鷹見家
提供:安岐郷誌
(版間での差分)
(→鷹見姓) |
(→鷹見姓) |
||
10行: | 10行: | ||
== 鷹見姓 == | == 鷹見姓 == | ||
[[File:A portrait of Takami Senseki by Watanabe Kazan.jpg|thumb|鷹見泉石像(国宝) 渡辺崋山画]] | [[File:A portrait of Takami Senseki by Watanabe Kazan.jpg|thumb|鷹見泉石像(国宝) 渡辺崋山画]] | ||
− | <strong>姓氏家系大辭典</strong><ref><strong>姓氏家系大辭典</strong>, <i>太田亮</i>, 昭和十八年, 磯部甲陽堂</ref>には主に江戸時代の鷹見姓についてかかれている。鷹見正長とその孫[http://kotobank.jp/word/%E9%B7%B9%E8%A6%8B%E6%98%9F%E7%9A%90 鷹見星皐]は共に江戸時代中期から後期の三河国[[w:田原藩|田原藩]] | + | 鷹見の姓は三河の発祥だが出自は不詳である。蘭学者で下総国[[w:古河藩|古河藩]] {{note|(茨城県古川市)}} の家老[[w:鷹見泉石|鷹見泉石]]像 ([[w:渡辺崋山|渡辺崋山]]画/国宝) のが有名。 |
+ | |||
+ | <strong>姓氏家系大辭典</strong><ref><strong>姓氏家系大辭典</strong>, <i>太田亮</i>, 昭和十八年, 磯部甲陽堂</ref>には主に江戸時代の鷹見姓についてかかれている。鷹見正長とその孫[http://kotobank.jp/word/%E9%B7%B9%E8%A6%8B%E6%98%9F%E7%9A%90 鷹見星皐]は共に江戸時代中期から後期の三河国[[w:田原藩|田原藩]]の学者で星皐は家老である。 | ||
<blockquote class="original"> | <blockquote class="original"> |
2009年7月30日 (木) 16:49時点における版
鷹見家文書によれば元は青野に住んでいたが、慶安の頃 (1648-1651年/江戸初期) に鷹見弥兵次が開拓のため広岡に移り住んだという。
広岡鷹見家の多くは岩村の浄光寺 (真宗大谷派) の檀家である。巖邑府誌によれば、浄光寺は 1563年 (永禄6年/戦国) 三河一向一揆 の折に上宮寺に付いた内田氏の子が上州で開山し、1601年 (慶長6年/安土桃山) の松平氏転封に付いて岩村に移ったものである。
また現在の愛知県豊田市上高町古白に鷹見城という城墟がある。1431年 (永享3年/室町) 鷹見三郎久吉という者が守っていたという。これらのことから考えると、三河一向一揆に参加した鷹見家傍系が国を追われ青野にたどり着いて住み着き、後に浄光寺が移ってその檀家となったと考えられている。
鷹見姓
鷹見の姓は三河の発祥だが出自は不詳である。蘭学者で下総国古河藩 (茨城県古川市) の家老鷹見泉石像 (渡辺崋山画/国宝) のが有名。
姓氏家系大辭典[1]には主に江戸時代の鷹見姓についてかかれている。鷹見正長とその孫鷹見星皐は共に江戸時代中期から後期の三河国田原藩の学者で星皐は家老である。
鷹見 タカミ 前後數條參照。田原藩の家老に此の氏あり、もと三河より起る。鷹見正長 (爽鳩)、その孫星皐等、學名高し。又攝津國兵庫の名族に存す、繪屋と號す。祖先は大西と云ふ武士にて、筑前黑田侯の本陣たりき。内、爽鳩は、もと石河氏、同藩鷹見定重の養子となりしなりと。
- ^ 姓氏家系大辭典, 太田亮, 昭和十八年, 磯部甲陽堂