岩村城の戦い

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岩村城の戦いは 1572年 (元亀3年/安土桃山) 頃に東濃地方で繰り広げられた岩村城をめぐる遠山と武田の戦い。中津川から上矢作にかけて数多くの逸話や地名を産むこととなった。

このページでは話の流れのみを大まかに紹介する。巖邑府誌も参照。

目次

岩村城の戦い

戦国時代末期、恵那地方は西進を図る甲斐武田信玄の攻略目標となった。尾張織田信長は武田勢を食い止める拠点として岩村城を重視し、五男の御坊丸 (後の織田勝長) を養子に出すなどして遠山氏との結束を強めていた。

1570年 (元亀元年/安土桃山)、岩村城は武田の重臣秋山信友による攻撃を受けたが、城主遠山景任は織田方の援護を受けて守り抜いた。

女城主と岩村城陥落

1571年 (元亀2年/安土桃山)、景任 (修理亮) が没すると当時 6 歳であった御坊丸が家督を継ぎ、事実上の政務は景任の妻で信長の叔母にあたるおつやの方 (修理夫人) が執り行う事となった。これが有名な女城主である。

1572年 (元亀3年/安土桃山) 10月3日、秋山信友は再び武田勢を率いて岩村城府に侵攻した。この時、秋山は未亡人となったおつやの方との婚姻を条件に岩村城の開城を迫るという策を投じた。武田の軍勢 5,000人に対して岩村城兵 1,300人と圧倒的に秋山有利ではあったが、前回の戦で山城の岩村城を落とすのは容易でないと踏んだのであろう。

一方で遠山方にしても別の戦で織田に援軍を出せる余裕がないと分かっており、無闇な籠城が全滅を招くのは明らかであった。11月14日、遠山方は秋山の提案を飲んで開城。岩村城は秋山が城主となり、御坊丸は人質として甲斐に送られる事となった。これに驚いた信長は取り急ぎ兵を集めて岩村城の奪還を図ったが上村 (上矢作) で秋山の返り討ちにあった。

勝頼の進軍

ファイル:Takeda Katsuyori.jpg
高野山持明院蔵所蔵 武田勝頼

1573年 (天正元年/安土桃山) 4月12日、武田信玄が没するとその四男武田勝頼が家督を継いだ。勝頼は信玄死去で落ちていた家臣の士気を上げ、信長への圧力をかけるため、1574年 (天正2年/安土桃山) 1月27日に6,000の軍勢を率いて家臣秋山信友のいる岩村城に向かった。

岩村城府に入った勝頼は阿木城を含む苗木や千旦林などの諸城を落として明知城を包囲した。勝頼の侵攻を聞きつけた信長は織田信忠に命じて 3 万の援軍を送るが、城内の寝返りにより援軍を待たずして明知城は開城。勝頼の軍勢はその勢いに乗って飯羽間城を落とした。

勝頼の軍勢は進軍途中の神社仏閣や屋敷などを手当たり次第に破壊した。阿木でも龍泉寺長楽寺熊野神社などが焼き討ちに遭ったと伝わっている。

1575年 (天正3年/安土桃山)長篠の戦いで武田が敗北すると形成は逆転。信長はその機に乗じて信忠に岩村城を攻めさせたが、秋山はかろうじてこれを防いだ。しかし 3 万の兵に取り囲まれ既に孤立無援となっていた秋山は城兵の助命を条件に降服を申し出、信長はこれを受けて遂に岩村城は開城した。

しかし秋山夫妻と大島、座光寺、下条の 5 人に対し長良川で逆さ磔という戦陣の常識を逸脱した処刑が行われ、また武装解除して帰路に立った城兵たちも木の実峠に差し掛かったところで織田勢の待ち伏せに遭い全滅した。信長は秋山の降伏条件を反故にしたのである。

この岩村城の戦により遠山惣領家であった岩村遠山氏は滅亡したが、苗木遠山氏と明知遠山氏は存続している。なお、明知遠山氏からは後に「遠山の金さん」となる遠山左衛門尉景元が出ている。

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