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巖邑府誌/上村 - 安岐郷誌

巖邑府誌/上村

提供:安岐郷誌
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五村ならびに樹峯 (木実) を合わせる。

上村合五邑並樹峯

目次

上村

上村は城府の東10里 (5.5km) 余りに位置する。川が巡り南で矢矧川 (矢作川) と合流している。その最上流の村である (川の一つは東の平谷より出でて、一つは北の破摩耶嶽 (現在の大船山か?) から出て村中で合流する)。東南は三河と信州に接している。境界は10里余りにおよび、上村 (川の北岸にあり民家が並んでいることから町とも言う)、飯田洞 (上村の北にあり飯田に繋がる古道である)、横道 (上村の東)、志摩 (島) (川の南岸)、小篠原 (小笹原) (志摩の上流、それぞれに里社あり) の5村に別れている。

民戸は上村70余り、飯田洞70余り、横道80余り、小笹原30余り、志摩30、樹峯30で合わせて330余りが各所に散在している。

この土は白壌でよく肥えた田が多く賦は上と中の間、山中から多くの棟梁の木材を出す。加えて桑、麻は豊かで遅摘み茶は香りが良い。蘆沢(あっさわ) (志摩の地) で取れる煙草は上物で横道で取れるものはそれに次ぐ。山や岡で蕨を獲って塩に漬け貢ぎ物としている。川水の出るところであるため(あめのうお)(ます)鰷魚(はえ)などは肥えて新鮮で、宴の珍味を設けることができる。またここの民の生産は乏しくなく、村人の俗習は素朴である。

こことは別に樹峯(きのみ)の部落がある。城から見て東に僅か5〜6里 (約3km) の険しい坂の下に集落を作っている。その土地は痩せており余裕のある生産はない。ここの渓水には小鯢魚(さんしょううお)がいる。土地の人は生きたままこれを飲む。痰咳や無事疳を治すという。俗に安武加于(あんこう) (孩児魚とは異なる) とも呼ぶ。

樹峯の北洞から大円寺に出る事が出来る。古道であろう。禅師卍菴なる者がかつてここに隠居しておりこのため卍菴洞と云う。また樹峯の東に石洞の集落がある。石洞の東に戸井澤という地名がある。川の水 (木の実川) は道路に沿って流れここで川 (上村川) と合流する。

飯田洞口に小祠があり赤龍権現を祭っている。竹藪からは大きな竹が取れる。宇連、間野は全て小部落である。間野を経て5里 (3km弱) ほどで稗田に至る。

小篠原の中にある木地山新田は小篠原の部落である。亀石坂は村の境で三河州大桑村に接しており標幟がある。

煙草は芦沢を以て上品とし横道の大門、漆原の万場はこれに次ぐ。その質はよく乾燥し湿気に勝るため海浜漁者が最も好んでいる。

樹峯と城山の間の沢に沿って山道30里 (約30km) ほどで大平新田に至る。先侯の時[1]に市人木村弥五八が開墾し民戸6〜7がある。その地に奥田、口田、中田、御台所などの地名がある。また上﨟小屋という所があり、伝えによれば昔に貴族が乱を避けてここに居たという。また大平の南6里 (約3km; 東の間違い?) ばかりに蚯蚓(みみずが)沢という土地がある。稗畑と呼ぶ者も居る。伝えによれば稗畑某という者がここに居たという。蚯蚓沢もまた木村氏が開墾し民戸僅か2戸がある。土の性は大平に勝っているが土地が狭く小川を隔てて信州の境である。

飯田洞川の上流の平谷・浪合の山は峩々と天にそびえ風光愛すべきなり。水は至って澄んでおり岩魚という魚が住んでいる。(あめ)に似ているが鼻が丸い。大平川にだけこの魚が居る。

  1. ^ 先候とは松平乗保、つまり1826-1842年 (文政9年-天保13年/江戸後期)。ただしこの森永貞注が天保14年、家督相続が天保13年と近接しているため松平乗美の 1780-1826年 (天明元年-文政9年) を指しているかもしれない。

