天照大神の胞衣伝説

提供:安岐郷誌
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天照大神の胞衣伝説(あまてらすおおみかみのえなでんせつ)は恵那山周辺地域に残る神話時代の伝説。

昔々の神の時代、伊邪那美命(いざなみのみこと)は天照大神をお産みになり、その時の胞衣(えな)を山に納めた事からこの山を胞衣山 (現在の恵那山) と呼ぶようになった。

目次

周辺地域の伝承

恵那山の周辺地域には胞衣伝説にまつわる伝承が多く残っている。

恵那神社

恵那神社は延喜式神名帳 (927年/延長5年) にも記載されている恵奈郡三座のうちの一つ。由緒書きには天照大神の胞衣を恵那山に納めた事、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が登拝した事だけが簡単に書かれている。

恵那山は恵那郡第一の髙峰にして (二一九〇米) 神代の世、天照大神の御胞衣を此の山頂に納めし故恵那山と謂い恵那神社の鎮座させられたるも神代の時なり。古事記、日本書紀に日本武尊この山に御登拝の記事あり。

恵那神社の主祭神は天照大神の親である伊邪那岐、伊邪那美。また摂社に天照大神も祀られている。

血洗池

阿木の血洗池跡に建てられている由緒書きには、天照大神の胞衣を血洗池で洗い清めた事、恵那は恵那山に納められた事、産が終わりホッとした事からこの地を安気 (阿木) と名付けた事が記されている (詳細は血洗神社参照)。またここには産後に休んだ腰掛け岩と呼ばれる岩がある。

神代の或る御神 (伊装册命) 御子 (天照大神) を産み給ひその御胞衣 (胎児を包んでいる膜と胎盤) を洗いしに池の水赤くにぞなりけり。血洗の池と呼名され、胞衣(えな)は恵那嶽に納む。胞山の名これより起る。我国に漢字移入以前の神代文字 血洗池 由緒書きホツマ.png(ホツマ) (秀眞伝(ホツマツタエ)) の記録に判然として残る。又日本名勝地誌、新撰美濃誌にも明らかなり。産終わりて母神、岩に腰掛け、御心地爽にして、安らかにぞなり給い、今よりこの処を安気野の里と名付けよと宣り給う。

この伝承からか血洗神社には天照大神が祀られている。

湯舟沢

明治時代に編集された大日本地名辞書の恵那岳の項には湯舟沢が天照大神誕生の産湯に使われたという吉蘇誌略 (1757年/宝暦7年) の記述が引用されている。

吉蘇志略の湯舟沢の条に「在恵那山北麓、岩石形如槽、里民伝、是天照大神降誕時所浴也、村名職是之由、且蔵胞衣於此山、胞衣倭訓恵那、則恵那山名、亦復拠此、其山下所出水温煖、則所謂温川也」と見えたり、

吉蘇とは木曽の古い字で吉蘇志略はつまり木曽の地誌。著者の松平君山 (松平秀雲) は江戸時代中期の尾張藩の儒教・地理学者。漢字の部分は以下の通り。

恵那山の北の麓に浴槽のような形をした岩がある。里人によればこれは天照大神が生まれた時の浴槽であるとの事で、村の名前はこれを由来にしていると伝えられている。この時の胞衣はこの山に納められた。この山は胞衣の読みがエナである事から恵那山という名前となった。またこの山の下には温水がわき出す所があり温川と呼ばれている。

ただし同じ大日本地名辞書の恵那郡の項では恵那の語源について神話には触れられてない。

恵奈は山名の恵奈に起る()、意義不詳、山の東は信濃にて伊奈郡と伝ふ、伊恵音韻相通ふと(いえど)、其起因の異同を知らず。

恵奈は恵奈山から来ているがその意味は分からない。恵奈山の東側の信州では伊奈郡と言う。伊も恵も元は同じ音だったのだろうが、何故「エナ」「イナ」に分かれたのは分からない。

三森神社

阿木と富田 (岩村) の境界に三森山という山があり、その中央の山に位置する三森神社の由緒書きには天照大神のへその緒を切ったと伝えられる鎌が納められていると云われている。

巖邑府誌 (一七五一) は誌す。「……山上の神祠に神鎌が納めてある。伝えによると、その鎌を垂松瀑に投げて雨乞いをすると恵みの雨があるという。またその鎌は天照大神が恵那山で御産された折に臍の緒を切ったもので、三森神社の神祠に納めたものである。」

