巖邑府誌/大圓寺

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(大円寺)
(大円寺跡)
 
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== 大円寺跡 ==
 
== 大円寺跡 ==
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[[File:Iwamura daienji01.jpg|thumb|大円寺跡]]
 
'''[[大円寺]]故跡'''は俗に大藪と呼ばれる小高い丘の竹林にある。石段、石垣は現在でもなお存在しているが古石塔は誰かにばらばらにされてしまっている。
 
'''[[大円寺]]故跡'''は俗に大藪と呼ばれる小高い丘の竹林にある。石段、石垣は現在でもなお存在しているが古石塔は誰かにばらばらにされてしまっている。
  

2010年9月8日 (水) 12:38時点における最新版

大圓寺

目次

[編集] 大円寺

城府の北の地域を大円寺と言う。戸数は六十余戸 (以降およその戸数は天保元年 (1831年/江戸後期) のもの)。昔の大円寺の跡であるためこの名となったのであろう。大円寺は富田部落に属していて官舎や市場が皆ここにあった (現在古市場と伝えられる地[MAP]がこれである)。この東の水晶山の下を廻って樹峯(きのみ)に出ることができる。これは昔の古道と思われる。後の世に城市が移されて一村となった。山中には尼寺跡[MAP]がある。

○城府北郊曰大圓寺蓋古大圓寺之趾也 ※1
故名焉乃冨田部落而官舎市廛皆在於此
今伝地名古市場是也 其東繞水晶山下可以出樹峯
盖古道也逮後世移城市遂為一邑山中有尼寺趾

※1 民戸六十餘凡書戸数者以天保初年為断以下傚之

[編集] 大円寺跡

大円寺故跡は俗に大藪と呼ばれる小高い丘の竹林にある。石段、石垣は現在でもなお存在しているが古石塔は誰かにばらばらにされてしまっている。

僧史を調べてみると、峰翁の號を持つ釈祖一という者が居り、出生や故郷は記されていないが最初は筑紫国 (現福岡県) の西を遊歴していたようである。紫野 (現京都市北区の大徳寺)宗峰国師の名声を聞きそこで学んでいる。その評判は遠近に及んだと伝う。美濃郡守某という者が尊敬を持って招き寄せて遠山に明覚山大圓寺という寺を建てたとある。高僧の綴った直伝の書を一巻持っていて世に広める。延文2年 (南朝正平11年) (1357年/室町) 3月に 84 歳で没し、勅命により正宗大暁禅師という戒名となる。年数を数えて考えてみると美濃郡守とは建武年間 (1334-1336年/室町) の遠山氏であろう。

また甲陽史を調べてみると、信玄が恵林寺を建立[1]したが住職にふさわしい僧が居なかった。東濃明覚山大圓寺の希菴玄密の徳が高く際だっていると聞き付けて人を遣わし招こうとしたが、希菴は誘いに応じず返答もすこぶる傲慢であった。これに信玄はいたく憤慨し、当時信州高遠城城主であった秋山晴近に希菴を殺害するよう命令し、元亀 3 年 (1572年/安土桃山) 冬11月、晴近の刺客がそれを遂行した。だが程なくして刺客だった松沢某、小田切某、林某の三人ともが皆不慮の死を遂げ越えて翌年には信玄も没した。晴近もまた織田氏に生け捕られ斬られている。その時代の人が思うにこれは希菴の祟りだろうということである。

里人の伝えにはもう一つある。晴近が城を攻めこの村落を焼いた時に大円寺にも兵火が降りかかったため希菴は乱を避けて飯狭に逃れた。このとき錦の袋を首に縛っていたため、兵たちはこの紐を見て金を分捕ろうと追い求めて殺害した。多分この袋の中は伝燈の法脈 (宗派の教えの流れを示す師弟系図)だったのだろう。私は希菴は欲が深く銭金も多かったために害に遭ったのだろうと思う。この話の通りなら希菴の死は正に天正元年 (1573年/安土桃山) の春である。

祖一から希菴まで約 200 年、祖一は紫野の出 (大徳寺派) だが希菴は関山派 (妙心寺派) であろう。この間の法脈は分かっていない。

希菴の墓は峯上村 (根ノ上) にある[2] (飯狭記参照)。信濃の人が訪れてこの墓を整え、僧を頼んでお経を上げ無実の魂を弔った。その人が言うには、この先で希菴を殺したとのは私だと。また飯狭に希菴殺害に関わった人間もおり、その子孫はことごとく重い病を患って亡んだと言うことである。改めて、公子彭生を猪として伯有を霊とするのは史伝上のことであって、事実でないことをでっち上げてはいけない。

