものかと思っておりましたが、出牢の時に聞いた話によればいずれも打ち首になったということでした。
  • 十五日 百三十四人、十六日 九十九人呼び出しの由承り申し候。武田を始め呼出しの侭帰る人更に之れ無き候に付、定て目駕篭等にて江戸表に御差送りにても相成り半と存じ奉り候所、出牢の上夫々承り候処、何れも打首に相成り由承り申し候。
  • 2 月 17 日 私どもは取り調べで申し上げ、また押して召し連れられて来た顛末をありのままに申し上げました。どこから連れられてきたか知らない者も 70-80 人も助命を仰せつけられて銘々に金一分づつ下さり下役風の者が柳ヶ瀬番所まで送り下さいました。これより道を急いで一昨日の 21 日に帰村致しました。この送って頂いた下役風の者から聞いた話では、噂によれば仕置き場所には大きな掘りがあり、その穴は今日までに埋められたといいます。その仕置き場所の方を遠目に見ましたところトンビが千羽も群れ鳴き声が聞こえ今となっても耳に残っております。永々とお世話になった人々が死罪になったとなれば思わず悲傷し涙が落ちました。元来、事の善悪については申し上げられませんが、慈愛に預かりました義につきせめて一片の供養香華も手向けたいと思っております。
  • 二月十七日 私共生前等御取調に付申上げ並びに押て召連られ候始末、有体申上候外いつ方の者に候か 存ぜぬ者七、八十人も助命仰せ付られ、銘々迠金一分づつ下され下役体之者 柳ヶ瀬御番所迠送り呉候。夫より道を急ぎ一昨二十一日帰村仕り候。右、送り参り呉れ候下役体の者 噂には御仕置場所は大き成る堀り之れ有り、右穴三つ今日迠に埋め候由承り申し候。右御仕置方角遠見致し候所、鳶鳥千羽も群りウレ井声相聞へ只今にも耳に残り、永々御世話に逢候。人々死罪に相成り候と承り候へば思はず悲傷落涙仕り候。元来、事の善悪は相弁申さす候へ共段 慈愛に預り之義に付責ては一辺の回向香花も手向度と存じ奉り候。
  • その他、長い間浪士に付き添っておりましたが別段承った意図もありませんでした。また吟味に預かった事に意図もございません。前述の通り一旦浪士の者に召し連れられた事は如何様にお咎めを受けたとしても今さら申し上げるべく事もございません。迎合して召し連れられたのではございませんので、幾重にもお慈悲のを御願い致します。
2 月 23 日平七(印)
兼吉(印)

  • 右の外 長々浪士に附添候へ共別段承り候義も御座無く候。其の余御吟味に預り候義も御座無く候付は右の通り一旦浪士の者に召連れ候義に付 如何様に御咎仰付られ候とも今更申上くべく様御座無く候。併而たら召連れ候義に御御座無く候間、幾重にも御檮愍の偏に願上げ候。
丑二月二十三日平七(印)
兼吉(印)


上述の通り間違いございません。お慈悲をもってお咎めを宥免(ゆうめん)して頂いた事にただ願い上げ致します。

以上

上古井村庄屋(印)
 〃  組頭(印)
丑二月吉村治通 写之(印)
平成七年吉村弥吉 写記す

右之通り相違申さず候間。御檮愍を以て御咎之義御宥免(ゆうめん)下し置き成され候様只管願上奉り候。

以上

上古井村庄屋(印)
 〃  組頭(印)
丑二月吉村治通 写之(印)
平成七年吉村弥吉 写記ス

水戸天狗党動向

平成元年7月18日
天狗党等の動き岩村藩の動き



3/27藤田小四郎尊王攘夷の旗揚げ
5/幕府追討令
6/幕府軍大敗
11/1上野(群馬県)太子発
11/20信州和田峠の戦
11/20下諏訪宿泊
11/21松島宿・木下宿泊岩村藩評定 槙ヶ根で防備
11/22赤穂村泊
11/23大島村泊槙ヶ根に陣つくり
11/24駒場泊岩村評定 槙ヶ根より東野へ
11/25上清内路泊東野石仏に陣 上村へ
11/26清内路より落合・馬籠泊猟師・郷夫招集 対策評議
11/27大井宿泊東野石仏に陣場つくり
11/28大井宿発6時1236名
11/29幕府の追手500名余東野陣払う
12/17加賀藩に降服823名



1/29幕府に身柄引渡し
2/1白?
2/4353名処刑
6/26水戸百姓ら120名大井宿通過
郷夫猟師
阿木10028
飯沼305
東野7023
中野4020
永田182
野井4512
佐々良木366
竹折439
500
久須見425
合計474110

手当 郷夫一人銀3匁 猟師一人銀5匁


(岩村藩役人)
大将松岡勝之助
渡辺佐治
大野源兵衛
武具方梅村儀一郎
外士分25名
飯沼村庄屋藤四郎
東野 〃 茂右衛門
永田 〃 定吉
中野 〃 茂右衛門
藤  〃 三右衛門

吉村弥吉氏 平成7年配布の「(よろず)記録 天保より 飯沼村」より。

参照


古文書の翻訳: このページは萬記録飯沼村/天狗党之乱を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
Sponsored Link
ツールボックス
Sponsored Link