和宮様御東下
提供:安岐郷誌
(版間での差分)
1行: | 1行: | ||
[[File:Kazunomiya.jpg|thumb|120px|皇女和宮 肖像画]] | [[File:Kazunomiya.jpg|thumb|120px|皇女和宮 肖像画]] | ||
− | {{年号|1861}} 10月、皇女[[w:和宮親子内親王|和宮様]]が御東下される際に[[大井宿]] | + | {{年号|1861}} 10月、皇女[[w:和宮親子内親王|和宮様]]が御東下される際に[[大井宿]]を御通行。街道周辺の助郷村は宿場や休息所、道路の整備、伝令や荷運びの労役に駆り出された。 |
− | + | ||
− | + | ||
{{-}} | {{-}} | ||
+ | == 熊崎新三郎事件 == | ||
+ | 和宮様の御通行に際して岩村藩の代官<strong>吉田泰蔵</strong>は大井宿へ人足30人を差し出すよう野井村に命じた。しかし野井村には{{ruby|大湫宿|おおくてじゅく}}の[[助郷]]が割り当てられていたし、その人足は明らかに中野村が出すべきものであった。野井村は断ったが最終的に強要され道路整備や通行人の接待を行わせられた。 | ||
+ | |||
+ | 一行御通行後の夕方、こんな事が先例になってはいかんと野井村の百姓<strong>熊崎新三郎</strong>なる者が吉田の泊まっていた本酒屋 (現<strong>中野村庄屋屋敷</strong>跡) に乗り込み吉田を斬りつけて逃亡。そのまま新三郎は行方知れずとなり、熊崎家は閉門、家族は親戚預かりとなった。 | ||
+ | |||
+ | 野井村もまたこのような事が今後も続いてはいかんと岩村藩を相手に幕府へ訴状を提出。評定所の取り調べで野井村は勝訴し、今後野井村に大井宿の労役を課さないこと、野井村に金25両を出すこと、代官を罷免することが決定した。野井の里人は新三郎を義民として称えた。 | ||
+ | |||
== 和宮泉 == | == 和宮泉 == | ||
大井宿本陣の裏手、現在の城ヶ丘保育園の校庭に{{ruby|'''和宮泉'''|かずのみやせん}}<map name="和宮泉" lat="35.455922" lon="137.415264"/>と呼ばれる井戸が残っている。由緒書きによれば本陣の林家が使用しており、和宮様に水を供した井戸だと云う。 | 大井宿本陣の裏手、現在の城ヶ丘保育園の校庭に{{ruby|'''和宮泉'''|かずのみやせん}}<map name="和宮泉" lat="35.455922" lon="137.415264"/>と呼ばれる井戸が残っている。由緒書きによれば本陣の林家が使用しており、和宮様に水を供した井戸だと云う。 | ||
23行: | 28行: | ||
[[Category:大井|かすのみやことうけ]] | [[Category:大井|かすのみやことうけ]] | ||
+ | [[Category:野井|かすのみやことうけ]] | ||
[[Category:旧跡|かすのみやことうけ]] | [[Category:旧跡|かすのみやことうけ]] | ||
[[Category:近世|かすのみやことうけ]] | [[Category:近世|かすのみやことうけ]] |
2009年7月1日 (水) 21:43時点における版
1861年 (文久元年/江戸後期) 10月、皇女和宮様が御東下される際に大井宿を御通行。街道周辺の助郷村は宿場や休息所、道路の整備、伝令や荷運びの労役に駆り出された。
熊崎新三郎事件
和宮様の御通行に際して岩村藩の代官吉田泰蔵は大井宿へ人足30人を差し出すよう野井村に命じた。しかし野井村には
一行御通行後の夕方、こんな事が先例になってはいかんと野井村の百姓熊崎新三郎なる者が吉田の泊まっていた本酒屋 (現中野村庄屋屋敷跡) に乗り込み吉田を斬りつけて逃亡。そのまま新三郎は行方知れずとなり、熊崎家は閉門、家族は親戚預かりとなった。
野井村もまたこのような事が今後も続いてはいかんと岩村藩を相手に幕府へ訴状を提出。評定所の取り調べで野井村は勝訴し、今後野井村に大井宿の労役を課さないこと、野井村に金25両を出すこと、代官を罷免することが決定した。野井の里人は新三郎を義民として称えた。
和宮泉
大井宿本陣の裏手、現在の城ヶ丘保育園の校庭に
- Kazunomiyasen.jpg
09/06/14 和宮泉は城ヶ丘保育園の校庭にある。