和宮様御東下
提供:安岐郷誌
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2009年8月23日 (日) 00:37時点における版
1861年 (文久元年/江戸後期) 10月、皇女和宮様が御東下される際に大井宿を御通行。街道周辺の助郷村は宿場や休息所、道路の整備、伝令や荷運びの労役に駆り出された。
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熊崎新三郎事件
和宮様の御通行に際して岩村藩の代官吉田泰蔵は大井宿へ人足30人を差し出すよう野井村に命じた。しかし野井村には
一行御通行後の夕方、こんな事が先例になってはいかんと野井村の百姓熊崎新三郎なる者が吉田の泊まっていた本酒屋 (現中野村庄屋屋敷跡) に乗り込み吉田を斬りつけて逃亡。そのまま新三郎は行方知れずとなり、熊崎家は閉門、家族は親戚預かりとなった。
野井村もまたこのような事が今後も続いてはいかんと岩村藩を相手に幕府へ訴状を提出。評定所の取り調べで野井村は勝訴し、今後野井村に大井宿の労役を課さないこと、野井村に金25両を出すこと、代官を罷免することが決定した。野井の里人は新三郎を義民として称えた。
和宮泉
大井宿本陣の裏手、現在の城ヶ丘保育園の校庭に
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09/06/14 和宮泉は城ヶ丘保育園の校庭にある。