子安寺

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'''出生山'''{{ruby|'''子安寺'''|こやすじ}}は通称<strong>おこやっさん</strong>と呼ばれる飯沼・宮ノ根のお堂。天台宗に属し[[w:如意輪観音|如意輪観音]] (子安観音) を本尊としている。山号と宗派を持っているが寺院というより観音堂である。[[恵那三十三観音霊場]]の客番札所である。
  
 
毎年4月18日の大祭には飯沼のみならず周辺地域の信者たちを集めて餅投げを行い舞台を組んで踊りなどを奉納している。また毎月18日には[[禅林寺]]のおっさん {{note|(和尚さん)}} がお参りしている。
 
毎年4月18日の大祭には飯沼のみならず周辺地域の信者たちを集めて餅投げを行い舞台を組んで踊りなどを奉納している。また毎月18日には[[禅林寺]]のおっさん {{note|(和尚さん)}} がお参りしている。
 
  
 
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File:iinuma koyasukannon04.jpg|2009/06 雨戸もある昭和の古い造り。
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File:iinuma koyasukannon05.jpg|2009/06 子安庫裏 杉渢庵。
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File:iinuma koyasudo02.jpg|2009/06 大杉。
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File:子安寺01.jpg|09/02/21 子安堂。
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遠山氏婦人の湯沐邑であったことが飯妻 (飯沼) の名と子安講の由来であることが書かれている。石塚とは飯沼に点在する古墳のいずれかと思われるがどれを指しているのかは不明。元々子安様が祀られていたのは現在の宮ノ根より東ということであるが具体的な場所は書かれていない。禅林寺が建つ前の場所か、それとももっと先の血洗池のほとりだろうか。
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遠山氏婦人の湯沐邑であったことが飯妻 (飯沼) の名と子安講の由来であると書かれている。石塚とは飯沼に点在する古墳のいずれかと思われるがどれを指しているのかは不明。元々子安様が祀られていたのは現在の宮ノ根より東ということであるが具体的な場所は書かれていない。[[禅林寺]]が建つ前の場所か、それとももっと先の[[血洗池]]のほとりだろうか。
  
 
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== 参照 ==
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== 関連項目 ==
 
* [[宮ノ根]]
 
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* [[神明神社]]
 
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* [[禅林寺]]
 
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* [[四十八夜供養塔]]
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[[Category:四月|こやすし]]

2009年8月13日 (木) 19:20時点における最新版

神社仏閣
出生山子安寺
出生山子安寺
所在地岐阜県中津川市飯沼字宮ノ根1363
位置N35:24:54.37, E137:27:52.65[MAP] (標高約500m)
宗派天台宗
本尊如意輪観音
例祭毎年4月18日

出生山子安寺(こやすじ)は通称おこやっさんと呼ばれる飯沼・宮ノ根のお堂。天台宗に属し如意輪観音 (子安観音) を本尊としている。山号と宗派を持っているが寺院というより観音堂である。恵那三十三観音霊場の客番札所である。

毎年4月18日の大祭には飯沼のみならず周辺地域の信者たちを集めて餅投げを行い舞台を組んで踊りなどを奉納している。また毎月18日には禅林寺のおっさん (和尚さん) がお参りしている。

目次

[編集] 沿革

ファイル:Iinuma koyasukannon (now-old).jpg
子安観音堂 (現在/大正)
  • 1479年 (文明11年/室町) 岩村の殿様が寄附と伝えられるが家譜が途切れており遠山氏の何侯か不明。
  • 1758年 (宝暦8年/江戸中期) 恵那山十三観音を定め十一番とする(飯沼旧記)。
  • 1777年 (安永6年/江戸中期) 開帳 (宮地文書)。
  • 1782年 (天明2年/江戸中期) 岩村城の若君、姫君他50名参拝 (松平乗保の代)。
  • 1838年 (天保9年/江戸後期) 開帳。
  • 1841年 (天保12年/江戸後期) 内殿修理。入仏式。
  • 本尊が盗まれかけたことがあって、庄屋の宮地が預かっていた。江戸の末期か明治に入った頃に茅葺のお堂を建ててそこに移した (伊藤さ)。


[編集] 風景

[編集] 文献散策

[編集] 巖邑府誌

巖邑府誌[1]飯妻では飯沼での子安講の発祥について書かれている。

遠山氏夫人の湯沐邑(とうもくゆう)であったためこの名が付いたと伝えられる。字は妻に与えた米の取れる土地という事から当てている。土壌や貢賦はおおむね安岐と同程度である。

一説によればその昔、遠山氏夫人が難産に苦しめられたが医祷によってつつがなく分娩を終えたという事があり、湯沐邑もその祭資を提供した御利益で今でも村人は難産に苦しめられないという。このお堂は昔は村の東にあったが後の人が今の場所に移すと云う。また数囲にもなるような古代の石塚が存在するが誰の塚なのかは分かっていない (祖一の墓かもしれない)。

遠山氏婦人の湯沐邑であったことが飯妻 (飯沼) の名と子安講の由来であると書かれている。石塚とは飯沼に点在する古墳のいずれかと思われるがどれを指しているのかは不明。元々子安様が祀られていたのは現在の宮ノ根より東ということであるが具体的な場所は書かれていない。禅林寺が建つ前の場所か、それとももっと先の血洗池のほとりだろうか。

[編集] 角川日本地名大辞典

角川日本地名大辞典[2]によれば 1785年 (天明5年/江戸中期) に大黒天・恵毘須天が開眼、1787年 (天明7年/江戸中期) に七福神が開眼し豊年祭と称し村中を練り歩いたとある。

  1. ^ 巖邑府誌, 首藤元震, 1751年(寛永4年) (岩村町教育委員会, 昭和53年, 大衆書房)
  2. ^ 角川日本地名大辞典 21 岐阜県, 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040012100

[編集] 関連項目

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