利用者:Torao/研究と調査/胞衣伝説と子安講

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巖邑府誌に書かれている元伊勢説も歴史ロマンとして一考する価値はありそうだが、 敢えて地元らしい説を唱えてみるとしよう。


史書を調べていて幾つか引っかかる点あった。

  • 美濃明細記には血洗社が大野平と書かれている。血洗神社を大野と言うには少々離れすぎていないか?
  • 巖邑府誌に花火を奉納とある。別紙によれば花火を奉納していたのは飯沼の神明神社。血洗神社と間違いか?

どちらの著者も伝聞による混乱だろうと最初は軽く読み飛ばしていた。


しかし、よく考えれば今の飯沼が飯妻村と呼ばれる以前は大野村であったとも聞いている。 飯妻村と呼ばれるようになった後も大野村の名を残したまま飯妻村の枝村となったのが現在大野と呼ばれている地域である。 ややこしい話だが、古文献では飯沼と大野が混同されていることが多いというという事である。


もし美濃明細記、巖邑府誌の通りであれば、古く血洗神社は飯沼にあり湖畔に遷座させるに際して 今の神明社から勧請した (あるいは神明社が血洗社とも呼ばれていて何時の時代か正式に分祀した) という事を意味している。神明神社も血洗神社も祭神は天照大神であるためその点の矛盾はないし、 また飯沼から血洗神社に出る古い道も残っている。


血洗神社が飯沼にあった事と胞衣伝説とにどういうつながりが? という話だが、さらによく考えれば、 飯沼には古くから続く出産に関するあ信仰がある。そして飯妻村という名前の起源にもなった出来事も。


目次

飯妻村と子安講

巖邑府誌の飯妻の項には以下のようにも書かれている。

遠山氏夫人の湯沐邑(とうもくゆう)であったため この名が付いたと伝えられる。字は妻に与えた米の穫れる地という意味から当てている。土壌や貢賦はおおむね 安岐と同程度である。

ここでいう湯沐邑とは遠山城主の奥方に与えられた領地という意味。貢賦が奥方の個人収入になったかは分からないが、 奥方様が住まわれたり籠もられるような場所だったと思われる。

一説によればその昔、遠山氏夫人が難産に苦しめられたが医祷によってつつがなく分娩を終えたという事があり、 湯沐邑もその祭資を提供した御利益で今でも村人は難産に苦しめられないという。このお堂は昔は村の東にあったが 後の人が今の場所に移すと云う。

当時の飯妻村の領民は奥方様の子宝成就や安産祈願の祭祀、それに出産の世話を行っていた事が窺える。 お堂とは子安寺 (おこやっさん) の事だろう。実際に代々の遠山氏奥方がここで祈祷と出産を行ったと聞いているし、 現在でも飯沼では毎年の子安講が続いている。


気になる「東」というキーワード。現在の神明神社・子安寺 (宮ノ根) から東というと、血洗池なのか、現大野なのか、 はたまた別の場所なのか分からない。


とにかく、ここまでタネを明かせばもう何が言いたいかは明白だろう。


血洗池で胞衣を清めたのは
岩村城主遠山氏の代々奥方様では!?


岩村城を築いた遠山景朝も武並神社に祀られているし、山里の村人にしてみれば領主奥方様も神に等しい 存在だったのだろう。言い伝えの課程で奥方様が神格化され、さらに江戸時代中期の国学の流行によって 伊邪那美命、胞衣伝説と発展したと考えられる。


岩村遠山氏が城主として居たのは築城から武田による陥落までの鎌倉、室町、戦国の約450年である。 そのうちの半分が湯沐邑だったと見ても200年以上、講や崇拝として地域に根付くには十分な時間であろう。


