長楽寺
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神社仏閣 | |
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大通山長楽寺 大通山長楽寺 | |
所在地 | 岐阜県中津川市阿木5864-3 |
位置 | N35:23:47.40< E137:27:59.87 |
宗派 | 天台宗 |
交通 | 国道363号から真原農免道の先 |
大通山
目次 |
沿革
風景
文献散策
巌邑府誌
○大通山長楽寺は天嶺際 (現在の大根木) にある (この地は高嶺の下に接することから天嶺は高嶺の名による)。俗に行事岳と呼ばれるのはこの高嶺である。天台僧の三蹄が開山し、古くは堂閣、楼門、十二属坊があったが兵火で焼け落ちたと言い伝えられる。現在地名に某坊とあるのは属坊の跡である。
地理をよく見ると土地が狭くて多くの堂閣は建てられないだろう。この場所に古くからあった属坊が廃れたあとに長楽寺をここに移したのだろうか。長楽寺の以前の位置が何処だったのかは分からない。現在の寺には観音像が安置されている。これは古寺の遺物であろう。また寺に各務氏附田の札があり村の中には寺領という地名がある。
寛永 11 年 (1634年/江戸初期) には寺領に賀雲山万岳寺が建った。代々曹洞宗の和尚を置き盛厳寺に属する。多分長楽寺の跡地を引き継いだのだろう。
萬嶽寺の建立は慶安3年 (1650年/江戸初期) であるから、寛永11年とは飯沼禅林寺再建との混同であろう。
僧史を調べると天台密教に通じた釈円房栄朝上人という者が上毛野の 長楽寺 (現在の群馬県太田市世良田町) にいる。盛揚真化、宝治元年 (1247年/鎌倉) 没した。鎌倉幕府の全盛期である。これはつまり長楽寺は元々は上毛野にあって、幸神と同じ者がここに移したという事だろうか。
日本歴史地名大系
日本歴史地名大系[1]
天台宗大通山長楽 寺は、寺蔵の歴代年数等書上帳控の文政十二年三月条によれば、開山を弘仁年間(八一〇−八二四)といい、一二坊を数えたと記録している。境内の樹齢八〇〇年余といわれる大イチョウは県指定の天然記念物。
中津川市デジタルアーカイブ
[1]より 引用。
阿木5865 寄木材 江戸時代 像高 100cm この像は、長楽寺の本能で、戦国争乱の時代、武田氏の軍勢がこの地を侵攻した時、川へ投げ捨てられたが、拾い上げられ十二坊のひとつ梅本坊に安置sれたといられている。
武田軍の長楽寺焼き討ちに巻き込まれて川に打ち棄てられた事、それが拾われて再び安置された事などが書かれている。長楽寺の属坊に十二坊があり、そのうちの一つが梅本坊であった事が分かる。
江戸時代という年代と戦国の争乱に巻き込まれたという話は矛盾している。通常なら逸話の方に疑惑が向くところだが、見ての通り中津川市デジタルアーカイブは誤字脱字が多いため年代の書き間違いの可能性も否めない。