天照大神の胞衣伝説

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2010年8月25日 (水) 03:19時点における最新版

天照大神の胞衣伝説(あまてらすおおみかみのえなでんせつ)は恵那山周辺地域に残る日本神話時代の伝説。

昔々の神の時代、伊邪那美命(いざなみのみこと)は天照大神をお産みになり、その時の胞衣(えな)を山に納めた事からこの山を胞衣山 (現在の恵那山) と呼ぶようになった。

胞衣とは出産時に胎児と共に出てくる胎盤の事である。

このページではこの伝説にまつわる様々な事柄を記述する。

目次

[編集] 周辺地域の伝承

恵那山の周辺地域には胞衣伝説にまつわる伝承が多く残っている。

[編集] 恵那神社

恵那神社は延喜式神名帳 (927年/延長5年) にも記載されている恵奈郡三座のうちの一つ。由緒書きには天照大神の胞衣を恵那山に納めた事、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が登拝した事だけが簡単に書かれている。

恵那山は恵那郡第一の髙峰にして (二一九〇米) 神代の世、天照大神の御胞衣を此の山頂に納めし故恵那山と謂い恵那神社の鎮座させられたるも神代の時なり。古事記、日本書紀に日本武尊この山に御登拝の記事あり。

恵那神社の主祭神は天照大神の親である伊邪那岐、伊邪那美。また摂社に天照大神も祀られている。

[編集] 血洗池

阿木の血洗池跡に建てられている由緒書きには、天照大神の胞衣を血洗池で洗い清めた事、恵那は恵那山に納められた事、産が終わりホッとした事からこの地を安気 (阿木) と名付けた事が記されている (詳細は血洗神社参照)。またここには産後に休んだ腰掛け岩と呼ばれる岩がある。

神代の或る御神 (伊装册命) 御子 (天照大神) を産み給ひその御胞衣 (胎児を包んでいる膜と胎盤) を洗いしに池の水赤くにぞなりけり。血洗の池と呼名され、胞衣(えな)は恵那嶽に納む。胞山の名これより起る。我国に漢字移入以前の神代文字 血洗池 由緒書きホツマ.png(ホツマ) (秀眞伝(ホツマツタエ)) の記録に判然として残る。又日本名勝地誌、新撰美濃誌にも明らかなり。産終わりて母神、岩に腰掛け、御心地爽にして、安らかにぞなり給い、今よりこの処を安気野の里と名付けよと宣り給う。

この伝承からか血洗神社には天照大神が祀られている。

[編集] 湯舟沢

産湯に使用した池があるという。 大日本地名辞書参照。

[編集] 三森神社

阿木と富田 (岩村) の境界に三森山という山があり、その中央の山に位置する三森神社の由緒書きには天照大神のへその緒を切ったと伝えられる鎌が納められていると云われている。

巖邑府誌 (一七五一) は誌す。「……山上の神祠に神鎌が納めてある。伝えによると、その鎌を垂松瀑に投げて雨乞いをすると恵みの雨があるという。またその鎌は天照大神が恵那山で御産された折に臍の緒を切ったもので、三森神社の神祠に納めたものである。」

岩村府誌 (1751年/寛延4年) も吉蘇誌略と同じ江戸時代中期の地誌だが、こちらの方が若干早い。

[編集] 屏風石

大神が産後に休んだと云われている屏風石が血洗池から国道363号を下り、ふるさと林道三森山線を500mほど上がった場所に置いてある。

[編集] 夫婦岩

女夫岩とも書く中津川の陰陽石。伊邪那岐、伊邪那美が天照大神を云々という話があるという。

[編集] 胞衣伝説にまつわる文献

[編集] 美濃明細記

胞衣伝説について言及している最も古い文献は江戸時代中期に編纂された美濃明細記 (1738年/元文3年/江戸中期) 第三巻 神社 の血洗社である。血洗池が胞衣を洗った池であること、またそれが恵那の名の由来である事が記されてる (詳細は血洗神社参照)。

恵奈郡阿木山麓大野平
一 血洗社 上古神ノ胞洗之池云々 恵奈之名起于此歟

[編集] ホツマツタヱ

血洗池の由緒書きで言及しているホツマツタヱは漢字の渡来以前に日本で使われていたと言われるホツマ文字を用いて五七調で書かれた古文書。一説によれば古事記や日本書紀より古いものであるとも言われているが、通説によれば江戸時代中期頃に書かれたものである。

以下は二十八(あや) の天照神が誕生する部分についてこのサイトを参考に翻訳したものである。

御子がなかなか産まれない伊邪那岐命、伊邪那美命が葛城山にお祈りを捧げたところ、元旦の日の出と共にお生まれになった。名はワカヒト[1] (男)。富士山の麓の宮で産まれた。へその緒の胞衣を峰に納めれば子の守護となり、禍があっても納めた場所を変えて防げば[2]和らぎ長生きできると言われている。これにならい、大山祇が見立てた北の峰に夜道[3]を行ってその胞衣を納めた。信濃の国の恵奈ヶ岳である。

恵那山に胞衣を納めた事がそのままずばりと書かれている。葛城山は奈良県の犬鳴山。またリンク先のサイトによると大山祇は富士山付近の豪族の王との事。恵那神社の摂社にも葛城社と富士社がある。

北に向かって恵那山に到着したという事は三河地方の豪族だったのだろうか? それとももっと先の三河湾や遠州灘から来たのだろうか? はたまたもっと近くの阿木だったのだろうか?

