蠶靈
提供:安岐郷誌
飯沼宮ノ根の子安寺左に
養蚕の歴史
日本の
岩村藩でも江戸時代の後期に地場産業の発展をめざして周辺地域に養蚕を推奨した (文政の改革)。養蚕は農家にとっても貴重な現金収入源であったため阿木や飯沼でも広まっていった。
1898年 (明治31年) に中津勝野製糸場も開業し、明治後期の 1905年 (明治38年) には阿木村 (飯沼村と合併済み) の戸数 550 戸に対して養蚕農家は実に 450 戸にもなった[1]。
養蚕は雹で桑の葉が全滅したり病気が流行ったりと農作と同様に天候に大きく左右される面があった。養蚕の隆盛と共に全国で蚕神が祀られるようになっていった。この石碑も豊蚕祈願と蚕の供養のため祀られたものであろう。
しかし日本の輸出産業の花形であった生糸の価格も第一次大戦後の大正初期の不況を機に暴落[2]。阿木や飯沼では昭和30年代までよく見られた養蚕も次第に衰退し、平成に入る頃にはほとんど見られなくなった[要調査]。
- ^ 角川日本地名大辞典 21 岐阜県, 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040012100
- ^ 山岡ではこれを転機として寒天生産を始めている。