また岩村遠山氏の衰退で湯沐邑が忘れられ、名も飯沼に変わり、血洗社の胞衣伝説が現れるまでに 約150年である。これも伝承が伝説と化すには十分な時間であろう。


ちなみに遠山氏夫人でないとしたら、吾妻鏡 1185年 (文治元年) 5月1日条で、木曾義仲 (源義仲) の妹で北条政子の養女となっていた宮菊が源頼朝から美濃国遠山荘の一村を 与えられそこに移り住んでいるという。木曾義仲といえば恵奈神社には木曽義仲の奉納したと言われる 刀が納められている。その他にも高陽院、武蔵局、竜前など、遠山荘は女性に所有されていた歴史が長い。


この説が正しいかどうかは分からないが、言及の多さや話の生々しさからして、恵那山周辺の胞衣伝説は 血洗池の伝承が発端ではないだろうか。なぜ類似した話が周辺地域に広まったかについても考える。


森林資源と神明社

<img alt="伊勢神宮への御用材運搬" height="317" src="misomayama_route.png" width="223"/>

[../../spot/enajinja/index.xhtml恵那神社]のページでも述べたが、古代から恵那郡 (木曽の一部を含める旧恵奈郡) は多くの木材のを産出する地域でもあった。江戸時代初期には尾張地方の 成長による材木不足、そして木曽川を使った運搬の容易さから、恵那山から木曽付近までが尾張藩の管理下に置かれいる。


また伊勢神宮でも社の御用材が枯渇する。20 年おきに 200 年以上の巨木が 1 万本も必要となるため神宮周辺の 御用地だけではとてもまかない切れなかったのだろう。資源豊富で運搬も容易な恵那の木曽地方が御三家筆頭尾張藩の 御用地となったことで、神宮もこの地方を御杣山(みそまやま)と定めて 現在に至るまで神宮備林として使用している。


三省堂日本山名事典[../../index.xhtml#三省堂日本山名事典*]の恵那山の 項には過去に恵那山からも御用材が伐り出されていたことが記されている。 ただ現在では長野の木曽郡か中津川でも阿寺山地のような奥地の国有林から伐り出しているが。

山頂付近のヒノキは、昔は伊勢神宮に奉納されていた。

このような背景を考えれば、恵那郡の産土神である恵那神社に神明社として神宮の天照大神、豊受姫が 祀られるのはごく自然な事と思える。


※ちなみに、木曽川の大井ダム建設に伴って現在の神宮御用材は北恵那交通が陸路で運んでいるという。



伊勢神宮と胞衣伝説

恵那郡の山々から伐り出された御用材は神宮の社となって天照大神を風雨からお守りする事になる。 また、古く胞衣は胎児の頭に被って守っていると考えられていた事から、「社=胞衣」という 見方をすれば、恵那は天照大神の胞衣を産出する地と解釈することができる。


加えて血洗神社に伝えられる胞衣伝説もあったとなれば、この解釈は恵那地方の里人にも支持されただろう。


また、いくら神宮とはいえ徳川御三家筆頭の尾張蕃の山から用材を伐り出すのにはそれなりに配慮が 必要だったと思われる。巖邑府誌において御杣山の根拠として胞衣伝説が挙げられているように、 つまり神宮にとってもこの胞衣伝説はありがたい存在だったのかもしれない。


天照大神の胞衣伝説が恵那山周辺地域に広まったのは恵那郡 (木曽地方) が御杣山となった事に端を発していると考えられる。結論としてこの伝説が意味するところは:

天照大神の胞衣とは
恵那山周辺地域の
素晴らしい森林資源だった!

周辺地域の伝承

恵那山周辺地域の伝承についてこの説に基づいて考える。

■ 恵那神社/恵那山

役小角が開山したと伝えられる修験道の山だったことからも、元々は葛城社 (一言主) が主祭神だったのでは ないのだろうか。御用材伐り出しの儀式に訪れた神宮宮司がこの地の産土神である恵那神社の葛城の神にお参りし、 「天照大神の胞衣産出の地=伊邪那岐命・伊邪那美命」と言うことでこの 2 柱を主祭神として迎えたと。


また恵那山は頂上が 20 合目と言う珍しい数え方をする山でもある。この 20 というのは神宮式年遷宮の 20 年に由来するのかもしれない。


■ 血洗池

奥方の出産の他に、御用材伐り出しの夫役にかり出された人夫や宮司が禊ぎなどに 使用するような事があったのかもしれない。出産や伐採作業が終わって安気になったのは 伊邪那美ではなく、世話人や役夫としてかり出された里人だったのだろう。


