馬籠城

提供:安岐郷誌
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馬籠城(まごめじょう)[MAP]は馬籠にある城跡。遠山十八支城の一つに数えられている。

馬籠城跡

この辺りの地名を「丸山」とも「城山」ともいい、ここには今から五百年ほど前の室町時代から「馬籠城 (砦)」があったことが記されている。

戦国動乱の時代、馬籠は武田信玄の領地となるが、武田氏滅亡後、織田信長の時代を経て、豊臣秀吉傘下の木曽義昌の治めるところとなる。

天正一二年 (一五八四) 三月、豊臣秀吉・徳川家康の両軍は小牧山に対峙した。秀吉は徳川軍の攻め上がることを防ぐため、木曽義昌に木曽路防衛を命じた。義昌は兵三百を送って山村良勝に妻籠城を固めさせた。馬籠城は島崎重通 (島崎藤村の祖) が警備した。

天正一二年九月、徳川家康は、飯田の菅沼定利・高遠の保科正直・諏訪の諏訪頼忠らに木曽攻略を命じた。三軍は妻籠城を攻め、その一部は馬籠に攻め入り馬籠の北に陣地を構えた。

馬籠を守っていた島崎重通はあまりの大軍襲来に恐れをなし、夜陰に紛れて木曽川沿いに妻籠城へ逃れた。このため馬籠の集落は戦火から逃れることができた。

今、三軍の陣地を敷いた馬籠集落の北の辺りを「陣場」という。

慶長五年 (一六〇〇)、関ヶ原の戦いで天下を制した家康は、木曽を直轄領としていたが、元和元年 (一六一五) 尾州徳川義直の領地となり、以後戦火のないまま馬籠城は姿を消した。

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資料撮影 2009/11 [1]
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