実利行者の塚

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実利行者 ({{ruby|林実利|はやしじつかが}}) は {{年号|1843}} に坂下の高部に生まれ、御嶽行者であった父親について御嶽で修行をつんだ。25歳の時に妻と子供二人を残して奈良大峰山、大台ヶ原、釈迦ヶ岳で修行を行い、役小角の弟子となり{{ruby|[[w:有栖川宮|有栖川宮]]殿下|ありすがわのみやでんか}}から大峰山二代行者実利師の号を賜った事で修験者として全国に名を馳せた。
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<strong>実利行者</strong> ({{ruby|林実利|はやしじつかが}}, 俗名 林喜代八) は {{年号|1843}} に坂下の高部に生まれ、御嶽行者であった父親について御嶽で修行をつんだ。25歳の時に妻と子供二人を残して奈良大峰山、大台ヶ原、釈迦ヶ岳で修行を行い、役小角の弟子となり{{ruby|[[w:有栖川宮|有栖川宮]]殿下|ありすがわのみやでんか}}から大峰山二代行者実利師の号を賜った事で修験者として全国に名を馳せた。
  
 
{{年号|1872}} に明治政府から修験禁止令が出された後も政府の追撃を逃れて活動を続行。{{年号|1884}}、無様は死に方はしたくないという決意の元、即身仏となるべく熊野の那智の滝から飛び降りた。入水後の姿も座禅を組んだままだったと言われている。入水後のしばらくは那智の滝より実利行者の墓に参る人が押しかけたという。
 
{{年号|1872}} に明治政府から修験禁止令が出された後も政府の追撃を逃れて活動を続行。{{年号|1884}}、無様は死に方はしたくないという決意の元、即身仏となるべく熊野の那智の滝から飛び降りた。入水後の姿も座禅を組んだままだったと言われている。入水後のしばらくは那智の滝より実利行者の墓に参る人が押しかけたという。

2009年7月8日 (水) 18:24時点における版

実利行者(じつかがぎょうじゃ)の塚大野八幡神社裏手 100m ほどの森の中[MAP]北側の倶楽部へ向かう道の脇を開いて祀られている塚。横には役小角 (役行者) の石像が建てられている。

人物

実利行者 (林実利(はやしじつかが), 俗名 林喜代八) は 1843年 (天保14年/江戸後期) に坂下の高部に生まれ、御嶽行者であった父親について御嶽で修行をつんだ。25歳の時に妻と子供二人を残して奈良大峰山、大台ヶ原、釈迦ヶ岳で修行を行い、役小角の弟子となり有栖川宮殿下(ありすがわのみやでんか)から大峰山二代行者実利師の号を賜った事で修験者として全国に名を馳せた。

1872年 (明治5年) に明治政府から修験禁止令が出された後も政府の追撃を逃れて活動を続行。1884年 (明治17年)、無様は死に方はしたくないという決意の元、即身仏となるべく熊野の那智の滝から飛び降りた。入水後の姿も座禅を組んだままだったと言われている。入水後のしばらくは那智の滝より実利行者の墓に参る人が押しかけたという。

政府の目を恐れてか実利行者の塚はあまり存在せず、那智の滝と出生地の坂下、恵那山落合ルートを開いたと伝わる落合、そして大野のここくらいしかないという。森の中にひっそり祀られているのも役人の目から隠すためだったのかもしれない。

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