宮ノ根

提供:安岐郷誌
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(子安寺)
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== 石鳥居石燈籠 ==
 
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鳥居後ろの石段右に立っている石碑。現在の石鳥居と石燈籠の寄付者一覧であろう。{{年号|1924}} 12月に建てられている。
鳥居後ろの石段の右に立っている石碑。現在の石鳥居と石燈籠の寄付者一覧であろう。{{年号|1924}} 12月に建てられている。
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2009年6月3日 (水) 01:17時点における版

宮ノ根(みやのね)は飯沼の中心部。

目次

神明神社

神社仏閣
神明神社
神明神社
所在地岐阜県中津川市飯沼字宮ノ根1363
位置N35:23:10.65, E137:27:42.37[MAP] (標高500m)
祭神天照大神(アマテラスオオミカミ)

神明神社(しんめいじんじゃ)は飯沼宮ノ根にある旧飯沼村の村社。飯沼神社または子安神社と呼ばれることもある。隣接している子安寺とは明治時代の神仏分離で別々になったと思われる。

毎年4月18日はおこやっさんの大祭。もち投げを行い、舞台を組んで踊りや奉納している。

毎月18日に禅林寺のおっさんが祀っている。

角川日本地名大辞典[../../index.xhtml#角川日本地名大辞典*]によれば 1656年 (明暦2年/江戸初期) の再興で白山・熊野権現を合祀し、祭礼には花火を奉納、1813年 (文化10年/江戸後期) から繰り人形、 1822年 (文政5年/江戸後期) から笹踊り、1827年 (文政10年/江戸後期) から再び花火を奉納とある。

子安寺

出生山子安寺(こやすじ)は通称おこやっさんと呼ばれる飯沼・宮ノ根のお堂。天台宗に属し如意輪観音 (子安観音) を本尊とする。毎年4月18日に子安講の大祭が行われ、飯沼のみならず周辺の信者たちを集めている。

角川日本地名大辞典[1]によれば 1785年 (天明5年/江戸中期) に大黒天・恵毘須天が開眼、1787年 (天明7年/江戸中期) に七福神が開眼し豊年祭と称し村中を練り歩いたとある。現在の管理は禅林寺のおっさん (和尚さん) が行っている。毎月18日には禅林寺の和尚さんがお参りしている。

  1. ^ 角川日本地名大辞典 21 岐阜県, 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040012100

風景

宮ノ根の大杉

神明神社の鳥居の上には巨大な杉が二本立っている。

石鳥居石燈籠

鳥居後ろの石段右に立っている石碑。現在の石鳥居と石燈籠の寄付者一覧であろう。1924年 (大正13年) 12月に建てられている。

石鳥居石燈籠

北海道?住寄附???
渡部清三郎 同新平 伊藤金三郎 同七治 同滎一 同準一 同宮吉 小野きね 佐藤?? 同宮吉 同金治 鈴木哉蔵 國見勝蔵 宮地?茂 西尾??? 安田??

大正十三年十一月建之
神明神社 石鳥居石碑01.jpg
資料撮影 09/02/21 [1]

飯沼の整田碑

鳥居の左側に飯沼の整田碑が建てられている。1978年から1985年 (昭和53-60年) に行われた整田事業のものである。7億8950万円のうち 30% が地元負担と記されているが 2 億円以上も飯沼住民の負担となったのだろうか。

整田碑 衆議院議員 古屋享

先祖代々受け継いできた当地区の耕地は過去飯沼川、後田川の大氾濫により度々の災害を受け 必死に復旧に努めながら地域に分散する狭小な農地を耕作しその不便を極め今日に至った。 昭和49年に飯沼地区を縦貫する阿木農免道路の建設を機に此の地区にも圃場整備を含む 総合的な土地改良事業を行い農地の集団化を図るよう地域住民より強い要望があり 事業実施の運びとなった。このようにして時代の要請により近代的農業基盤を確立するため 国・県・市の援助を受け地域住民の総意が集結し一致団結あらゆる難事を克服こゝに 飯沼圃場整備事業が完成した。豊かなるふるさと作りの基盤となったこの大事業を記念し ゆかりの地神明、子安の森境内に竣工記念碑を建立し併せて事業関係者の献身的努力を 後世に伝えるものである。

昭和61年11月吉日
中津川市飯沼土地改良組合

事業概要 1. 事業名 団体営圃場整備事業 1. 事業主体 中津川市 1. 事業年度 昭和53年度着工 昭和60年度完成 1. 事業量 区画整理 従前面積 87.2ha 換地面積 77.0ha 道路工 13,338m 排水路工 12,512m 用水路工 18,849m 暗渠排水 18.9ha 1. 事業費 7億8千9百5拾萬圓 1. 負担割合 国補助金 45% 県補助金 15% 市補助金 10% 地元負担金 30% 地元負担金の内道路・水道負担金分を飯沼区より援助

資料撮影 09/02/21 [1][2][3]

可知貫一翁顕彰碑(けんしょうひ)

