伊藤金右衛門
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翁以天保元年九月九日生飯沼大野 | 翁以天保元年九月九日生飯沼大野 | ||
資性温厚善書弟子人賞勤庄屋後挙於 | 資性温厚善書弟子人賞勤庄屋後挙於 | ||
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従翁之指導盛養蚕而其蚕種多用江州 | 従翁之指導盛養蚕而其蚕種多用江州 | ||
産生種翁以風穴秋ん意子種欲充之試 | 産生種翁以風穴秋ん意子種欲充之試 | ||
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+ | 明治44年2月 元阿木尋常高等学校校長 中島政次 撰 | ||
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2009年12月26日 (土) 08:07時点における最新版
1861年 (文久元年/江戸後期) から寺子屋も始め学制の敷かれる 1872年 (明治5年) まで続いた。また養蚕業において、当時まだ孵化するままに任せていた
1902年 (明治35年) 7月27日、享年70で没する。
[編集] 伊藤金右衛門翁記念碑
翁以天保元年九月九日生飯沼大野 資性温厚善書弟子人賞勤庄屋後挙於 副戸長恒将農桑式力振恤明治四年官 賞其徳行賜金若干七年辞職土地之人 従翁之指導盛養蚕而其蚕種多用江州 産生種翁以風穴秋ん意子種欲充之試 數得良結果今日至夏蚕種専用風穴種者翁之力也三十五年七月廿七日夜享年七十有三頃門人與近郷有志者相謀欲建碑賛揚宿徳求余文余亦知翁者乃欣然叙之 明治四十四年二月
元阿木尋常高等小學校長中島政次撰
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翁は天保元年 (1830年) 9月9日に飯沼大野で生まれた。資性は温厚で弟子人が善書を褒め称え後に庄屋を勤め挙げた。また副戸長として恒に農を率い桑式に力を振るった。
明治4年 (1871年) に官賞。その徳行で金を賜り若干7年で辞職。土地の人は翁の指導に従って養蚕を盛り上げた。その蚕種の多くは江州産の生種を用いたが、翁は風穴を使って秋の種を欲し幾つかの良い結果を得た。今日に至る夏の蚕種専用風穴の種者は翁の力である。
明治35年 (1892年) 7月27日夜、享年70。近郷に有志者が有り相謀て碑を建てんと欲す。〓
明治44年2月 元阿木尋常高等学校校長 中島政次 撰
- Ito kinemon kinenhi01.jpg
09/06/16 伊藤金右衛門翁記念碑。
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09/06/16 大野の刀神様の横に立っている。
[編集] 四方山話
- 形が形だけに記念碑を墓石か何かと思っている人が少なくないと思われる。