遠山来由記/岩村城

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岩村城、または遠山城と名付く。あるいは霧ヶ城とも呼ぶ。東美濃恵那郡遠山荘にあって、岩村城から5〜6里 (約20km) (1里を36町とする) ほど東北に恵那と言う東美濃山嶺の最高峰があり、恵那郡という名はこれに因んでいる。遠山荘とは古来からのこの境域の一般名である。これを取って城の別号としている。

言い伝えによれば、霧ヶ城とは木々が生え草竹が茂り、山高く谷深く、気が蒸して常に霧が鎖している山の頂に構えている事から名付けられたという。もしこの城に敵が襲い来ることがあればたちまち深い霧が山を隠し、斥候は頼りを断ち、侵入者は方向を見失うという。これは奇の一つであるために称していると (あるいは景廉の霊が居て守っているためだとも)。

  ○遠山來由記

岩村城亦ハ遠山城ト名ク或ハ霧城ト呼ブ
東美濃恵那郡遠山莊ニ在リ恵那郡トハ粤
嵒城ヲ去コト東北五六里惠那ト云フ高山
有リ東美濃衆嶽ノ長タリ郡名從之名ク遠
山莊トハ古來此疆ノ總名ナリ取テ城ノ別号
トス霧ガ城トハ傳説スラク此城山頂搆ヘ
テ松栢秀デ草竹茂ス山髙フシテ谿㴱ク地
氣上蒸シテ煙霧恒ニコレヲ鎖ス故ニ名ト
又言フ此城若シ讎歒襲イ來コト有レバ昏
霧忽山ヲ翳シ斥候便リヲ絶チ冦人度ヲ失
フ是一ノ竒トス或ハ景廉ノ霊祠有テ護之故也ト故ニ称ス

またこれは霧の加藤次が築いたために霧ヶ城と呼ぶとも云う。あるいは昔、桐中将と言う人物がこの地に流され、これがその旧跡であるため桐ヶ城と名付けられたとも云う (霧と桐は同じ読み)。今考えると霧とは姓名ではない。加藤次が霧ヶ城主の元祖であることから、城主の加藤次に城を主の名に付けて霧の加藤次と呼んでいるのだろう。

また桐ヶ城説の弁締めでは古来から桐中将という者がこの地に流された記録は見たことがないという。東鑑を調べてみると宰相中将という人がこの場所で誅せられている。おそらくは宰相の相を桐と見間違えて桐の中将と伝わったのだろう。

又説ク此ハ是霧ノ加藤次築ケル所ノ故
霧ガ城ト呼ブト或ハ言フ昔桐中將ト云人
此所ニ謫セラル是其舊跡也故ニ桐ガ城ト
名クト霧桐和語相同今議ス霧トハ是姓名ニ非ズ
想ニ加藤次ハ霧ガ城守ノ元祖タルヲ以テ
城守ノ加藤次ヲ呼ントシテ城ヲ主ノ名ニ
加添シテ霧ノ加藤次ト称スルナラン又桐
ガ城ノ説或ガ辨〆曰ク古來未ダ桐中將ト
云有テ此疆ニ謫居スル説有コトヲ見ズ東
鑑ヲ檢ルニ宰相中將ト云人有リ此所ニ於
テ誅セラル恐ハ人宰相ノ相ノ字ヲ見テ訛
テ桐ノ字ト認テ桐ノ中將ト傳ルナラント

考えてみると諸記 (三河後風土記、本朝三国志、金山記など) は往々にして岩村城または遠山城と称している。ただ甲陽軍鑑に岩村キリガ城というのでこの名が分かる。古くから土俗として呼んでいたものを伝承して異名としたのであろう。

また別説では近古に桐加藤司景友という人が居てこの城を築いたために桐ヶ城と名付いたとも云う。これについては後述する。

案ルニ諸記参河後風土記本朝三國志金山記等 徃徃ニ岩村
城遠山城ト称ス但甲陽軍鑑ニ岩村キリガ
城ト云フヲ以知ル此名目自昔既ニ傳ラ呼
コトヲ是土俗傳稱シテ以異名トスル者ナ
ラン尒又或ガ説ク近古桐加藤司景友ト云
者有テ此城ヲ築ク故ニ桐ガ城ト名ト此事
下ニ至テ辨スベキカ如シ