  1. ^ 富士山北麓に若彦路という路があるが関係は不明。
  2. ^ 胞衣にまつわる民家信仰では、子供の体調不良が続く場合には場所を変えて埋め直しも行われている。このため「ワサハイアルモ シナカヱテ」は埋め直しを意図しているとした。
  3. ^ 胞衣納めには日中や月夜を避けるだとか満潮時に埋めるだといったように、地方によって場所や方角や時間に決まりがあった事からヨメチは夜道としている (古語として正しいか不明)。恵那山を北に望み夜の間に往復できるのは阿木くらいしかない!?

[編集] 岩村府誌

巖邑府誌飯妻には以下のように書かれている。

村内の鬱蒼とした森の中に大神の神社がある。言い伝えによれば大昔に日神が恵那岳に降り立ち、胞衣を納めたことから胞山という名が付いたと云われている (胞衣が恵那となった)。またお産の穢れを清めた血洗池が竜泉山にある。またへその緒を切った鎌が三森神社に納められている。つまり大神の神社はこの遺跡である。

この大神の神社は占いをして伊勢の度会(わたらい)郡に遷ったという。この事から伊勢神宮の御用材には恵那岳の木材を献上して今に至るとの事である。さすがにここまでは信用できないが、国史では垂仁天皇二十五年に倭姫命(やまとひめのみこと)が大神鎮座の地を求めて近江 (滋賀県) の東から美濃を廻って伊勢に至ったという。つまり、かつて倭姫命が占いをして現在の地に決めるまでの行宮 (仮宮) と言われるようなことがあったのかもしれない。そして里人がたくさんの妄説を付けたと。

8 月 16 日に花火を上げてこの神を祭る。おそらく戦国から続いている風習だろう。

倭姫命が天照大神をお祀りする地を探している時にこの地を仮宮とし、占いをして現在の伊勢神宮に遷座したという新説である。

伊勢神宮が現在の場所に決まるまで各地を移動した事は日本書紀に書かれており、その地は元伊勢と呼ばれている。そして「倭姫命世紀」によれば岡山から岐阜にかけて 26 ヶ所にも及ぶということである (鎌倉時代に書かれた書なので信用には耐えないがそれだけ各地を廻ったという意味で)。

美濃の平野に立ったならその最高峰である恵那山を視察するのも不思議ではないか?

[編集] 大日本地名辞書

明治時代に編算された大日本地名辞書恵那岳の項には湯舟沢が天照大神誕生の産湯に使われたという吉蘇誌略 (1757年/宝暦7年/江戸中期) の記述が引用されている。

吉蘇志略の湯舟沢の条に「在恵那山北麓、岩石形如槽、里民伝、是天照大神降誕時所浴也、村名職是之由、且蔵胞衣於此山、胞衣倭訓恵那、則恵那山名、亦復拠此、其山下所出水温煖、則所謂温川也」と見えたり、

吉蘇とは木曽の古い字で吉蘇志略はつまり木曽の地誌。著者の松平君山 (松平秀雲) は江戸時代中期の尾張藩の儒教・地理学者。漢字の部分は以下の通り。

恵那山の北の麓に浴槽のような形をした岩がある。里人によればこれは天照大神が生まれた時の浴槽であるとの事で、村の名前はこれを由来にしていると伝えられている。この時の胞衣はこの山に納められた。この山は胞衣の読みがエナである事から恵那山という名前となった。またこの山の下には温水がわき出す所があり温川と呼ばれている。

ただし同じ大日本地名辞書の恵那郡の項では恵那の語源について神話には触れられてない。

恵奈は山名の恵奈に起る()、意義不詳、山の東は信濃にて伊奈郡と伝ふ、伊恵音韻相通ふと(いえど)、其起因の異同を知らず。

恵奈は恵奈山から来ているがその意味は分からない。恵奈山の東側の信州では伊奈郡と言う。伊も恵も元は同じ音だったのだろうが、何故「エナ」「イナ」に分かれたのは分からない。

[編集] 古事記の神産み

神の時代とは古事記や日本書紀の中でも高天原(たかまがはら)だとか国産み・神産みだとかいった時代。記紀は基本的にフィクションであるが、記紀が書かれる前の弥生・古墳・飛鳥時代に実在した豪族や巫女、実際にあった出来事などの伝承に基づく部分も含まれていると考えられている。

