鷹見家
鷹見姓
鷹見姓は三河の発祥である。ただし出自は不詳。現在の豊田市上高町古白に鷹見城という城墟があり、1431年 (永享3年/室町) 鷹見三郎久吉という者が守っていたという。この周辺には鷹見岩、上鷹見小学校などの遺存地名も残っている事から、古く鷹見氏の庶族が住んでいた場所と思われる。
江戸時代には三河国田原藩 (愛知県東部)、下総国古河藩 (茨城県古川市) などに鷹見の姓が見られる。蘭学者で古河藩家老の鷹見泉石像 (渡辺崋山画/国宝) は日本画に洋画の手法が加えられた傑作として有名である。
姓氏家系大辭典[1]では、鷹見正長とその孫鷹見星皐 (共に江戸時代中期から後期の三河国田原藩の学者) について言及している。星皐は家老である。
鷹見 タカミ 前後數條參照。田原藩の家老に此の氏あり、もと三河より起る。鷹見正長 (爽鳩)、その孫星皐等、學名高し。又攝津國兵庫の名族に存す、繪屋と號す。祖先は大西と云ふ武士にて、筑前黑田侯の本陣たりき。内、爽鳩は、もと石河氏、同藩鷹見定重の養子となりしなりと。
- ^ 姓氏家系大辭典, 太田亮, 昭和十八年, 磯部甲陽堂
広岡鷹見家
鷹見文書によれば元は青野村に住んでいたが、慶安の頃 (1648-1651年/江戸初期) に弥兵次という者が開拓のため広岡新田に移り住んだという。
広岡鷹見家の多くは岩村の浄光寺 (真宗大谷派) の檀家である。巖邑府誌によれば、浄光寺は 1563年 (永禄6年/戦国) 三河一向一揆 の折に上宮寺に付いた内田氏の子が上州で開山し、1601年 (慶長6年/安土桃山) の松平氏転封に付いて岩村に移ったものと書かれている。
これらのことから考えると、三河一向一揆に参加した鷹見氏の傍系が国を追われ青野にたどり着き (その間70年ほど歴史不明)、真宗 (一向宗) の浄光寺の檀家となったと考えられている。