私は以下でまさに当城の基本と遠山家の来由を弁じようとしている。その伝えが説くところは往々にして食い違っており、伝承や雑記の説を収集してこれを精査し、かつ新旧諸記を捜索して織り上げ粗い批評を加えただけである。これは裁決し完了したというものでは決してない。

己下將ニ當城ノ基本及遠山家ノ來由ヲ辨
セントス其傳説スル處徃徃ニメ一準ナラ
ズ故ニ傳聞雑記ノ説ヲ蒐集シテコレヲ沙
汰シ且舊新ノ諸録ヲ捜索シテ以綺舉ゲ粗
評批ヲ加ル耳未必決斷シ畢ルト云ニハア
ラズ

まず伝説によれば当城は昔鎌倉右府将軍源頼朝公の近臣である加藤次景廉が築いたという。

伊勢国に加藤五藤原景員という者がいて平治の乱で左馬頭源義朝公に従って平家と何度も闘った。源氏が戦に敗れて平家が世を治める事となったので、景員も落ちぶれて伊勢国に還り身を潜めて息子ら (加藤太、加藤次) を育てた。治承年中 (1177-1180年/平安)、流された源頼朝が伊豆国に居ると耳にし密かに次男加藤次を向かわせた。

加藤次は父の命を承けてすぐさま伊勢国を立った。宇治橋を渡ろうとした時にある人に会った。彼は景廉を見て敬い跪いて言った。

「私は美濃国東濃遠山荘山上村の村長、山上某という者です。私の山上村は美濃国の辺境山深くにあり、里に遠くて知るものも多くありません。村人は薪を伐り農を営みて朝夕の生業としています。しかし近頃の世の騒乱に遭って盗賊どもが山野に溢れ、これに私の村も脅かされ資財を奪われ人殺しに遭い、村人は飢えと寒さで困窮しています。何とかこれを治められる武勇の人を見付けようと思い神明に祈願するため遙かここに来て何日も神宮に参籠しています。

昨晩、たまたま霊夢を見て、帰路にあなたに逢いました。夢のお告げと同じです。ただの人とは違います。御願いします。哀れみを垂れて私たちの願いを叶えて下さい。」

景廉はつぶさに始終を聴いて承諾し共に東美濃に行く。その地に至って在留すること数日、村民を指揮し厳しく盗賊を追い詰め悪徒を排除し、ようやく平和が訪れた[1]。再会を約束して東国へ赴いた。

ちなみに断ると、その山上村吏の家紋である丸に二引は遠山家の紋と同じである。昔に岩村城主より給与されたと云う。村吏はその領主に最初にこの地所を献上した事からもっともな事である。この因縁は決して浅疎なものではない。現在まで何世代もその村の長たる者の由緒は最も歴史がある。

景廉は伊豆国に到着後に頼朝公に拝謁し、あちこちの戦場に従って軍忠を尽くした。文治の初めに源氏の嘉運を開いた後 (壇ノ浦の戦い)、景廉は昔の約束を守って遠山荘を請い、恩賞の地として遂にこの地に戻ってきたと云う (己上伝記)。

  1. ^ 景廉が滞在していた間、一つの石を席として座り村人を指揮していた。その石は今なお山上村にありそばだった大岩である。形は屏風を立てた様であるため屏風石と呼ぶ。これは英雄の憩いし所にて永世不朽のカントウなるや。

