恵那神社
(→全国神社名鑑) |
(→日本山名事典) |
||
145行: | 145行: | ||
=== 日本山名事典 === | === 日本山名事典 === | ||
− | 日本山名事典<ref><strong>三省堂日本山名事典</strong>, <i>徳久球雄・石田光造・竹内正</i>, 2004年(平成16年), 株式会社三省堂</ref>の'''恵那山'''の項には以下のように記述されている。 | + | 日本山名事典<ref><strong>三省堂日本山名事典</strong>, <i>徳久球雄・石田光造・竹内正</i>, 2004年(平成16年), 株式会社三省堂, ISBN 4-385-15404-X</ref>の'''恵那山'''の項には以下のように記述されている。 |
<blockquote class="quote"> | <blockquote class="quote"> |
2009年6月10日 (水) 03:07時点における版
神社仏閣 | |
---|---|
恵那神社 | |
所在地 | 岐阜県中津川市中津川字正ヶ根3786(本宮) |
位置 | 本宮: N35:26:36.31, E137:32:0.85 奥宮: N35:26:36.31, E137:35:49.20 (2,190m;恵那山山頂) |
祭神 | 本社: |
目次 |
概要
恵那神社は安岐郷も含めた旧恵奈郡 (現在の恵那市、中津川市と木曽郡の一部) 全体の産土神だった。
恵那山は古くから恵那権現を崇める
現在は恵那山麓の川上に位置する社を本宮、恵那山頂を奥宮と呼んでいるが、麓を前宮、山頂を本宮と呼ぶ事もある。
由緒書き
恵那神社の由緒書きには以下のように記されている。
恵那神社由緒記恵那山恵那山は恵那郡第一の髙峰にして (二一九〇米) 神代の世、天照大神の御胞衣を此の山頂に納めし故恵那山と謂い恵那神社の鎮座させられたるも神代の時なり。古事記、日本書紀に日本武尊この山に御登拝の記事あり。
恵那神社恵那山の山頂崇霊の地にありて社殿には流造り
祭神は伊邪那伎大神 伊邪那美大神なり社格延喜式神名帳 恵那郡三座之内恵奈神社
美濃國神名帳 從五位上恵那明神
明治四年迠は恵那郡の總社なり
明治六年一月 鄕社指定
大正十四年九月十九日 縣社に昇格
昭和二十八年三月十日 金幣社指定攝社 (恵那山頂に鎮座)葛城社 (一言主大神) 富士社 (木花咲開姫大神)
熊野社 (速玉男命) 神明社 (天照大神、豊受姫大神)
剣社 (天一箇命) 一宮社 (猿田彦大神)前宮恵那山山頂に在る本社及び六社の摂社の祭神を奉祀す
例祭日 九月二十九日 寶 物 寶刀四口 内一口は伯耆國住貞綱作にして木曾義仲奉納と傳ふ 女男杉 樹齢約千年 昭和四十一年九月岐阜縣文化財に指定 御手植杉 昭和四十二年二月三日 三笠宮殿下御参拝記念
文献散策
大日本地名辞書
大日本地名辞書[1]の恵那岳の項には以下のように記述されている。
恵那権現社は延喜神名式に恵奈郡恵奈神社と見え、美濃国神名記に従五位下恵那明神、賤の小手巻に「恵那山は山上に七社あり、恵那権現は九尺四面の社、其外は小祠なり、毎歳九月九日に登山す、絶頂まで五里篠竹生茂り、常に道もなし、大勢踏わけて登り、前夜は
川上 に通夜、水垢離をして山にのぼる、山上の木は風烈しき故、庭木の如く低し、四方を望むに富士、浅間、白山、息吹、近江の湖、伊勢の海、一瞬に見渡す、其夜は山上に小屋をさし通夜し、翌日下山す、山上に池あり」としるせり。
延喜式神名帳 (927年/延長5年) は平安時代中期の全国神社格付一覧の事。この頃には既に恵那神社が存在していた事が分かる。その他の内容は由緒書きと同じ。
