実利行者の塚
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{{ruby|'''実利行者'''|じつかがぎょうじゃ}}の塚は[[大野八幡神社]]裏手 100m ほどの森の中<map name="実利行者の塚" lat="35.410677" lon="137.485583"/>、[[倶楽部 (北側)|北側の倶楽部]]へ向かう道の脇を開いて祀られている塚。横には[[w:役小角|役小角]] (役行者) の石像が建てられている。 | {{ruby|'''実利行者'''|じつかがぎょうじゃ}}の塚は[[大野八幡神社]]裏手 100m ほどの森の中<map name="実利行者の塚" lat="35.410677" lon="137.485583"/>、[[倶楽部 (北側)|北側の倶楽部]]へ向かう道の脇を開いて祀られている塚。横には[[w:役小角|役小角]] (役行者) の石像が建てられている。 | ||
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+ | 林 実利(はやしじつかが) | ||
+ | 修験者。天保十四年(一八四三)に坂下の高部で生まれ早くから御嶽行者であった父について御嶽で修行を積んだ。二十五歳の一時、妻と子ども二人を残して、奈良の大峰山の修験道にはいり、三年間修業されると、今度は、二十七歳から二十九歳の三年間、大台ヶ原に移り修業、役行者(えんのぎょうじゃ・山伏しの先祖)の弟子にしてもらい、その後、釈迦ヶ岳で修業中、有栖川宮殿下から「大峰山二代行者実利師」の号を賜わりました。修業を終えられ、坂下へもどり、地元で活動し明治13年(1880)に落合からの恵那山登山道を開く。再び、大峰山修業を思いたてられ、修業が極点に達し、無様な死にかたはしたくないという決意のもとに、明治十七年四月二十一日、那智の滝に入水された。 | ||
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+ | 実利行者 ({{ruby|林実利|はやしじつかが}}) は {{年号|1843}} に坂下の高部に生まれ、御嶽行者であった父親について御嶽で修行をつんだ。25歳の時に妻と子供二人を残して奈良大峰山、大台ヶ原、釈迦ヶ岳で修行を行い、役小角の弟子となり{{ruby|[[w:有栖川宮|有栖川宮]]殿下|ありすがわのみやでんか}}から大峰山二代行者実利師の号を賜った事で修験者として全国に名を馳せた。 | ||
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+ | {{年号|1872}} に明治政府から修験禁止令が出された後も政府の追撃を逃れて活動を続行。{{年号|1884}}、無様は死に方はしたくないという決意の元、即身仏となるべく熊野の那智の滝から飛び降りた。入水後の姿も座禅を組んだままだったと言われている。入水後のしばらくは那智の滝より実利行者の墓に参る人が押しかけたという。 | ||
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+ | 政府の目を恐れてか実利行者の塚はあまり存在せず、那智の滝と出生地の坂下、[[恵那山]]落合ルートを開いたと伝わる落合、そして大野のここくらいしかないという。森の中にひっそり祀られているのも役人の目から隠すためだったのかもしれない。 | ||
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2009年7月1日 (水) 02:56時点における版
人物
実利行者 (
1872年 (明治5年) に明治政府から修験禁止令が出された後も政府の追撃を逃れて活動を続行。1884年 (明治17年)、無様は死に方はしたくないという決意の元、即身仏となるべく熊野の那智の滝から飛び降りた。入水後の姿も座禅を組んだままだったと言われている。入水後のしばらくは那智の滝より実利行者の墓に参る人が押しかけたという。
政府の目を恐れてか実利行者の塚はあまり存在せず、那智の滝と出生地の坂下、恵那山落合ルートを開いたと伝わる落合、そして大野のここくらいしかないという。森の中にひっそり祀られているのも役人の目から隠すためだったのかもしれない。
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09/06/15 実利行者と役行者。
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09/06/15 台座に信者の名前が彫られている。
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09/06/15 明治十七甲申年三月廿八日。旧暦の実利行者入水日。
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09/06/15 杉林の中に祀られている。