○上村在城府東十餘里河水縈紆南瀉入
于矢矧河其沿河最上流之村也其水一東出於平谷
一北出於破摩耶獄相合邑中
東南接于信参二州疆塲跨
于十餘里分為五邑曰上村在河水北岸民家相比故此謂
町 
曰飯田洞在上村北即出飯田之故道 曰横道在上村東
志摩在河水南岸 曰小篠原在志摩上流各有里社 其土白
壌多膏腴之多賦以上中之間山中多出棟
梁之材加之以桑麻之𩜙茶茗之芳烟草出
於蘆澤志摩地 為上出於横道者次之山阜采
蕨漬鹽為貢如河水所出則鯇鱒鰷魚等肥
鮮可設錡宴之珍也民又不乏生産而俗尚
敦朴也別有樹峯落距城東僅五六里邑于
峻坂下其土礟瘠殊無餘産其溪水生小鯢
魚土人生呑之曰治痰喘及無事疳俗目安
武加于孩児魚与此異矣 樹峯北洞可出於大圓寺
葢故道也禅師卍菴者甞隠居於此因名卍
菴洞者又樹峯東有石洞落石洞東有地名
戸井澤溪水水徇道路於此入河

※1 上村民戸七十餘飯田洞七十餘横道八十餘小篠原三十餘志摩三十樹峯三十合三百三十餘戸散在各所 飯田洞口有小祠祭赤龍権現篁中生巨竹 宇連間野皆小落也経野間到薭畑五里程 小篠原中木地山新田其落也石亀阪為領邑界接三州大桑邑有標幟 烟草以芦澤為上品横道之大門漆原之万塲次之其性燥能勝濕海濱漁者最好之 樹峯与城山之間沿溪至大平新田山道三十里許 先侯時市人木村弥五八始墾之有民戸六七此地有奥田口田中田御䑓所等之名又有上﨟小屋者傳云古有貴族避乱来居之又大平南六里計有地曰蚯蚓沢又有名薭畑者傳云薭畑某居之蚯蚓澤亦木村氏墾之民戸僅二蚩土性勝大平其地狹小隔小川為信州界飯田洞河之上流也平谷浪合之山峩々聳天風光可愛水至清有魚名岩肴似鯇鼻圓大平川亦唯有此魚而已

向戸山

向戸山は戸井澤 (井沢?) の川の東にある。言い伝えによればここで遠山民部が秋山晴近を防いだという。土塁や堀の跡が今でも残っている (向井戸砦[MAP])

甲陽史を調べてみると、秋山晴近が東濃を攻略した時に遠山氏族が集結して上村で防いでいる。明知民部宗寂がその先駆けだったという。先鋒が鉾を交えている隙に晴近は一軍を率いて密かにその背後に回り、前後挟み撃ちにしてこれを破った。宗寂父子や角野角八 (明知の将で現在角野村に子孫が居る)、苗木城の将吉村源蔵 (千田林村に砦跡あり)、甲首三百餘級を斬ったのはこれである。

背後の高山 (地界は漆原に属す) に民部の墓[MAP]がある。近くの山の下に一杯泉[MAP]と呼ばれる泉水がある。言い伝えによれば、民部が重傷で意識も遠のいていた時に石突きで地を刺すとそこから泉水が湧いた。それを飲んだらよみがえったという。これに因んで名が付いたという[1]

また飯田洞に明照(あでら)砦跡[MAP]がある。明照兵が秋山を防いだところであろう[2]

  1. ^ 民部の墓は古松の下にある。以前にその木を伐ろうとした人がいたが、にわかに疫病にかかって死んだという。
  2. ^ 明照の傍らに兼定という地名がある。砦の将の名であろう。あるいは鉄匠の兼定がここで刀を作ったとも云われている。未だに何が本当かは分かっていない。

○向戸山在戸井澤溪水東傳言遠山民部
拒秋山晴近於此塁塹今猶存按甲陽誌曰
秋山晴近略東濃遠山氏族等相聚拒之於
上村明知民部宗寂為其魁先鋒已交鋒晴
近率一軍潜出其背前後夾撃大破之斬宗
寂父子及角野角八明知将即今角野邑有其裔 苗城将
吉村源藏千田林邑有其砦趾曁甲首三百級是也背
後髙山有民部墓為漆原疆界 塁石作墳傍山下
有泉水俗目一杯泉其言曰民部重創氣昏
自以鐏刺地泉水湧出飲之復蘇因名之云
民部墓在古松下前年有人伐其樹俄染疫疾而死
又飯田洞在明照砦趾葢明照兵拒秋山之
處也明照旁有地名兼定疑砦将名也或云鉄匠兼定作刀劔於此未審然否

大舩寺

大舩寺[MAP] (現在の大船神社) は破摩耶嶽西南の半嶺の中にある。嶽は北の境に高く聳えておりその西に鳥居の跡がある (飯田洞より登った場所で登山古道である)。南は達原沢に繋がっている (横道からこの山に登るのが今の道)。仏閣に観音を祭り門には金剛力士像がある。