岩村府誌 (1751年/寛延4年) も吉蘇誌略と同じ江戸時代中期の地誌だが、こちらの方が若干早い。

屏風岩

ひがしみの昔話によれば阿木のどこかに産後に休んだといわれる屏風岩があるそうだが場所は不明[要調査]。現在は石碑が建てられているという。

夫婦岩

女夫岩とも書く中津川の陰陽石。伊邪那岐、伊邪那美が天照大神を云々という話があるという。

胞衣伝説にまつわる文献

美濃明細記

胞衣伝説について言及している最も古い文献は江戸時代中期に編纂された美濃明細記 (1738年/元文3年) 第三巻 神社 の血洗社である。血洗池が胞衣を洗った池であること、またそれが恵那の名の由来である事が記されてる (詳細は血洗神社参照)。

恵奈郡阿木山麓大野平
一 血洗社 上古神ノ胞洗之池云々 恵奈之名起于此歟

ホツマツタヱ

血洗池の由緒書きではホツマツタヱについて言及している。ホツマツタヱは漢字以前に日本で使われていたと言われるホツマ文字を用いて五七調で書かれた古文書。一説によれば古事記や日本書紀より古いものであるとも言われているが、このページでは通説に従って江戸時代中期頃に書かれたものではないかという立場で見る事にする。

二十八(あや) の天照神が誕生する部分をこのサイトを参考に自分流で翻訳する。

御子がなかなか産まれない伊邪那岐命、伊邪那美命が葛城山にお祈りを捧げたところ、元旦の日の出と共にお生まれになった。名はワカヒト (男)。富士山の麓の宮で産まれた。へその緒の胞衣を峰に納めれば子の守護となり、禍があっても納めた場所を変えて防げば*1和らぎ長生きできると言われている。これにならい、大山祇が見立てた北の峰に夜道*2を行ってその胞衣を納めた。信濃の国の恵奈ヶ岳である。

恵那山に胞衣を納めた事がそのままずばりと書かれている。葛城山は奈良県の犬鳴山。またリンク先のサイトによると大山祇は富士山付近の豪族の王との事。恵那神社の摂社にも葛城社と富士社がある。

北に向かって恵那山に到着したという事は三河地方の豪族だったのだろうか? それとももっと先の三河湾や遠州灘から来たのだろうか? はたまたもっと近くの阿木だったのだろうか?

  • 1 胞衣にまつわる民家信仰では、子供の体調不良が続く場合には場所を変えて埋め直しも行われている。このため

「ワサハイアルモ シナカヱテ」は埋め直しを意図していると解釈した。

  • 2 胞衣納めには日中や月夜を避けるとか満潮時に埋めるといったように、地方によって場所や方角や時間に決まりが

あった事からヨメチは夜道とした。夜の間に恵那山まで往復できると言ったら阿木くらいしかないため自分解釈なのが 惜しいところ。

岩村府誌

巖邑府誌飯妻には以下のように書かれている。

村内の鬱蒼とした森の中に大神の神社がある。言い伝えによれば大昔に日神が恵那岳に降り立ち、胞衣を納めたことから胞山という名が付いたと云われている (胞衣が恵那となった)。またお産の穢れを清めた血洗池が竜泉山にある。またへその緒を切った鎌が三森神社に納められている。つまり大神の神社はこの遺跡である。 この大神の神社は占いをして伊勢の度会(わたらい)郡に 遷ったという。この事から伊勢神宮の御用材には恵那岳の木材を献上して今に至るとの事である。さすがに ここまでは信用できないが、国史では垂仁天皇二十五年に 倭姫命(やまとひめのみこと)が大神鎮座の 地を求めて近江 (滋賀県) の東から美濃を廻って伊勢に至ったという。つまり、かつて倭姫命が占いをして 現在の地に決めるまでの行宮 (仮宮) と言われるようなことがあったのかもしれない。そして里人がたくさんの 妄説を付けたと。 8 月 16 日に花火を上げてこの神を祭る。おそらく戦国から続いている風習だろう。

倭姫命が天照大神を お祀りする地を探している時にこの地を仮宮とし、占いをして現在の伊勢神宮に遷座したという新説である。


伊勢神宮が現在の場所に決まるまで各地を移動した事は日本書紀に書かれており、その地は 元伊勢と呼ばれている。 そして「倭姫命世紀」によれば岡山から岐阜にかけて 26 ヶ所にも及ぶということである (鎌倉時代に書かれた書なので信用には耐えないがそれだけ各地を廻ったという意味で)。


美濃の平野に立ったならその最高峰である恵那山を視察するのも不思議ではないか?


この伝説

  • 胞衣の血を洗い清めた池は血洗池と呼ばれるようになった。その池の傍らには休んだ腰掛け岩が残り、産後にホッとした事からこの地を安気の里 (阿木) と呼ぶようになった。
  • 岩村の三森神社にへその緒を切ったと云われる鎌が保存されている。
  • 湯船沢に産湯に使われた云われる池 (淵?) がある。
  • 夫婦岩

参照

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