塞之神神社
神社仏閣 | |
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塞之神神社 | |
所在地 | 岐阜県中津川市阿木字塞神3973 |
位置 | N35:23:10.65, E137:27:42.37 (500m) |
本尊 | 愛染明王 (萬嶽寺所蔵) |
祭神 |
塞之神は全国的に見ても妻、幸、塞、才などの文字を当てることで性神、道祖神、豊穣など様々な意味を兼ねている神様である。古来の日本には性器や性交に魔を祓い豊穣を呼び込む力があるという考えがあった。古くから夫婦の共寝を祀っていた妻神が、後の儒教思想や近世の道徳観などで次第に道祖神の属性が加えられたものと考えられている。
しかし、元から純然たる道祖神として岐の神 (鬼と化した伊邪那美尊を遮るために伊邪那岐尊が投げた杖から産まれた神) や猿田彦 (
阿木の塞之神は夫婦を祀る傾向が強い方の道祖神である。塞之神は栃木や群馬、山梨、長野などで多く見られ、それらの地域の道ばたには双体道祖神と呼ばれる男女並んだ石像も多く見られる (単に並んでいるだけなら大人しい方だが…)。阿木の塞之神もこれらの地域から伝えられたものであろう。
神仏習合の名残か、社は神社というよりお堂という雰囲気の方が強い。
目次 |
沿革
1640年 (寛永17年/江戸初期) | 岩村城主丹羽氏信により祠が建てられ清宝院の尼が祀る。 |
風景
09/02/21 境内の脇に小さな祠が3つ並んでいる。摂末社は不明[要調査]。
文献散策
巖邑府誌
1751年 (宝暦元年/江戸中期) の巖邑府誌幸神の項には以下のように記されている。
○福岡の道ばたには幸神の祠がある。思うに道祖神であろう。夫婦の共寝を祀ることから俗に妻神とも言う。
福岡は現在の黒田、幸神は塞之神の事。一般的な塞之神と同じように道祖神でありながら夫婦の神様とされていた事が分かる。
昔、
上毛野国 安中 の者が官命で上京し何年も帰らなかった。ある時、命を受けて安中に戻ると家財は全て盗人に盗られており 召使いの子たちも離散していた。盗人たちは娘の美しいことで手込めにしようとしたが、娘は盗人を騙して逃げ延び、岩村府にたどり着いて粗末な小屋を仮住まいとしていた。城府の合原 (藍原ともいう) がそこである。ある若者が小屋の中を覗くとその娘の美しさに一目惚れしてしまった。娘もまた心動いて夫婦の契りを交わした。
故郷での名前を全て聞いて女は驚いた。あなたは官命で遠地に行った兄ではないかと。若者は恥じ入って赤面した。久しく離れて暮らしていたために兄妹は互いの顔が分からなかったのであろう。しかし時既に遅し。私たちは禽獣だ、もう人前には出られないと二人は頷き、互いに自害した。
里人はこれを哀れんで合葬し、廟を建てて祀ったと伝う。安中の土や石を定める参拝者が居た。神がこの土や石を見て故郷を懐かしんで喜び、願い事が必ず叶うと伝う。
上毛野国は現在の群馬県、つまりここでは群馬県安中市を指している。群馬と言えば古来から東山道を通じて大井・坂本駅とも繋がっている国、そして塞之神以外にも男根女陰と言った直球的な性神も多く祀られている地方である。
逸話の内容は中津川のむかし話に載せられているものと設定の大まかなところだけが同じである。多分に子供にも語り聞かせられるよう変更されたのであろう。近親相姦にまつわる逸話がよく見られるのも性交信仰の特徴である (このような教訓的なものだけでなく幸せに結ばれたという話も多い)。
調べてみると天文の頃 (1532-1554年/室町) に毛野の二州 (現在の群馬県と栃木県) が戦場となっていることから、戦火を避け逃げ延びた安中の豪族がここに居て神を祀ったのであろう。現在安中に幸神祠跡があるのはこれである。寛文 17 年に 岩村藩主丹羽氏信侯が祠を建てて清宝院の尼がこれを祀り今に至る。
淫祠を論評している部分は省略して、現実的な見方として安中からここに移り住んだ人間が祀ったのだろうと推測している。天文の戦とは上杉憲政と北条の争いを指していると思われる。なお丹羽氏信の時代から寛文17年は寛永17年の間違いである。
伝承と四方山話
- 岩村の新市場の坂下に双体道祖神が置かれている。これも塞之神と同様に上野毛国から伝えられたものであろう。
- 岩村街道沿いの打杭峠の下に神社かお堂の跡のようなものがあるらしい[要調査]。昔の塞之神はそこに祀られていたのかもしれない。