加藤景廉一族の墓
名所旧跡 | |
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180px 加藤景廉一族の墓 | |
住所 | 静岡県伊豆市牧之郷 |
位置 | N34:59:32.87/E138:56:57.59 |
文化財 | 伊豆市指定史跡 |
伊豆指定史跡頼朝重臣加藤景廉 一族の墓 (五輪塔)影廉は、源頼朝による源氏旗揚げの挙兵に加わり、大野 (伊豆市) の
堀藤次親家 とともに山木 (現 伊豆の国市)判官 の平兼隆 を討ち、石橋山 (現 小田原市) の合戦でも活躍するなど、鎌倉幕府を創り上げた功労者の一人です。頼朝は手柄をたてた景廉に牧之郷を始め各地に領地を与えました。美濃国遠山庄 (現 岐阜県恵那市岩村町) では、日本三大山城の一つとして有名な岩村城を築き、この地を長男景朝 に譲り渡した後、景朝は遠山の姓を名乗り、美濃遠山氏の発展の基礎をつくりました。子孫の中には、北条早雲の第一の重臣であった遠山直景 や、江戸時代の町奉行「遠山の金さん」こと、遠山左衛門尉 (金四郎)景元 などがいました。
建保 七年 (一二一九) 一月、鎌倉幕府の三代将軍源実朝 が暗殺された際の警備最高責任者であった景廉は実朝の霊を弔うため出家し、覚蓮房妙法と号しました。
承久 三年 (一二二一) 五月、鎌倉から牧之郷に帰った景廉は、再び地頭職に就きましたが、八月三日に没し、この地に葬られました。この五輪塔は、狩野川台風によって流され、散乱したものを住民がここに集め、流失部分を補完して祀ったものです。昔、この付近に金剛寺という大きな寺があったといわれ、天明五年 (一七八五) この墓の下から、景廉の孫である
善願上人 の蔵骨器 (舎利瓶 ) が発見されました。この舎利瓶は県指定文化財に指定され、現在修善寺郷土資料館に展示されています。昭和六十一年三月八日 指定
伊豆市教育委員会90x90px
金剛寺跡説明
この地は、鎌倉時代より室町時代に至るまで牧之郷の地頭であった加藤氏及び子孫の遠山氏の菩提寺の真言律宗の金剛寺のあった所である。
この寺の伽藍は室町時代、狩野川の大洪水により流失したが、現在まで立派な五輪塔と寺中という字名や、堂の前、弥陀堂、弥宜屋敷といったような寺に関係した名が残っている。又この附近より鎌倉時代の瓦が時々発見される。
天明五年 (一七八五) この地より鎌倉極楽寺三代善願上人 (順忍) の舎利が発見された。上人は加藤景廉の孫である。
上人の火葬骨の蔵器は其の他鎌倉の極楽寺、奈良の額安寺からも発見されている。このことは、上人が如何に立派な名僧であったかを物語っている。
尚、現在ある五輪塔及び塚は、昭和三十三年の狩野川台風により流失、或は散乱したが牧之郷の鈴木治作氏により現在のように整備された。
平成八年 (一九九八) 六月吉日
牧之郷加藤景廉顕彰会役員一同90x90px
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