巖邑府誌/下村

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並びに小田子。

下村並小田子

目次

下村

下村漆原の東南5〜6里 (約3km) にある 民戸は100、小田子の人家50余り。川に沿って東に位置している (道路は川を渡って下村に入る)。そこの肥えた土の水田は井の字を成して (よく開墾されて) いる。貢賦は上等。民は素朴で生産は乏しくない。

○下村在漆原東南五六里沿河東道路渡河入下
村 
其土墳壤溝洫為井字貢賦為上等民質
朴不乏生産

※1 民戸一百小田子人家五十餘

玉泉寺

龍頭山 (龍洞山) 玉泉寺は川に沿った橋の上にある。曹洞宗である。元禄元年 (1688年/江戸初期) 龍波和尚が建立。盛巌寺の属末である。享保8年 (1723年/江戸中期) 火災で焼失、12年 (1727年/江戸中期) 再建。川辺の切り立って険しい岩山の上に弁財天を祭っている。また寺沢口という地名があるのは廃寺の跡であろう。12社 (里社) を祭っている。

○龍頭山玉泉寺在沿河橋上曹洞宗元禄
元年和尚龍波建之為盛嵓寺属末也享保
八年回録十二年更造之河渚巉巖上祭辨
財天又有地名寺澤口蓋廃寺趾也今有十
二神祠為里社

小御所村

小御所村は川に沿った西側の村である。下村の集落となる。その土地の山にそって山室城跡[MAP]がある。小御所とは城館を尊んで呼んだものであろう。どのような者が始城しここに居たのかは分かっていない。伝えによれば天正の初めに大嶋兵衛九郎なる者が串原氏に従いここを守っていたという。串原氏が滅んだ時に髪を切り名を改め遂寄を求めず人家で没した。村人は大嶋氏の子孫である。

美濃諸旧記によれば下村城主下村丹後守幸近という者がここに居たという。これが何時の事であるかは分からない。

○小御所邑于沿河西下村落也其地傍山 ※1
有山室城墟小御所蓋尊城館之辞未審何
人始居焉傳言天正初大嶋兵衛九郎者守
之隷于串原氏迨串原亡薙髪更名不于遂
寄死於人家邑人大嶋氏者其裔也

※1 美濃諸旧記曰下村城主下村丹後守幸近居之不知何時事

小田子

小田子の土地は下村、南を三河に接している。伏瀬川 (矢作川) はここで合流する[1][2]。川辺の集落を小伏瀬という[3]。川に沿って西側の集落を乙原という。洲となっているため田子の浦の意味をとってこの名が付けられている。

  1. ^ この川は埴谷(はねや)を源流とし大野瀬を過ぎてここに至る。(はよ)は最も肥大である。現在埴谷は根羽という。
  2. ^ 大野瀬は三州信楽郡である。また橋を過ぎると三州押山に至る。小伏瀬は現在久伏という。
  3. ^ 伏瀬川が過ぎることからこの名を持つ。伏瀬は現在武節という。

○小田子地接于下村南参河伏瀬水至此
入河水其水出自埴谷過大野瀬而至此鰷魚最肥大埴谷今作根羽水傍
之落曰小伏瀬因伏瀬水過之以名焉伏瀬今作武節 沿河西
落曰乙原皆自為洲渚故取田子浦命義而
名焉

※1 大野瀬三州信樂郡也又過橋到三州押山、小伏瀬今作久伏

白山祠

白山祠を里社としている。

○白山祠為里社


古文書の翻訳: このページは巖邑府誌を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

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