■ 湯舟沢

岩村遠山氏の子の産湯に湯舟沢まで行ったというのは少々苦しい所。「洗う」という メタファーと、昭和初期まで雨乞いの儀式に使われていたという話から、御用材伐り出しの 清めや禊の儀式に使われた場所なのかもしれない。


■ 三森神社

三森神社は岩村城からもほど近い位置。遠山氏の出産で臍の緒を切るのに使った鎌なのかもしれない。 ただ、中世の頃は金物で切るのを忌み竹刀や欠けた陶器などを使用していただろう。


ホツマツタヱが真に伝えるもの

さて、敢えてここまで触れないようにしてきたホツマツタヱに関して考える。


現在の通説ではホツマツタヱが書かれたのは江戸時代中期 (1704-1829頃/宝永-文政頃) とのことから、ちょうど御用材を伐り出し始めた時代と重なる非常に微妙な時期。ホツマツタヱが それ以前であるという話は真書論者にまかせるとして、1709 年以後に書かれたものであると 考えるとかなり具体的にローカライズされた内容を含んでいることが分かる。


まずホツマツタヱの中で伊邪那岐・伊邪那美が葛城の山に祈って天照大神が生まれた部分。これは恵那山が 役小角によって開山し、元々の主祭神は葛城の山の一言主だったのでは? と言う事と繋がる。つまり

恵那地方の山々から神宮の御用材 (天照大神の胞衣) を伐り出すのに、恵那の産土神である恵那神社の 葛城の神にお参りして許しを得た。

と解釈できる。同時にホツマツタヱでは富士山にも言及していることから、当時の恵那神社は一言主 (現葛城社) を主祭神とし、摂社に木花咲耶姫 (現富士社) を置いていたのかもしれない。


そして北に向かって恵奈ヶ岳に納めたという部分。血洗池に祭殿と産屋を設けたとしたなら、北の山とは 保古山の事である (龍泉寺のある時代)。恵那山は北というより東北東にあたる。


しかし三河地方や東海道の東方面から中馬街道を通って岩村-阿木-川上と来る参拝者は、進む方向も 恵那山を最初に見る方向も北となる。つまり、恵那山へのこの参道を知っていた (あるいは実際に参拝した) 誰かの証言に基づいていると思われる。


改めて、ホツマツタヱを御用材伐り出しの後に書かれた文献であると見た場合、そこにちりばめた ネタの具体性からも、その作者あるいは情報提供者は:

  • 血洗池の胞衣伝説を知っていた
  • 恵那の地が神宮御用材の地であることを知っていた
  • 恵那山に葛城の神が祀られていた (あるいは役小角が開山したこと) を知っていた
  • 三河地方あるいは東海道の東方面からの参道を知っていた

と考えられる。具体的には御用材の視察団、伐採の神事を執り行った伊勢の宮司、その他参拝者などの 話が参考になっているような気がしている。そして、当時こんなローカルなネタもきちんと押さえた 上であれだけの話が書ける人間となれば神宮に近しい優秀な神学者という像が浮かび上がる。


内容の具体性からも木曽の御用材調達とホツマツタヱ記述はかなり近い時期のように感じられる。 偽書扱いされているのが残念だが、これはこれで江戸時代中期の天才がその頃の伝承を伝える 「再編 日本書紀」のような文献なのかもしれない。


この説にまつわる年表

927年延長5年恵奈神社の名延喜式神名帳
1185年文治元年岩村城築城(岩村遠山氏開始)
1572年元亀3年岩村城落城(岩村遠山氏終了)
1709年宝永6年御用材伐り出し開始
1738年元文3年血洗神社と血洗池伝説美濃明細記
1751年寛延4年三森神社の鎌岩村府誌
1757年宝暦7年湯舟沢の産湯吉蘇誌略
1798年寛政10年御杣山に認定
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