さかしま桜

提供:安岐郷誌
逆桜から転送)
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さかしま桜[MAP]打杭峠の旧岩村街道沿いに立っている古桜。「さかしま」とは岩村周辺の方言であり漢字では逆桜(さかしまざくら)と書く。乗馬クラブ・クレイン恵那の東の森の中に立っている。名前は「桜の枝を杭として打ち込んだらそのまま根付いて花を咲かせた。しかし逆に打ち込んだものだから枝を下に伸ばす桜となった。」という伝承による。

現在見られるさかしま桜は枝を上に伸ばす普通の桜である。これは二代目で、一代目が下に枝を伸ばしていたと言われているが、巖邑府誌によれば少なくとも江戸時代中期 (約250年前) にあった木もごく普通の桜であったという。現在の桜も老木だが樹齢250年以上とも思えず、古くに本当にそのような桜があったのかは分からない。

目次

下田歌子歌碑

古桜の前に岩村出身で実践女子学園の創始者である下田歌子の歌碑が建てられている。

松にのみ 千代はゆるさじ 山さくら
    はなもときには 咲くてふものを

従三位 歌子

素直に読めば「松だけでなく時には山桜も良いものだ」という事だが、歌子の人生を考えれば「山出の女でも高貴な男連中に負けずやれるんだよ」といった意味も込められているのだろう。

伝承

江戸時代中期の巖邑府誌には以下のような伝承が書かれている。

昔々、土地の所有者が阿木村との村境を示すために桜の木で杭を作って打ち込んだ。その杭の一つが根付いて芽を吹いた。しかし逆さまに打ったものだからその桜は下向きに枝を伸ばす奇樹となった。

同誌の森永貞の注釈から江戸時代後期には「杭が褌を巻き込んでいるのに気付かなかったため、打ち込んだ拍子に陰嚢を締め付けて絶命した」という脚色が付け加えられたのが分かる。

さらに現在伝わっている話は以下の通りである。

昔々、村の若者達が集まって肝試しを行うことになった。処刑場やら阿弥陀堂やらがあり、また鬼が出るなどという噂もある峠の上まで登った印に杭を打って戻ってくるという手筈だった。

ある若者がおっかなびっくり杭を打ち込みさて戻ろうという時、何者かが着物の裾を捕んでいるのに気付いた。恐ろしくなった若者は逃げようとしたが相手は頑として離さない。これは鬼に違いない、連れて行かれて食われてしまうと必死に振り払おうとした。

夜が明けても若者が帰っていないのに気付いた村人達が様子を見に行くと、峠の上にはもがき苦しみ恐怖の余り絶命してしまった若者が横たわっていた。若者の着物は杭に巻き込まれ一緒に地面に打ち込まれていた。これを鬼に捕らわれたと勘違いていたのであった。

いつしか若者が打ち込んだ杭はそこに根付いた。しかし逆さまに打ち込んだものだから下向きに枝を伸ばす奇樹となった。

この話は森永貞も言及していないため、陰嚢緊縛死にインスパイアされた誰かが江戸時代後期以降に創作したものであろう。

どの話でも、これによって打杭峠の名が付いたと結んでいる。

由緒書き

逆桜と下田歌子歌碑

ここは岩村町から中津川市阿木へ通ずる旧阿木街道の打杭峠である。この街道は岩村城下町と中山道を結ぶ重要な道路であるので、昔はここに関所を設け、城の鬼門除けとして道をはさんで両側に経塚を置いた。岩村町側の経塚は岩村町指定史跡となっている。打杭峠の逆桜について恵那郡史は二つの伝説を記述している。一つは昔、境界を定めるとき役人が桜の木を伐って境界とし、これを逆さに打ち込んだところ、やがて枝を出し葉を付け伸びると、その枝は自然に下方へ垂れるようになったという。

もう一つは昔、若者達が闇夜に肝試しをしたところ、一人の臆病な若者がここへ来て、証拠に桜の枝を地に打ち込み帰ろうとしたが、衣服の裾を共に打ち込んでしまったので動けず、鬼に捕らえられたと思い恐怖の余り絶命した。

逆さに打ち込んだ杭が根付いて大木となったが、枝は逆に出ていたという。伝説の桜は枯れ、二代目の桜は通常の桜である。

逆桜は「さかしまざくら」と呼ばれ、「さかしま」はこの地方の方言である。

そばに下田歌子女史の歌碑が建っている。

「松にのみ 千代はゆるさじ山さくら はなもときには 咲くてふものを 従三位 歌子」大正四年 (一九一五) 十一月十日本郷村地元 (現岩村町) 吉村喜代吉建之、石工岩村矢頭虎吉、と刻まれている。

吉村は本郷村村長をつとめ下田女史と親交があったので、女史に依頼して作歌してもらい、その書をもって歌碑としたものである。

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資料撮影 09/06/14 [1]

写真集

関連項目

外部リンク

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