可知貫一(かちかんいち) (1885-1956年) は旧東京帝国大学 (東京大学) 農科大学農学科を卒業し巨椋池(おぐらいけ)八郎潟(はちろうがた)などの国家的干拓事業を行った農業水利学博士。阿木の周辺でも灌漑事業として 1924年 (大正13年) に保古の湖を作っている。

鞍坪の橋[MAP]の近くの家と聞く。

この顕彰碑は子安堂の詰め所の左に建てられている。

可知貫一翁顕彰碑

可知寛一翁は明治十八年一月旧阿木村飯沼父与一母あさの長男に生れ岐中六高を経て東大に学ひ農業土木を専攻して 農學博士号を授与さる。又農商務省技師として巨椋池八郎潟等の干拓を主宰幾多国家的事業指導其他近郷の貯水開拓にも 尽瘁さる。又東大京大に教鞭をとし後進を育成され汎大平洋會議の日本代表として出席されるなど多大の業績を遺され 功により正三位勲三等に叙せられた。

昭和三十一年四月九日自宅に於て七十一才の天寿を全うされた先生は資性謹厳私心なく接する人をして思はず襟を 正さしむる崇高な人格者であった。郷党は先生の遺徳を偲び茲に碑を立て後世に傳へるのである。

昭和四十五年五月吉日 発起人 中津川市阿木地区老人倶楽部 連合會代表 吉村 儀? 西尾 源?

宮ノ根 可知貫一翁顕彰碑01.jpg
資料撮影 09/02/21 [1]

蠶靈(こだま)

宮ノ根 蠶靈01.jpg

顕彰碑の左に蠶靈と掘られた石碑が建てられている。蚕霊とは蚕の神様の事で蚕神、蚕影、蚕玉、絹笠(衣笠) などと同じく豊蚕祈願の対象である。

中国から養蚕(ようさん)が伝来したのは弥生時代だが、本格的に行われるようになったのは幕末近くの江戸時代の後期からである。日本の生糸は非常に評判が高く島崎藤村の「夜明け前」でも外国の商船に高値で売れている様子が書かれている。ただ養蚕も雹で桑の葉が全滅したり病気が流行ったりと農作と同様に運任せな面もあることから、養蚕の隆盛と共に全国で蚕神が祀られている。

江戸時代の後期、岩村藩は財政難打開のために地場産業の発展をめざして養蚕を推奨したことから、阿木や飯沼の農家でも養蚕を行う 家が増えていった。農家にとっても農業の傍らに行う貴重な現金収入源となる。豊蚕の祈願と蚕の供養のためここに蚕霊を祀ったので あろう。しかし大正に入って絹価格の暴落を転機に養蚕農家も減っていった。現在ではこの蚕霊碑も養蚕業の歴史として残るだけである。

文献散策

巖邑府誌

遠山氏夫人の湯沐邑(とうもくゆう)であったためこの名が付いたと伝えられる。字は妻に与えた米の取れる土地という事から当てている。土壌や貢賦はおおむね安岐と同程度である。

一説によればその昔、遠山氏夫人が難産に苦しめられたが医祷によってつつがなく分娩を終えたという事があり、湯沐邑もその祭資を提供した御利益で今でも村人は難産に苦しめられないという。このお堂は昔は村の東にあったが後の人が今の場所に移すと云う。また数囲にもなるような古代の石塚が存在するが誰の塚なのかは分かっていない (祖一の墓かもしれない)。

遠山氏婦人の湯沐邑であったことが飯妻 (飯沼) の名と子安講の由来であることが書かれている。石塚とは飯沼に点在する古墳のいずれかと思われるがどれを指しているのかは不明。元々子安様が祀られていたのは現在の宮ノ根より東ということであるが具体的な場所は書かれていない。禅林寺が建つ前の場所か、それとももっと先の血洗池のほとりだろうか。

村内の鬱蒼とした森の中に大神廟がある。言い伝えによれば大昔に日の神が恵那岳に降り立ち、胞衣を納めたことから胞山という名が付いたと云われている (国が胞衣(えな)を恵那とした)。お産の穢れを清めた事からその名の着いた血洗池が竜泉山にある。またへその緒を切った鎌が三森神社に納められている。大神廟はこれらの遺跡である。

この大神廟は占いをして伊勢の度会(わたらい)郡に遷ったという。この事から伊勢廟の御用材には恵那岳の木材を献上して今に至るとの事である。もちろん根拠が無く信ずるに足らないが、国史では垂仁天皇 25 年 (紀元前5年)倭姫命(やまとひめのみこと)が大神鎮座の地を求めて近江 (滋賀県) の東から美濃を廻って伊勢に至ったと云われている。つまり、かつて倭姫命が占いをして現在の地に決めるまでの行宮 (仮宮) と言われるようなことがあったのかもしれない。そうして里人がたくさんの妄説を付けたのである。

8 月 16 日に花火を上げてこの神を祭る。おそらく戦国から続いている風習だろう。

大神廟とは天照大神の神社、つまり神明神社の事である。 [../../legend/amaterasu/index.xhtml天照大神の胞衣伝説]については別ページに記述した通り。 現在でも打ち上げ花火ほどではないが、夏になると小さな花火を上げているとのことである。

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