且ク傳説ニ據ラハ當城ハ是昔鎌倉右府將
軍源頼朝卿ノ近臣加藤次景廉築リト謂ク
伊勢國ニ加藤五藤原景員ト云者有リ平治
ノ亂ニ左馬頭源義朝卿ニ從テ平家ト鬭戰
數タビ源氏遂ニ軍敗レテ平家世ヲ治ム故
ニ景員モ流落シ勢州ニ還リ身ヲ潜テ兒息
加藤太加藤次ヲ育フ治承年中頼朝配流セラレテ
伊豆國ニ在ト聞テ潜ニ次男加藤次ヲシ遙
ニ尋子訪シム加藤次父ノ命ヲ承テ亟ニ勢
州ヲ廢ス既ニ宇治橋ニ臨ム時忽チ一人ニ
逢フ渠景廉ヲ見テ敬蹲踞シテ言テ曰ク我
ハ是東濃遠山莊山上邑ノ長山上某ト云者
也然ルニ彼山上村ハ美州ノ邉境山深ク里
遠シテ人多クコレヲ知ラズ惟此中ノ居民
薪ヲ樵リ農ヲ營テ朝夕ノ生計トス而ルニ
近來世ノ喪亂ニ遭テ竊盜劫賊山野ニ充ツ
故ニ我ガ墅村コレガ為ニ劫カサレ資財ヲ
奪レ凶害ニ遇イ庶民尽ク飢寒困窮ス於是
何トゾ能クコレヲ治ル武勇ノ人ヲ得ント
欲ス故ニコレラ神明ニ祈求センガ為我遙
ニ此ニ來テ神宮ニ参籠スル事日既ニ久シ
前夜偶霊夢ヲ感ズ歸路果シテ足下ニ遇フ
暗ニ夢ノ告ニ合ス想フニ直也人ニ匪ジ乞
願クハ足下愍ヲ埀レ我等ガ索ヲ叶ヘ給ヘ
ト景廉具ニ始終ヲ聴テ諾シ即相伴テ東美
濃二徃ク彼ニ到テ淹留スルコト數日而村
民ニ令シ嚴制ヲ加ヘ劫賊ヲ驅リ悪徒ヲ斥
ケ漸ク平釣スルニ曁デ再會ヲ約シ既ニシ
東國ニ赴ク景廉止留ノ間一ノ石上ヲ席トシ坐シテ村民ニ令ス其石今猶
山上村ニ在リ峙立セル大石ナリ形屏風ヲ立タルガ如シ故ニコレヲ屏風石ト呼フ是
英雄ノ所憩シテ永世不朽ノ耳棠ナル歟

 因ニ斷ズ彼山上村吏ガ家ノ紋ハ圓ノ中
 ニ二引ヲ安ス是遠山家ノ紋ト同ジ傳テ
 言フ此家紋ノ如キ舊嵒邨城守ヨリ給與
 セラルト宜ナリ村吏ガ此領主ニ於ル最
 初此地所請ノ事タル因縁豈疎淺ナラン
 ヤ今ニ至テ若干數世此村ノ長タル者由
 緒最モ久イ哉

而景廉豆州ニ到着テ頼朝卿ニ謁シ處處ノ
戰場ニ隨テ屢軍忠ヲ盡ス文治ノ初源家嘉
運ヲ開クノ後チ景廉舊約ヲ差ヘズ遠山ノ
莊ヲ請受テ恩賞ノ地トシ遂ニ再ビ此地ニ
入ルト己上傳記

更に遠山庶族の家系を調べてみると景廉が頼朝公から美濃国遠山荘を賜った時の建久6年 (1195年/鎌倉) 3月3日の御下文があると伝う。これから考えると景廉の時代にこの城を築いたのであればまさに建久6年以来という事になる。景廉の没後、その霊を祭って八幡宮と呼ぶ。累世の城主がこれを尊び鎮守の神と称するのも当然である。

この祠の中に一体の木像が安置されている。景廉の真影という。黒の冠を載せ黒眼を着け手に笏を持つ座像である。長さ1尺 (約30cm) ばかりで (正確には座像長さ1尺1寸 (33.3cm)、台座厚み1寸2分 (3.6cm)) 見た目はとても古い。また宝殿には鎧が1領納められている。とても古く朽ち損ない破れている。これもまた景廉が着用していた甲冑であると云う。

岩村より(いぬい)の方向 (北西) へ20町 (2.2km) ほど先に武並の森がある。木々が鬱蒼としており周囲はおよそ1里ほど。中に神祠があり武並権現と號している。これは判官景村 (東鑑の景朝はこれである) の霊を祭るという (城下の庶民の氏神と称する)。農商はこれらの両宮を崇めて年々祭祀を続け現在でも絶えていない (己上雑記)。

武並の名については武並、丈並の二説ある。景廉の氏族が競い合って所々に散在する事から武が並ぶという意味で武並という。またこの森は他の山と離れた一つの別峰であって、また他の山々より背丈が長並(タケナラン)という意味で丈並ともいう。またこの山の神は霧城八幡の武威に並ぶという意味で武並と名付けられるともいう[1]

この周辺に7社の武並の神有りという。岩村、大井(正家)、佐々良木、野井、藤、久須美、竹折(己上) という。また雑記によれば、霧ヶ城の藩屏 (直轄領) が何ヶ所かあり、それらの多くは遠山氏族であるため霧ヶ城 (八幡神社) の神を勧請し祀って皆武並と称すと云々[2]

