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(阿木)
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;阿気明神
 
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:恵那神社は延喜式に名を連ねる式内社である。しかし美濃國神名帳によれば阿気明神が「從四位上」、恵那神社が「從五位上」であることから、もしかしたら当時は恵那神社よりも格が上だったのかもしれない。皇族や公家の姫が子を産んだというような胞衣伝説の元となる出来事があって格を授けられたのか。
 
:恵那神社は延喜式に名を連ねる式内社である。しかし美濃國神名帳によれば阿気明神が「從四位上」、恵那神社が「從五位上」であることから、もしかしたら当時は恵那神社よりも格が上だったのかもしれない。皇族や公家の姫が子を産んだというような胞衣伝説の元となる出来事があって格を授けられたのか。
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:[[惠那神社誌]]によれば、元は血洗池の東南に大社があったが安土桃山の頃に山境紛争で森ごと付け火に遭い、江戸初期に現在の場所に移ったという言い伝えが載せられてある。これが本当なら血洗池の東南あたりを調べてみれば建物跡や陶器の破片、あるいは炭層などが出て来るのではないだろうか。
  
 
;腰掛け岩
 
;腰掛け岩

2009年12月10日 (木) 06:33時点における版

阿木

阿木の由来
最古の記録は平安時代の和名類聚抄における安岐郷恵奈郡の一郷。
元は濁らずアキと言う。古代のアキとは「秋」の他に「収穫」「実り」も意味している。秋に飛ぶ蜻蛉(とんぼ)をアキツとも言うし、この時期に立つ収穫物の市場から「アキない」、長かった農耕期が終わることで「アケる」、食べ物が十分にあるという意味で「アキる」など、アキは様々な変化系を持つ古い言葉である。
現在の広島県安芸市、大分県東国東郡安岐町の他、古代には大和国秋津洲(あきつしま) (ツは助詞、つまり奈良吉野のアキの国) など、アキの読みを持つ地名は古来から全国にあった。調べてみるとどれもアキの意味から来たという説が有力である。阿木に関してもアキに由来すると見て良いだろう。
これに基づいて考えれば安岐郷とは「実りの村」という意味である。もしかしたら「トンボの飛ぶ村」「作物市場の村」かもしれないが、いずれにしても古くから豊かな自然と収穫量を持つ地域であったことは間違いないだろう。
阿気明神
恵那神社は延喜式に名を連ねる式内社である。しかし美濃國神名帳によれば阿気明神が「從四位上」、恵那神社が「從五位上」であることから、もしかしたら当時は恵那神社よりも格が上だったのかもしれない。皇族や公家の姫が子を産んだというような胞衣伝説の元となる出来事があって格を授けられたのか。
惠那神社誌によれば、元は血洗池の東南に大社があったが安土桃山の頃に山境紛争で森ごと付け火に遭い、江戸初期に現在の場所に移ったという言い伝えが載せられてある。これが本当なら血洗池の東南あたりを調べてみれば建物跡や陶器の破片、あるいは炭層などが出て来るのではないだろうか。
腰掛け岩
血洗池の腰掛け岩、あれは磐座(いわくら)なのかもしれない。

恵那

恵那の由来
最古の記録は飛鳥時代の飛鳥池の木簡で土岐郡の一郷。
恵那(エナ)伊那(イナ)飯田(イダ)科野(シナ) (信濃)、飛騨(ヒダ)、多分どれも同じ語源だったものが微妙に変換して固有名詞として定着したものだろう (「垣内」の変化に似ている)。
  • (ヒナ) - 美濃平野には中央 (奈良) の直轄領も多かった中で恵奈はその一番奥にある。このため、古代に都に対する田舎を意味した鄙と呼ばれた。多分最初は地域名ではなく「後進国」的な一般名称として使われていたのだろう。
  • 蝦ナ(エナ) - 中央から見て東山道の恵奈より先が訳の分からない地方豪族が威を張る地だったため蝦夷(えみし)の類語で呼ばれた。古墳時代の頃は恵那山付近にヤマト王権の勢力境界があったのかも知れない。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)も東部の蝦夷を討伐に出かけ恵那山を通ったとしている。
  • 胞衣(エナ) - 古に大神が子を産んだ時、胞衣を高い山に納めた事から恵那山の名が付いたという伝説に由来する。伝説の元となる出来事があったのかもしれないが、恵那由来説自体は庶民に国学が広まり始めた江戸時代初期から中期にできたものだろう。

岩村城

築城
当初は前の遠山荘地頭から引き継いだ城館が富田か大円寺にあり、現在の山城は見張りや合戦時に立て篭もる砦であったのだろう。建武年間に城館の近くに遠山氏の菩提寺である大円寺を建てた (現在の岩村城からは遠すぎる)。巖邑府誌の官舎や市場があったという記述や、古市場という遺存地名からも中世の城府は富田大円寺にあった。富田・飯羽間を含めた本郷村としたのも元々本郷とという遺存地名があったためではないだろうか? (城府郊外に本郷という名前は付けないだろう)
霧ヶ城の由来
切、桐、霧という地名は、「切り開く」という意味で川や谷、あるいは開拓地に、あるいは「切り場」という意味で石切場や木材山に見られる。あの城山付近は古くキリと呼ばれていたのではないだろうか。実際に飯羽間や恵南地区には某切という地名が幾つか現存している。
美濃で土岐氏の勢力が強く、遠山氏が単なる地方大名だった時代には城館+砦程度の城だったのではないだろうか。しかし土岐氏が衰退し、いよいよ遠山の時代という事で新しく城を建てた。そして古城と区別するためにキリの城と呼んだ。地元の名なので吾妻鏡のような諸記にはあまり出てこない。ただ実際にこの地まで来た武田の甲陽軍鑑のみが記すと。
桐中将
宰相中将→桐中将 (巖邑府誌)。遠山氏が入る前の時代の話では?
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