伝えによれば天平宝字の頃 (757-765年/奈良)、東大寺の僧正だった良弁がこの地に来て山の上に庵を結び、宝亀元年 (770年/奈良) に奈良へ帰ったと云われている。天長年間 (824-834年/平安) (淳和天皇年号) に小野篁が東道鎮撫使となり道にここを通過した時に本堂及び宝塔を建て上村200戸を勅附した。延喜3年 (903年/平安) 醍醐寺聖宝が来て灌密法を修めた。これによって金榜額の大舩寺を勅賜したまい、遣わされた弟子の宥賢が仮置きで寺務を掌った。金剛力士を門の傍らに刻んでいたと云う。しかし度重なる兵災に遭ったが修理する人も居らず、また元亀・天正の乱で寺僧が散亡してしまいその正しい所を伝える者が居なくなってしまった[1]

僧史を調べてみると良弁の姓は百済で近江志賀の人である。母が観音に祈って良弁を授かったという。閣中に観音を祭っているのはこの縁であろう。また聖武天皇が良弁を敬崇し天平5年 (733年/奈良) に金鐘寺を建て、宝字4年 (760年/奈良) (帝は天平宝字を廃す) に僧正となったという。宝亀4年 (773年/奈良) (光仁帝年号) 11月に没す。つまり天平宝字の間、良弁は位の貴顕を極めて東大寺に居り、この頃に深山を歩き回っていたという事はないだろう。もし良弁が壮年の頃に修行でここに来て住んだという話であれば考えられる。

また聖宝伝を調べてみると、聖宝は讃岐の人で修練を好み名山霊山を経歴したとされている。この事から考えるとあるいは聖宝が登山した事があったのかもしれない。また寛平2年 (890年/平安) (宇多帝年号)、聖宝は貞観寺の座首になったという。延喜の初めから月俸を大倉より受け、2年に僧正となり、9年に醍醐官寺を賜い、この年7月に普明寺で没している。齢78であった。つまり延喜中に聖宝は70歳を過ぎて位も貴顕である。登山修行といったようなものは理にかなっていない。伝えられるところの多くは後世の人の紕繆附会 (過ちをこじつけること) で全てを信じることはできない。

  1. ^ 今は本堂および仁王門のみが残っているだけである。あるいは昔は閣中に造宮があり棟梁牌に建久幾年の月日 梶原景時奉行とあったとも云う。先にこれを書いておき後日の参考に備えておく。

○大舩寺在破摩耶嶽西南半嶺中嶽者高
聳北疆者也其西有蕐表趾自飯田洞上之即古登山之道
南限于達原溪自横道上之即今道也 仏閣祭観音門
有金剛力士之像傳言天平寶字之頃東大
寺僧正良辨来居之始結廬於山上寶亀元
年錦京天長中淳和天皇年号小野篁為東道鎮撫
使道過之建本堂及寶塔勅附上村二百戸
延喜三年醍醐寺聖寶来修灌密法於此勅
賜金榜額大舩寺遣弟子宥賢權掌寺務剠
金剛力士於門傍云既而兵革相踵無人之
修理加之以元亀天正之乱而寺僧散亡
敢傳其審者也今唯存本堂及二王門耳或曰閣中𦾔有造営牌曰建久
幾年某月梶原景時奉行
按僧史曰良辨姓百濟近江志
賀人其母禱観音而生之葢閣中祭観音者
其縁也又曰聖武天皇敬崇良辨天平五年
建金鐘寺寶字四年廢帝天平宝字為僧正以寶亀
四年光仁帝年号 閏十一月而寂然則天平宝字
之間良辨位極貴顕而在東大寺不可復有
跋踄深山之事也若曰良辨壮年修法之時
甞来居於此則猶可又按聖寶傳曰聖寶讃
岐人甞好修煉經歴名山靈岳以此観之則
聖寶登山之事亦或有之又曰寛平二年宇多
帝年號 
聖寶為貞観寺座首自延喜初醍醐帝年号 
受月俸於大倉二年為僧正九年賜醍醐官
寺此歳七月寂于普明寺年七十八然則延
喜中聖寶齢過七旬而位貴顕如登山修法
之事則殊無其理所傳多是後人紕繆附會
不可盡信也

また神井の傍らに杉の木が数株あり最も大きいものは径10囲を越えている。名付けて良弁杉という。

僧史を調べてみると良弁が生まれて二歳の頃、母の采桑が木陰に置いていたところを大鷲が飛来してこの子を獲り去り、南京 (奈良) の春日の廟の梢に掛かったという (この杉の樹を良弁杉という)。たまたま僧生の義淵が神に賽している時にこれを見掛け、不思議に思いこの子を収めて育てた。5歳にして始めて学に就くと。この事から考えると、良弁が登山して庵を結ぶ時に自ら杉を植え奉じたのであろうか。

