大井城跡

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2010年9月11日 (土) 14:11時点における最新版

大井城の掘跡(大井小横)

大井城(おおいじょう)[MAP]阿木川と横町川によって形成された河川段丘 (現在の大井小学校付近) にあったと比定される中世の城砦。遠山十八支城の一つに数えられる。

大井にはもう一つ鷹撃谷城(たかちがやじょう)[MAP]という城跡があるが、市指定史跡としては鷹撃谷城の方を大井城と登録しており大井城の標柱が立てられている。正直なところどちらが大井城という決め手はない。

目次

[編集] 沿革

当地は美濃と信濃の勢力の接点にあたっている。応仁の乱の頃 (1467-1477年/応仁元-文明9年/南北朝) に土岐氏一族の大井遠江守行秀が居城していたと思われる (土岐系図など)。1473年 (文明5年/室町)、室町幕府の命を受けた東軍松尾城 (長野県飯田市)小笠原家長や木曽福島の木曽家豊が東美濃攻略のために西軍土岐氏の居城である大井城を攻撃、同年11月に落城した。以後天文年間 (1532-1555年/室町) まで小笠原氏が当地を制したという (遠山来由記)。

その後岩村城遠山氏が勢力を盛り返し、1562年 (永禄5年/戦国) 遠山氏の命により藤井宗常、常守兄弟が大井城を修復、鷹撃谷築(たかちかやのこや)には砦を築いた (武並神社文書)。1574年 (天正2年/安土桃山)、武田勝頼の岩村城遠征の際に城も砦も陥落した。

[編集] 文献散策

[編集] 濃飛兩國通史

〔大井城址〕恵那郡大井町の東端崖上の字内城、城畑の一部にて今の小学校の辺が主要部なり。土岐系図を案ずるに原蜂屋氏の祖なる定親の玄孫に大井遠江守行秀あり。定親の弟頼貞の玄孫は守護持益 (文明六九卒) なれば時代を考ふるに、行秀当事城主たるものの如し。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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