古事記の中に書かれている天照大神誕生の部分を簡単に説明する。

火の神を産んだ事で自身が焼け死んでしまった妻イザナミ。離別を悲しむ夫イザナギは妻に会うべくしてついに黄泉の国まで来てしまう。しかし時既に遅し、イザナミは黄泉の食べ物を口にしてしまっていたため現世に引き返す事が出来無いのである。「黄泉の神様に頼んでみますから、どうか姿を見ないで!」と懇願するも、気になったイザナギに姿を見られてしまう。

イザナミの体は既に腐敗し、異臭を放ち、ウジが湧き、穢れと共に産まれた雷神が取り付いていた。そのあまりに変わり果てた姿に驚いたイザナギは逃げ出してしまったのである。

愛する者の裏切りにブチ切れたイザナミは恨み百倍、悪鬼や雷神をけしかけるが、櫛を投げ腕輪を投げ、何とか現世にたどり着く事が出来た。その後イザナギは日向国 (宮崎県) で(みそぎ)を行って、左目から洗い流した黄泉の国の穢れからアマテラスが、右目からツクヨミが、鼻からスサノオが誕生したのである。

いろいろな意味で凄い話だが、天照大神は伊邪那岐 (男) から産まれた事になっている。しかも黄泉の国の穢れからである。このような生い立ちでは天照大神が生まれたのは宮崎県であり、そもそも胞衣も関与していないという事になる。

[編集] 胞衣と民間信仰

西洋医学が発達するまでは胎児と一緒に出てくる胎盤がなんのためのものなのかよく分かっていなかった。

奈良時代から平安時代にかけて流行した陰陽道では胞衣を生命誕生に霊的に関与する重要な物とし、赤子が居た世界とこの世界を結ぶ駕篭(かご)のようなものだとか、そこを通る時に赤子を守るものだとか考えられていた。また転じて赤子のその後の人生に関与するものとしていた。

大辞泉によれば産後 5 日目または 7 日目に胞衣を胞衣桶や胞衣壷に納め、吉日に恵方に埋める胞衣納めという儀式がある。

現代では馴染みのない胞衣納めだがその歴史は古く、日本では少なくとも中世の平安時代には陰陽道として胞衣納法というものが存在していた。胞衣の生命(いのち)[1]によれば出産後に胞衣所と呼ばれる場所に数日置いた後、洗い清めて弓矢型や銭などと一緒に胞衣壷または桶に入れ、陰陽師の占った吉方に納めると書かれている[2]。このような胞衣に関する俗習は東アジアから東南アジアにかけて残っている。

また埋める場所の禁忌や埋めた後の厄災なども事細かに決められてた。同書に書かれている中世末期の禁忌の例を挙げる。

(イ) 獣の掘らぬところに納める。もし獣がこれを掘り出せば、その子は顛狂になる。
(ロ) 虫が胞衣を食うと、その子に悪瘡が絶えない。
(ロ2) カラスやカササギが食うと死をにくむ。
(ハ) 神社墓所に竈などの辺に納めると、その子は盲になる。
(ニ) 流水の地あたりに納めれば、その子は溺死する。
(ホ) 井のあたりや水の出るところに納めると、その子は聾になる。
(ヘ) 道の辺りに納めると、その子の果報はつたない。

同書によれば中世頃の胞衣に対する当時の認識は、母胎からの悪気を防ぎ生気を通じる役割と考えられていた。

中世において、医師を含め一般の人たちが、胞衣の働きをどのように理解していたか明らかではないが、上記のような母親の身体との不和合から胎児を守るのが胞衣の役割だ、という考えもあったに違いない。 〜(略)〜 中世の『修験道修要祕訣』の示す保護作用に、生命力 (栄養を含むだろう) の伝達システムを加えた形になっている。

また笠のように胎児の頭に被るように守っていると考えられていた。

一般に近世中期以前においては、子宮内の胎児は出産直前まで子宮の上方に頭を位置して直立していると思われていた。この見方によると、胞衣は胎児の頭上にかぶさることになる。『修験道修要祕訣』が、「赤子の頂上を蓋ふ」とし、『女重宝記』が「胞衣は子胎内にて頭にかづき」と述べるなど、胞衣の胎児保護機能を胎児の頭部被覆によって説く例が多い。

中世 (あるいは古代) から近世に渡って長く続けられてきた胞衣納めの俗習だが、近代医療の発達により明治時代の中期に入ると禁止され、現代では精々記念にへその緒を取っておく程度となってしまった。

古い家の軒下を掘って陶器片と古銭が出てきたらそれは胞衣を納めた跡なのかもしれない。

  1. ^ 胞衣の生命, 中村禎里, 海鳴社, 1999
  2. ^ 縄文時代の遺跡からも胞衣壷のようなものが発掘されているが、中世以前のものは学説として胞衣壷であると確証に至る証拠がないという。

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[編集] 外部リンク

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