また杉の一つは弁慶杉と名付けられている。良弁の弟子の弁慶なるものが代わってこれを植えたのであろう (弟子が師の諱一文字を名とするのはこの国の古くからの例である)。

俗説によれば文治の初めに源義経が罪を受けて陸奥に流された時、ここを通って山に登り、弁慶もこれに従っておりこの樹を植えたという。故にこの名が付いたと。野史記を調べてみると義経の走路は明らかである (義経は大津を出航し敦賀に至り、陸行で三越と加賀を経て直江浜より航して出羽に赴くという)。未だかつて走路を東山道にとったとは聞いたことがない。

また言い伝えによれば、昔寺中に弁慶の貸行糧の札があったが、あるときある祝徒の誰かが寺僧から奪い去ったという。この祝徒が奪った者はまさに良弁、聖宝らの筆跡であろう。僅かに寺中に残っていたものであろうが、現在では寺中にこれを失って証拠となるようなものもない。惜しいことである[1]

  1. ^ かつて越後の人から聞いた話では弁慶の貸行糧の札があって今も残っているとう。里人がこれらの事を伝え訛ってこの札が当山にありとしたのだろか。

又神井旁有杉樹數株其最大
者徑過十圍名良辨杉又按僧史曰良辨甫
二歳其母采桑置之樹陰怱有大鷲飛下鷙
之而去掛南京春日廟之樹梢即杉樹又此謂良辨杉 
會僧正義淵賽神見之異而収育之五歳始
就学以此観之則葢良辨登山結廬之時乎
栽杉以報其本也歟又其一名辨慶杉疑良
辨弟子辨慶者代栽之也弟子用師諱一字自名者本邦自古
為例
又曰文治初源義経得罪出奔于陸奥過
此而登山辨慶從焉因栽其樹故名焉考之
野史記義経走路詳矣曰義経艤舟於大津至敦賀陸行経三越
及加賀航于直江濱而適出羽
未甞聞走路取東山道也又
傳言寺中𦾔有辨慶貸行糧之券會一祝徒
誰寺僧而奪去盖祝徒所奪之物恐當為良
辨聖寶等之筆蹟僅存寺中者也方今失之
寺中無可徴之物惜哉當聞越後人曰直江有辨慶貸行糧之券
今猶存盖俚人傳訛此等之事以為其券在當山也

大舩寺

勝岳山大舩寺(だいせんじ)は横道にある。また天台宗で大船山寺の寺務を掌っている。後世に寺僧の居所をここに移したのであろう。村に仏供田(ぶっくでん)という地名がありその租税を寺中に納めている。村民もまた寺役に給する事を古くからの習わしとしている。承応3年 (1654年/江戸初期) に丹羽氏定候がこの税を改め半分を官倉に入れ、以後これを例としている。

また里人の伝えでは河尻鎮吉が寺僧を誘って郷の案内をさせ、間道から水晶山に出でて城内を俯瞰したと云う。その谷道は飯田洞の西にあるという。秋山晴近が囲まれて久しく、城内の食糧が尽きたため、密かに伊那へ人を遣わして食料を運ぶのにこの谷道を通った。寺僧がよくこの地理を知っていた事から鎮吉軍の郷の案内となったのである。

また谷道の途中に牛返(うしもどり)という地名がある。峻険で食料を運ぶことが出来なかったという。

○勝岳山大舩寺在横道密宗也傳掌山寺
之務盖後世寺僧徒居於此者也邑有仏供
田其租税納于寺中民又給寺役自古為例
承應三年侯氏定収其税半入官倉自是為
例俚人又傳言河尻鎮吉誘寺僧為郷導間
道出於晶山而下瞰城中其峽路在飯田洞
西也蓋秋山晴近受圍日久城内糧乏密遣
人於伊那運糧乃取此挾道寺僧善知其地
理故為鎮吉軍之郷導也挾中又有地名(ウシ)
(モドリ)言峻嶮而運糧不能通也

圓頂寺

方袍山 (現在は寶林山) 圓頂寺[MAP]は上村の山にある。曹洞宗である。明暦中 (1655-1657年/江戸初期) に鎮嶺和尚が開基しここに居た (これより燈脈が伝わっている)。盛巖寺に属している。

○方袍山圓頂寺在上村山曹洞宗明暦中
和尚鎮嶺始居之自此傳燈脉 為盛巖寺属末也

萬光寺

清水山萬光寺[MAP]は横道にある。圓頂寺に属し黒衣僧が居る。

○清水山萬光寺在横道属于圓頂寺黒衣
僧也


古文書の翻訳: このページは巖邑府誌を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

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