坂本駅 (東山道)

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[[w:延喜式|延喜式]][[w:兵部省|兵部省]]によれば規定の駅馬数10匹に対して30匹を備えており、東山道では近江国勢多駅、信濃国阿智駅と並んで最多であった。もっとも、勢多駅は東海道との共用のためで、阿智駅も[[神坂峠]]を控えていたためである。
 
[[w:延喜式|延喜式]][[w:兵部省|兵部省]]によれば規定の駅馬数10匹に対して30匹を備えており、東山道では近江国勢多駅、信濃国阿智駅と並んで最多であった。もっとも、勢多駅は東海道との共用のためで、阿智駅も[[神坂峠]]を控えていたためである。
  
神坂峠越えは駅子にとって過重な負担だった。一般の駅子が[[w:租庸調#庸|庸]]と[[w:雑徭|雑徭]]のみ免除されるのに対し、延喜式民部省では「凡美濃国坂本土岐大井三駅信濃国阿智駅子課役並免」と記し、土岐・大井・坂本の駅子は特別に[[w:租庸調#調|]]を加えた課役が免除されていた。
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神坂峠越えは駅子にとって過重な負担だった。一般の駅子が[[w:租庸調#庸|庸]]と[[w:雑徭|雑徭]]のみ免除されるのに対し、延喜式民部省では「凡美濃国坂本土岐大井三駅信濃国阿智駅子課役並免」と記し、土岐・大井・坂本の駅子は特別に[[w:租庸調#調|調]]を加えた課役が免除されていた。
  
 
しかし続日本後紀承和7年 {{note|(840年)}} 4月23日条には坂本駅子がことごとく逃亡したとあり、また嘉祥3年 {{note|(850年)}} 5月28日の太政官符 (類聚三代格) にもなお逃亡が続いている事が記されている。律令政府は再建を試みたであろうが、斉衡2年 {{note|(855年)}} 以降に資料上から坂本駅の名が見られなくなっている。
 
しかし続日本後紀承和7年 {{note|(840年)}} 4月23日条には坂本駅子がことごとく逃亡したとあり、また嘉祥3年 {{note|(850年)}} 5月28日の太政官符 (類聚三代格) にもなお逃亡が続いている事が記されている。律令政府は再建を試みたであろうが、斉衡2年 {{note|(855年)}} 以降に資料上から坂本駅の名が見られなくなっている。

2009年6月12日 (金) 08:13時点における版

坂本駅(さかもとえき)は古代東山道の駅名。比定地については中津川市駒場、千旦林、神坂と諸説あり、また大井駅の衰退を補填するために駒場から千旦林へ移ったとも言われている。

延喜式兵部省によれば規定の駅馬数10匹に対して30匹を備えており、東山道では近江国勢多駅、信濃国阿智駅と並んで最多であった。もっとも、勢多駅は東海道との共用のためで、阿智駅も神坂峠を控えていたためである。

神坂峠越えは駅子にとって過重な負担だった。一般の駅子が雑徭のみ免除されるのに対し、延喜式民部省では「凡美濃国坂本土岐大井三駅信濃国阿智駅子課役並免」と記し、土岐・大井・坂本の駅子は特別に調を加えた課役が免除されていた。

しかし続日本後紀承和7年 (840年) 4月23日条には坂本駅子がことごとく逃亡したとあり、また嘉祥3年 (850年) 5月28日の太政官符 (類聚三代格) にもなお逃亡が続いている事が記されている。律令政府は再建を試みたであろうが、斉衡2年 (855年) 以降に資料上から坂本駅の名が見られなくなっている。

参照

参考文献

  • 日本歴史地名大系第二一巻 岐阜の地名, 所三男, 1993年(平成5年), 平凡社, ISBN 978-4582490213
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