文中の賤の小手巻 (1745年?/延享頃?) の引用から江戸時代中期と思われる恵那山信仰の様子が窺える。この部分だけを簡単に現代文に直す。
恵那山の山頂には 7 社があり、恵那権現は 9 尺 (約2.7m) 4 面の社でそれ以外は小さな祠。毎年 9 月 9 日に参拝登山を行う。頂上までの 5 里 (約20km) は笹が生い茂り道が消えている事もあるため大勢で踏み分けて登る。前夜は川上で終夜祈願し冷水で禊ぎをして山に登る。山頂は強風のために高山性の低木樹ばかりで、富士山、浅間山、白山、息吹山、琵琶湖、伊勢湾が一望できる。登頂した夜は山頂の小屋にこもって終夜祈願して翌日に下山。山頂には池がある。
この頃の恵那神社は神仏習合の権現信仰、そして二晩徹夜での祈祷や冷水での禊ぎ、道なき道を往復 40km の強行軍など、参拝というよりも修行的な意味合いが強かった事が窺える。 権現様に修行登山と来れば御嶽講や富士講に見られるような修験道 (山岳信仰) であろう。昭和の時代までしばしば耳にした恵那講は既にこの頃には行われていたようである。例祭が 9 月 9 日だったのは今と違っている。
また笹が生い茂って道が分かりにくいという件からは修験者が年中入山して修行しているような山ではなかったと言う事が窺える。しかし修験道は山を遠巻きに眺めて崇めるのではなく「どんどん登って修行」という教えだったはず。
これは江戸時代に経済成長を遂げる尾張 (名古屋) を支えるための森林資源を確保する山林として、恵那山から木曾にかけて尾張藩領となっていたためと思われる。「御三家筆頭尾張藩の御用地、常人立ち入るべからず」つまり特別な日にしか登れなかったという事かも知れない。
当時の山頂は高山性の低木樹ばかりで見晴らしが良く絶景だった様子である。当時の気候は今よりも寒かったという事だろうか。山頂の池とは現在では野熊ノ池しかないが、これは社のある山頂からは少々離れている。昔は別に池があったのだろうか。
角川日本地名辞典
大日本地名辞書[2]の恵奈神社の項には以下のように記述されている。
中津川駅の西南 8km、中津川正ヶ根にある。
伊弉諾 命・伊弉冉 命・皇大神・豊受大神等諸神をまつる。創立は不詳であるが、「延喜式」に恵奈神社とある。明治 4 年までは恵那郡の宗社であったが、恵那郡を 11 小区にわけ、第 8 区の郷社となる。本社は恵那山頂にある。恵那郡の祭神が天地間の神々であるということは、胞衣 山が、天照大神誕生とも合わせて、日本創造の地とも考えられるが古記録は何もない。木曽義仲の奉納する伯耆貞綱の太刀がある (県文化財)。大正 14 年県社。神官梅村家は、木曽義仲の子孫で、代々この地にあり、神職を継いでいる。夫婦杉は樹齢 700 年、昭和 42 年には県の天然記念物に指定。例祭は 9 月 28 日。
古くは恵那郡の宗社であったのが、明治 4 年の廃藩置県により恵那郡が 11 小句に分かれたのに伴って第 8 区の郷社となったと書かれている。
また天照大神の伝説からこの地が日本創造に関与したのではと推測している。神官さんが木曽義仲の子孫という事も歴史を感じられる。
恵那登山案内
明治から大正時代にかけて盛んに行われた恵那講の案内書[3]に恵那神社前宮の記述がある。
五、前 宮頂上七社の祭神九柱の大神を奉祀してあります、美濃國神名帳に、從五位上加上明神とあるは、此の神社の事であります、例祭は頂上本社の祭典の翌日、九月の二十九日であります、此日郡衙より共進使參向せられ、當社にて弊帛を奉奠せられ嚴なる祭典があります、來拜者は遠近より頗る多く雜踏します、現今の氏子區域は中津町、落合村、坂本村の三箇町村で あります。