また源吾坂という城府北官舎の傍らに一つの霊石[MAP]がある。希菴が戦火を避けてここを通った時にこの石で休憩したと云う。里人の風習ではこの石を縛って(おこり) (熱病) のまじないをする。

現在、東部 (江戸) にある大円寺はここの分寺である。

  1. ^ 恵林寺の建立は武田信玄誕生よりも前。
  2. ^ この希菴塚[MAP]の傍らには希菴が刺客に殺されたと云う希菴橋がある。

○大圓寺故趾在高阜竹林中俗称大藪者
也石階石垣今猶存又有古石塔之潰散者
也按僧史曰釋祖一號峰翁不記其生出里
居也初游西筑聞紫野宗峰國師之名而來
学焉聲聞播遠近美濃郡守某具禮招致建
寺於遠山號明覚山大圓寺所編有佛祖直
傳一巻行於世延文二年三月寂歳八十四 ※2
勅謚正宗大暁禅師今以紀年考之所謂美
濃郡守者盖建武中遠山氏也又按甲陽史
曰信玄建惠林寺住職乏其人聞東濃明覚
山大圓寺希菴徳望素著遣人聘之希菴不
肯應聘答辞頗倨信玄忿令秋山晴近刺之 ※3
元亀三年冬十一月晴近刺客殺希菴未幾
刺客三人皆強死松澤某小田切某林某 越明年信玄
薨晴近亦為織田氏所擒斬時人以爲希菴
爲祟也俚俗又傳言晴近攻城燔其村落大
圓寺亦罹兵災希菴避乱至於飯狭繫錦嚢
於頸兵人見其紐以為懐金者也追及殺之
其囊中之物盖傳燈之法脉也或曰希菴貧
吝多畜金故遭害若其言則希菴之死當在
天文元年之春也自祖一至希菴其間相距二百余年祖一出於紫野
而希菴乃関山派也其燈脉末審 
希菴墓在岑上村見飯狭記
有信濃人來脩其墓而請僧誦経以弔其冤
魂曰其先殺希菴者也又有飯狭人與殺希
菴之事者而子孫悉罹悪疾而亡若夫彭生
爲豕伯有為㚑史之所傳不可誣也又城府
北官舎旁有一㚑石其地石源吾坂傳言希菴避乱
過此息其石俚俗縛之呪瘧疾方今東部有
大圓寺又其分寺也

※2 延文二年南朝正平十一年也 / ※3 晴近當時為信川高遠城主

[編集] 八幡神社

八幡神社が村内にある。林の中は馬で駆けることができる。

○八幡廟在邑中林中可馳馬

[編集] 白山祠

熊洞に慶長中功臣河合氏が建てた白山祠があり福泉坊という僧が守っている。今熊洞と言われているのはそれとは異なる。いわゆる蟹江七槍の一つである河合帯刀を持つ者によるかは不明。この河合氏の子孫は今なお宗藩 (三河西尾藩か?) に在職だが岩村藩の河合氏はここの庶流である。

○白山祠在熊洞慶長中功臣河合氏所建 ※4
巫僧福泉坊 護之

※4 今称熊洞者典之異未審其的河合帯刀者所謂蟹江七槍之一也其子孫今猶在于宗藩我藩河合氏其庶流也

[編集] 三森峰

三森峰水晶山の後ろに臨み村の東にそびえている。三峰が鼎立して樹木が鬱蒼と茂っており、これに登って見渡せば雲の間から南の海が見えてくる。水の光がゆらめいて映った日を洗い、これなら詩人の詩心も動かすこともできるだろう。

山頂には古鎌を修めた神祠がある (三森神社)。この山の麓に垂松瀑と呼ばれる滝があり、雨乞いをする人がこの鎌を滝に投げ込めば雷が鳴り響き雨が降り始めてたちまち大雨になるだろうと伝わる。本当かどうかは分からない。

○三森峰臨于水晶山背峙于邑東三峰鼎
立林樹蔚蒼登之極目則指南海於雲間水
光瀲灎洗落日可以動騒客之詩腸嶺上有
神祠祠中藏古鎌其麓有瀑布名垂松瀑傳
言雩者投其鎌於瀑則項刻震雷膏雨滂沱
未知然否


古文書の翻訳: このページは巖邑府誌を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

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