巖邑府誌/富田

提供:安岐郷誌
2009年8月24日 (月) 17:52時点におけるTorao (トーク | 投稿記録)による版

(差分) ←前の版 | 最新版 (差分) | 次の版→ (差分)
移動: 案内, 検索

富田は大円寺の西北に位置し溝川を境界としている。戸数八十余り。年に稲米五百余石を作るが、しかし台帳上は千五百余石にもなっている。千石分の田が欠落しているのである。これは官吏が田畑の取り調べをしくじったと言われている。たしかに岩村郊外の山上、富田、大円寺を合わせておよそ千五六百石である。検田吏が間違えて富田の租税に登録したのだろうか。

富田

○富田在大圓寺西北隔溝水為限歳生稲 ※1
米五百餘石而貢籍充千五百餘石特欠千
石之田傳言官吏撿田畝之失也盖巖邑郊
外總貢賦合山上富田大圓寺凡千五六百石也檢田
吏誤特籍富田之賦弞

※1 民戸八十餘

八幡廟

八幡廟は村内の安岐路の東に位置する。

○八幡廟在邑中安岐路之東

東光院

大徳山東光院[MAP] (天徳山の誤記?) は村内の安岐路の西に位置する。

西濃蜂谷村 (美濃加茂市蜂屋町)瑞林寺[MAP]は本大円寺の分派であると伝えられている。瑞林寺を開山した宗光は美濃遠山の人で姓を江氏と言う。師である祖一を尊敬しており、風姿は極めてさわやか、眼光は人を射るようであったと伝えられる。師は「我が宗門は汝に光明を得たり」と講説し、これにちなんで宗光と名付け別号を月庵とした。

このような由縁から瑞林寺の住職の竺源が訪れて大円寺の復興を試みたが果たせなかった。しかし竺源が草庵を構えて居たところ、思いもよらずその弟子が臨済宗の黒衣僧寺を建ててしまった[1]

現在は瑞林寺に属している。

  1. ^ 大円寺は旧藩主の遠山氏の菩提寺であるため時の藩主松平乗寿が許さなかったと言われている。東光院は元は打杭峠の麓[MAP]にあったがこの再建に伴い現在の場所に移動した。

○大徳山東光院在邑中安岐路之西傳言
西濃蜂谷邑瑞林寺本大圓寺分派也瑞林寺開
基宗光濃州遠山人姓江氏禮祖一為師風姿爽抜目光射人師説曰吾宗得汝光明因
名宗光別号月庵 
故其住職竺源来復大圓寺不成

而止竺源偶結草廬居其弟子遂為一寺臨
黒衣僧居焉 至今属于瑞林寺

打杭山

打杭山は安岐との境界に位置する。昔、村境を管理している者が桜を伐り境界にしようと逆に打ち込んだ。しかしその杭から芽が出てのびのびと生い茂り、その木の花枝は下に向かって伸びて行った。この事からこの山の名が付けられたと伝う。この木は山上へ行く道の傍らにあるのだが、しかし花枝は普通の木と違わない。はたまた別に花枝が下に向かっている木があるのかどうか。ひとまずここに書き置いて後日捜索を試みるとする。

また一説によれば杭を打っていた農夫の褌が杭に絡んでいたのに気付かず、一緒に打ち込んだ拍子に陰嚢を締めて死んでしまったとも云う。里人が憐れんでこの場所に埋葬し桜を植えて墓標としたのだと。本当にあったのかどうかは分からない。そういえばこの場所をよく見ると実に古塚に似ている。

○椓橛山在安岐之疆埸昔者掌封境者伐 ※2
櫻為封木逆椓之其木根櫱生而暢茂其花
枝自下垂故名其山伝其樹在山上路傍而

花枝與常樹無異也将別有花枝下垂之樹
否姑書於此蹊他曰之捜索

※2 一説曰有田夫椓橛不知其褌纒橛絞陰嚢而死里人憐而葬於此植櫻以墓表不知有弞事否然見其所実似古塚

創業の頃の富田は一郷であり大円寺が属していた。このため丹羽氏の建立した天神廟[MAP]はその棟梁書き付けに「冨田郷大円寺村」と書かれている。今はそれぞれが一村となっている。おそらく皆それほど昔の事ではないのだろう。ここに改めて城府の周辺地域として付け加えておく。

創業之頃冨田為一郷而大圓寺属焉故丹
羽氏建天神廟其棟梁牌曰冨田郷大圓寺邑
今各別為一邑恐
皆非其舊也茲改附城府之郊


古文書の翻訳: このページは巖邑府誌を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
Sponsored Link
ツールボックス
Sponsored Link