以上は岩村城の称号を弁ず。以下は遠山の家系を談ず[3]

  1. ^ ある人が言うには、この中の氏族相並ぶという説は恐らく本当のことではないという。何故かというと、あちこちの武並神社は後にこれを祀ったものである。先に祀っている神社が後に祀られる前提の名を付けるのは理屈が通らない。現在は丈並山に祀っられていたものが八幡の威に並ぶという意味で丈を武に変えたものだという。
  2. ^ 霧ヶ城の藩屏とは、苗木に遠山勘太郎、明照に遠山久兵衛、明智に遠山與助、飯羽間に遠山右衛門、串原に遠山弥左衛門、その他大井、久須美、佐々良木、野井、藤、阿木、曽木など遠山の氏族は非常に多い。
  3. ^ ただしこの家は断絶し系譜を失っているため代々を知る事が出来ない。現在はただその始めと終わりを調べて議するのみ。ここに断っておく。

更ニ遠山庶族ノ家系ヲ檢スルニ
頼朝卿ヨリ景廉ニ美濃國遠山莊ヲ賜フ時
ニ建久六年三月三日御下文有之ト伝以彼
考此ニ景廉ノ時此城ヲ築クトナラハ應ニ
是レ建久六年以來ナルヘシ景廉没後其ノ
霊ヲ祭テ八幡宮ト呼ブ累世ノ城守コレヲ
推尊テ鎮守ノ神ト称スル者ノ宜ナリ其神
祠ノ中ニ一ノ木像ヲ安ズ是レ景廉ノ真影
也黒冠ヲ載キ黒眼ヲ着シ手ニ笏ヲ持ス座
像ニシテ長一尺許形相最モ古タリ又寶殿 ※1
ニ鎧一領ヲ藏ム最モ枯朽毀壞セリ是レ亦
景廉所被ノ甲冑也ト云フ又岩村ヨリ乾ノ
方ニ行程二十餘町ヲ隔テヽ武並ノ森有リ
藂樹穰穰トシ周帀凡ソ一里計リ中ニ神祠
有リ武並權現ト號ス是判官景村東鑑ニ影朝ト云是ナリ
霊ヲ祭ルト城下ノ庶民氏神ト称ス因テ農商コノ兩宮ヲ崇
奉シテ年年ノ祭祀連綿トシ今ニ絕ザル耳
己上雑記

 武並ノ名ニ就テ武竝丈並ノ二説有リ謂
 景廉ノ氏族相並テ處處ニ散在ス故ニ武
 夫並ブト云義ヲ以武並ト云又説此森ハ
 諸山ニ離テ一ノ別峰タリ他ノ山山ヨリ
 丈ノ長並テ高シト云義ニテ丈並山ト云
 或ハ言フ此山ノ神ハ霧城八幡ノ武威ニ
 並ノ義ヲ以テ武並ト名ト或ガ辨ズ此中氏族相並ノ説恐ハ允當ナラ
 ズ何トナレハ處處ノ武並ハ後ニコレヲ祭ルナルヘシ先ニ祭リシ宮祠ニ於テ後ニ祭レル名ヲ附ヘキ理無シ今ハ丈並山ニ祭テ八幡
 ノ威ニ並フノ義ヲ以テ丈ヲ武ニ改ムナルベシト又傳フ此境邊ニ七社武並
 神有リト謂ク岩村大井正家佐佐良木野井
 藤久須美竹折己上又雑記ニ霧ガ城ノ藩屏
 タル者數所其中多ハ遠山ノ氏族ナリ故
 ニ霧城ノ神ヲ勸請シ祭テ咸武竝ト稱ス
 ト云云霧城墦屏トハ謂ク苗木ニ遠山勘太郎明照ニ遠山久兵衛明智ニ遠山與助飯羽間ニ遠山右衛門串原ニ遠
 山弥左衛門其外大井久須美佐佐良木野井藤阿木曽木等遠山ノ氏屬最多シ

以上ハ嵒城ノ稱號ヲ辨ズ以下ハ遠山ノ家
系ヲ談ス但シ此家断絶シ其譜系ヲ失スレハ嗣継ノ連續識知スル事不
能今ハ惟其始終ヲ檢シテ且ク擧テ議スル尒下ニ断ルガ如シ

正量 座像長一尺一寸座褥厚一寸二分


古文書の翻訳: このページは遠山来由記を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

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