美濃国内神名帳で恵那神社を指すのは加上明神ではなく恵奈明神。大正時代の恵那郡の役所はどこにあったのだろうか。当時の恵那講の盛況ぶりからも、恵南地区から現在の国道 363 号を通って川上に出る人も多かったと思われる。
全国神社名鑑
全国神社名鑑[4]の恵那神社の項には以下のように記述されている。
◇恵那 神社 神社本庁中津川市中津川正ヶ根三七八六 中央線中津川駅南東四粁
〒508 ℡0582=73=3525△祭神伊邪那岐大神・伊邪那美大神 例祭恵那山麓 (前社) 九月二九日・恵那山頂 (本社) 九月二八日 神紋三つ巴 建物本殿三間社流造三坪 境内七七二坪 末社九社 社宝太刀一〇振 (重文・伯耆貞綱作)・文楽人形 氏子三,二〇〇戸 崇拝者八〇〇人 神事と芸能恵那文楽 (川上文楽・例祭に奉納・阿波の国より伝来)
由緒=美濃国第一の高山霊峰恵那山頂に本社、山麓
川上 に前社が鎮座する。延喜式内の古社で、明治四年までは恵那郡の総社であったが、明治六年郷社に定められ、のち県社に昇格した。総社であった事実は神祇官領長上より下した神職の指令書に総社大宮司との記事がある。宮司鷹見重一
恵那神社が旧恵奈郡の総社であったというのは指令書の肩書きに基づくと書かれている。 摂社 9 社とあるが 9 柱の間違いだろうか。この名鑑での宮司は梅村ではなく鷹見になっている。梅村家が代々の宮司というわけでもないようである。
日本山名事典
日本山名事典[5]の恵那山の項には以下のように記述されている。
山頂付近のヒノキは、昔は伊勢神宮に奉納されていた。奈良時代に役小角が開山したといわれ、恵那講を中心に、信仰登山の山として栄えた。
- ^ 増補 大日本地名辞書 第五巻 北国・東国, 吉田東伍, 1902年(明治35年), 冨山房
- ^ 角川日本地名大辞典 21 岐阜県, 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040012100
- ^ 恵那登山案内, 中津青年同志會, 大正4年
- ^ 全国神社名鑑, 三浦譲, 1977年(昭和52年), 全国神社名鑑刊行会
- ^ 三省堂日本山名事典, 徳久球雄・石田光造・竹内正, 2004年(平成16年), 株式会社三省堂, ISBN 4-385-15404-X
摂社
現在奥宮 (山頂) に存在する摂社のうち、富士、熊野、葛城、剣の 4 社は古来から修験の場として知られる霊山の名であるため、それぞれの霊山からの勧請して持ち込んだものと考えられる。
また恵那地方のヒノキが神宮の御用材に使われていた事などから神明社は伊勢神宮からの勧請と考えられる。一宮社がどこの一宮を指すのかは分からないが、猿田彦、一宮、修験道のキーワードから伊勢国鈴鹿の椿大神社ではないか。
- 富士社 → 富士山
- 日本三霊山の一つで富士講が盛んに行われている。木花開耶姫命は浅間大社の祭神。
- 熊野社 → 熊野三山
- 速玉男神は熊野速玉大社の祭神。
- 葛城社 → 犬鳴山
- 修験道の祖、役小角縁の地。一言主は葛城山の神。
- 剣社 → 剱岳 (御嶽山の剣ヶ峰とも)
- 日本三霊山の一つで立山信仰が盛んに行われている。天目一箇命は剣神。
- 神明社 → 伊勢神宮
- 天照大神、豊受姫大神はともに伊勢神宮の祭神。
- 一宮社 → 椿大神社?
- 猿田彦を祀る伊勢一宮。中世には行満大明神繋がりで修験道の場にも。
恵那山の山岳信仰と恵那地方の森林資源の豊かさを窺う事が出来る。恵那山は役小角が 開山と伝えられる事から、摂社の中でも葛城社が一番最初か、またはかなり早い時期に 祀られていたと思われる。もしかしたら昔は葛城社が恵那神社の本社だったのかもしれない。