遠山氏

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遠山氏(とおやまし)は平安から戦国時代にかけての約380年に渡り美濃国遠山荘を支配した氏族。

1180年 (治承4年/平安後期) 8月、源頼朝は伊豆国討伐にあたり父義朝の長刀を加藤景廉(かとうかげかど)に与えて伊豆国目代山木判官兼隆の首を討てと命じた。そして景廉はこの大役を見事に果たした。その後も景廉は創業以来の功臣として頼朝のために身命を賭して遠山荘の地頭職を与えらた (吾妻鏡より)。

景廉が遠山庄の地頭となった年は不明だが 1185 年 (文治元年/鎌倉初期) 頃ではないかという説があるという(日本歴史地名大系)。1221年 (承久3年/鎌倉) 8月3日に景廉が 79歳で没するとその領地は 6 人の子に継承された。遠山庄の地頭を継いだ景朝(かげとも)はその翌年に姓を遠山と替えて入領した。

室町時代の「永亨以来御番帳」「花営三代記」などに遠山櫛原、遠山明知小太郎、遠山安木孫太郎、遠山馬籠左馬介、遠山馬場孫六、遠山飯間宮内小輔、遠山神野右京亮の遠山諸氏が記載されており、中でも明知、岩村、苗木は遠山三頭として知られている。

戦国時代に入ると、美濃の東端である遠山荘は信濃・三河と国境を接しており、西上しようとする武田信玄とこれを阻もうとする織田信長、それに三河の徳川家康の勢力が衝突する地域となった。

目次

岩村遠山氏

岩村藩主#岩村遠山氏参照。

苗木遠山氏

  • 苗木遠山氏は藩主として明治時代まで続いた。

明知遠山氏

  • 遠山の金さんで有名な遠山金四郎景元は明知遠山氏の分家。

遠山七頭

兼山記によれば「遠山一之丞、遠山次郎三郎、遠山徳林齎、遠山三右衛門、遠山四郎三郎、遠山内膳、遠山藤蔵」を遠山七頭としている。遠山来由記では岩村城の戦いにおいて秋山信友の軍勢と戦って討ち死にしたか、または岩村城開城後に秋山に属して籠城したと推測している。

文献

濃飛両国通史

濃飛両国通史 上巻第三十五章 岐阜城より。岩村城の戦いより少し前の 1572年 (元亀3年/安土桃山) は武田に従っていた事が分かる。

当事 (元亀三年) 東濃の遠山氏、武田氏に従ひ居たること左の書状に依りて知るべし。

先書、此表之備不相替候。然者小里儀自隣邦助成、既逆心露顯之様に候哉、無是非次第と於遺恨勿論、當手前之事候之條、先寛宥之儀尤候。其上以時節成敗候者本意眼前に候歟。委曲己附歟、万可口上候間不具候、恐々謹言
 七月七日 信玄
  遠山左衛門尉殿○景任
  同左近助殿○直廉

(武家事紀古案)

寛政重修諸家家譜遠山氏の條に、寛永系図を引きて、兄左衛門尉某、岩村城に住し、弟左近某苗木の城に住す。左近死して、嗣無きにより、右府其親族友勝をして遺跡をつがしむ、といふ。

十月十八日謙信、越中の陣より上野廐橋 (今の前橋) の守将河田伯耆守重親にその事情を報知したる次の書状に拠れば、武田氏先に東濃遠山氏を降しその質を取り置きたるに、岩村城主兄弟病死によりて、再び信長の籠絡するところとなり、甲兵追ひ払はれ信長より弟三郎五郎信廣等を入れて戌らしむといふ。

1572年 (元亀3年/安土桃山) 当時、東濃の遠山氏が武田氏に従っていが以下の書状で知る事が出来る。

先書に顯なる候如、此の表之備相替不候。然者(しかれば)小里儀隣邦を自から助る成る依、既に逆心の露わ顯之様に候哉、是非無次第と遺恨於、勿論為(いえども)、當手前之事候之條、先寛宥之儀尤候。其上時節以成敗候者本意眼前に候歟。委曲己附歟、万口上可候間具能不候、恐々謹言。

先の書に書いたとおり、この表の防備を変える事は出来ない。しかれば小里は自ら隣国を助けるよって、既に逆心ありという事は明かのようである。〓
 七月七日 信玄
  遠山左衛門尉殿 (景任)
  同左近助殿 (直廉)

(武家事紀古案)

寛政重修諸家家譜の遠山氏の條では寛永系図を引いて、兄の左衛門尉某が岩村城に住み、弟の左近某が苗木の城に住む、左近が死んで跡継ぎが居なかったため右府はこの親族である友勝に後を継がせたと書かれている。

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