阿木川湖
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− | + | 阿木川ダムが計画された時代は安保闘争に代表されるような左翼活動が全国で活発化していた頃で、阿木の周辺地域でも大きな反対運動が起きていた。特に恵那市では、東野地区の森林組合が所有するダム付近の共有林が東濃檜の名称で知られる特産の檜および杉であった事や、祖父伝来の共有財産に非常に愛着を持っていた事、また用地交渉の最中である {{年号|1976}} 年6月にアメリカの[[w:ティートンダム|ティートンダム]]が決壊し、同じロックフィルダムを造るということで下流の住民が安全性を危惧し始めた事が同地区の交渉を一層遅らせる理由となった<ref><strong>水登ともに No.269 5月号 '86(S61)</strong>, 水資源開発公団 広報課</ref>。 | |
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− | * [ | + | * [[小沢峡]] |
− | + | * [[こぶし公園]] | |
− | + | * [[中の島ふれあいの里]] | |
− | + | * [[シクラメン (施設)]] | |
− | + | * [[阿曽田遺跡]] | |
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2010年9月5日 (日) 17:27時点における最新版
目次 |
[編集] 概要
正確にはダム堤と施設のほとんどが東野に属しており阿木地区にかかっているのは阿木川湖の一部のみである。阿木川大橋の橋梁の途中のみ阿木の地内である。阿木で最も標高の低い場所はダム湖の底である。
ダム湖に浮かぶ噴水は観賞用ではなく、プランクトンの発生を抑制するための表層曝気装置である。しかし結局これだけでは水質の悪化を抑えることが出来ず、あおんどろん (アオミドロ) などの大量発生が問題となった。これにより宮田に阿木クリーンセンターが建設された。
阿木川湖では、放流アユの子孫が発生し、阿木川の天神淵付近に建設された土砂流入防止用ダムの魚道を稚アユが遡上する。アユに蔓延している冷水病対策として、稚アユを阿木川湖から採集して地域の河川に放流する試みが行われている。
- Agigawa dam03.jpg
09/06/14 発電施設の放流口が杉山の清水から見られる。
[編集] 歴史
[編集] 沿革
- 1969年 (昭和44年) 4月 建設省が阿木川ダム実施計画調査に着手。
- 1973年 (昭和48年) 10月 水資源開発公団が事業を継承。
- 1979年 (昭和54年) 3月 岩村町、7月 中津川市が公共補償をしめくくりとしてすべての補償を妥結。
- 1981年 (昭和56年) 3月 東野地区一般補償及び公共補償が妥結。
- 1981年 (昭和56年) 8月 本体工事に着手。
[編集] 経緯
阿木川ダムが計画された時代は安保闘争に代表されるような左翼活動が全国で活発化していた頃で、阿木の周辺地域でも大きな反対運動が起きていた。特に恵那市では、東野地区の森林組合が所有するダム付近の共有林が東濃檜の名称で知られる特産の檜および杉であった事や、祖父伝来の共有財産に非常に愛着を持っていた事、また用地交渉の最中である 1976年 (昭和51年) 年6月にアメリカのティートンダムが決壊し、同じロックフィルダムを造るということで下流の住民が安全性を危惧し始めた事が同地区の交渉を一層遅らせる理由となった[1]。
結果としてダムの用地交渉には 12 年が費やされた。なお補償には土地改良、治山、道路改良、簡易水道、診療所、林道、造林、公民館、消防施設などあわせて 80 余りの事業がある。
水没戸数は30戸 (青野・阿曽田地区13戸、小沢地区17戸) である。
[編集] 補償事業
阿木では構造改善 (宮田・両伝寺・大野など) や林道整備、公民館・保育園の移設、小学校のプールや地域振興センターの新設などが行われた。特に多かったのが道路整備で、昭和30年頃の地図と比べると宮田や野田の道や大野・久須田・真田農免農道などこの時期に多くの道路が整備されているのが分かる。
- ^ 水登ともに No.269 5月号 '86(S61), 水資源開発公団 広報課