八幡神社 (大野)

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(沿革)
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創建は不詳だが阿木の中で最も古い神社とも言い伝えられている。古くからある神社で、恵那郡誌によれば従四位下[[阿氣明神]]と比定している。また[[恵那神社誌]]では[[恵那神社]]の{{ruby|遙拝所|ようはいじょ}}だったとも云われている。
 
創建は不詳だが阿木の中で最も古い神社とも言い伝えられている。古くからある神社で、恵那郡誌によれば従四位下[[阿氣明神]]と比定している。また[[恵那神社誌]]では[[恵那神社]]の{{ruby|遙拝所|ようはいじょ}}だったとも云われている。
  
{{年号|1571}} に大野村を襲った山崩れにより古い記録をすべて失い {{年号|1624}} に再建されたと伝えられている ([[恵奈神社誌]])。
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{{年号|1571}} に大野村を襲った山崩れにより古い記録をすべて失い {{年号|1624}} に再建されたと伝えられている ([[恵那神社誌]])。
  
 
== 境内 ==
 
== 境内 ==

2010年9月4日 (土) 23:01時点における版

名所旧跡
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大野八幡神社
住所岐阜県中津川市飯沼806
位置[MAP]N35:24:35.70/E137:29:07.14
祭神誉田別命

大野八幡神社(おおのはちまんじんじゃ)大野農免農道沿いの大野にある神社。正確には飯沼に属する。付近の森と合わせて大野杜と呼ばれている。

目次

沿革

創建は不詳だが阿木の中で最も古い神社とも言い伝えられている。古くからある神社で、恵那郡誌によれば従四位下阿氣明神と比定している。また恵那神社誌では恵那神社遙拝所(ようはいじょ)だったとも云われている。

1571年 (元亀2年/安土桃山) に大野村を襲った山崩れにより古い記録をすべて失い 1624年 (寛永元年/江戸初期) に再建されたと伝えられている (恵那神社誌)。

境内

大野八幡神社は見沢八幡神社よりも古く、もはやどこから勧請されたものであるかも分からない。旧大野村の村社であり、また広岡八幡神社ができる前は現在の広岡新田も併せての産土神であった。境内には大銀杏があり倉や(くど)が併設されている。

摂社

摂社一覧

摂社は向かって右から御鍬(おくわ)神社、天白(てんばく)神社、秋葉(あきば)神社、神明(しんめい)神社、金刀比羅(ことひら)神社、八幡神社、愛宕(あたご)神社、稲荷神社、山祇(やまつみ)神社、州原(すはら)神社が祭られている。

御鍬祭りは伊勢神宮から下向した御鍬様を村々で継ぎ廻った五穀豊穣の祭り。鉦や太鼓、笛を打ち鳴らして村々を巡回し、境内では神楽や獅子舞が行われた。また途中の村で社を建てて祀られることもあったという。江戸時代に美濃で何度か巡回が行われている[1]。この御鍬神社も大野に来た御鍬様を祀ったものだろうか。

八幡神社の境内には倉が建てられている。

古くからこの八幡神社は神田(じんでん)を持っており、その田を借りた者が神社に年貢を納めていた。しかし大正時代にその年貢米を管理していた大野村の庄屋が村を出てしまったため、年貢米なんてものを個人で管理するのはかなわんということで建てられた蔵である。

組の衆が何か古い文書などが納められていないか調べてみたが、宗門帳くらいしか出てこなかったという。

(くど)

ファイル:Stoves in oono hachiman01.jpg
09/06/15 大野八幡の竈

八幡神社の境内に置かれている石造りの竈は祭事の炊き出しなどに使用される。六連の竈は非常に珍しい。

大銀杏

ファイル:Ginkgo in oono hachiman01.jpg
09/06/15 大野八幡の大銀杏

長楽寺程ではないが大野八幡神社にも大きな銀杏が立っている。この銀杏は秋になるとぎんなんを落とす。

  1. ^ 岐阜県の歴史, 松田之利 他, 山川出版社, ISBN 4-634-32210-2

文献散策

惠那神社誌

明治時代にまとめられた惠那神社誌第三編 往古に於ける氏子存在區域では、大野八幡神社は元々恵那神社の遙拝所だったと記されている。

第三章 安岐郷

区域は現在の阿木を中心として富田、飯羽間、岩村、山岡、串原まで及んだか。その安岐の中心だった阿木村広岡のうち大野[1]の里にある八幡神社は元々恵那神社の遥拝所(ようはいじょ)だったが、1571年 (元亀2年/安土桃山) に連日の霖雨で山崩れが起きて押し流されてしまった。その後の 1624年 (寛永元年/江戸初期) に再建し、改めて譽牟田別命を祀り八幡神社と称するようになったものである。

このため広岡大野の青年が恵那神社に出勤する前には祭典を行う旧慣があるという。今なお古老の言い伝えるところを見ても、元々は恵那神社の氏子であったことは明白である。また広岡川に架けられている橋は元は恵那神社が架設したものであるため、今でも川上橋と呼ばれている。

大日本史

安岐 (淡気の東北に現在阿木村がある)。文治中に岩村城の遠山荘にあった (吾妻鏡)。
  1. ^ 広岡も元は大野と称したが、その頃の大野とは現在の阿木村全体に渡っていた。後に小組に名前を付けて分立した。飯沼村の分村も巖邑府誌にある通り元は大野の内である。最後に大野の本区に旧来の大野の名称を付け、本区を廣阜 (後に広岡と改めた) と改称した。 故に名称は変わったが元より土地の中心は広岡である。近世に大野村は飯沼村と合併し、広岡はそれ以前に分裂した数村と併せて阿木村と言うようになった。現在では阿木村と飯沼村が合併し阿木村となっている。
第三章 安岐郷

今の阿木村其本土にして、(第二編第三章血洗池條参照) 其の區域は本郷村、岩村、遠山村、串原村、近傍まで及ぼせしか、其安岐の本土たる、阿木村廣岡の内大野、廣岡も元は大野と稱したりしが、其の大野の地域は、今の阿木村全體に渡りしならん、後漸次小組に名稱を附して夫々分立したり、飯沼村野の分村も、巖邑府誌に載する如し、(血洗池の條参照) 元は大野の内なりき、然して最後に大野の本區に舊來の大野の名稱を附し、本區を廣阜、(後廣岡に改む) と改稱したり、故に名稱は變りたれど、元より土地の本土は廣岡なり、近世大野と飯沼と合併して飯沼村と稱し、廣岡は其以前に分裂したる數村を合わせて阿木村と稱し、現今又阿木村飯沼村二村も合併し、阿木村とす。此の郷にある八幡神社は、元惠那神社の遙拜所なりしが、元龜二年霖雨連日に亘り、山岳崩壊して土石を押し流したるとき此の遙拜所も流失したりしが、其後寛永元年に至りて再建し、改めて譽牟田別命を祀り八幡社と稱するに至れり、故に廣岡大野の青年の惠那神社に出勤せざる前は、祭典執行せざりし舊慣ありしと、今尚古老の言ひ傳ふるを以ても、往古惠那神社の氏子たりしこと明白なりとす、又廣岡川に架する橋は、元惠那神社に於て架設せし故、今も川上橋と稱し居れり。

〔大日本史〕
 安岐今阿木村在淡氣東北文治中曰遠山莊東鑑有岩村城

関連項目


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