巖邑府誌/山田

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山田

山田は城府の西南6〜7里 (約3.5km) にある。山に沿って田園があるため山田という名が付いている。その土は白壌で中等、貢賦は千石に届く。

三分の一が尾張領である。村落は上と下に別れており、飯高 (尾張領)、水口 (半分尾張領)、隅街途(すみがいと)花白八日市場中田 (以上我が領)、以上を上山田という。田沢岑通 (根通)鴨脚樹(いちょうのき) (以上は半分尾張領)、牧邑徳田和田 (以上全て我が領) を下山田という。また飯高の東に峯山の集落 (尾張領) がある。これは別村の部落であろう (明知領村に峯山とあるのがこの集落であろう)。

川は東飯高山より出て村の中を過ぎて南の手向村に注ぎ、田代山を廻り猿子村に出でて土岐川に入る。

山田

○山田在城府西南六七里田園傍山故名 ※1
焉其土白壌出中等賦貢税充千石以其三
之一為尾張領邑有上下之分其村落曰飯
尾張領 曰水口半為尾張領 隅街途(スミカイド)曰花白曰
八日市場曰中田皆為我領此謂上山田曰田澤 ※2
曰岑通曰鴨脚樹(イチヨノキ)皆半為尾張領曰牧曰徳田曰和
皆全為我領 此謂下山田又飯髙東有峯山之 ※3
尾張領 疑是別村部落也明知領邑有峯山者蓋其落也
水東出於飯高山周過邑中南泻于手向邑
遶田代山出於猿子邑入土岐河

※1 今称馬場山田者蓋以山村而平夷乎民戸一百四十餘散在各所与尾陽侯分封 / ※2 石洞(イシガホラ)落在上山田徳田和田共属上山田 / ※3 下山田中有折坂落

妙法山萬松寺

妙法山萬松寺 (萬勝寺, 飯高観音) は飯高にあり城府の南に接している。開基は分かっていないが伝えによれば元は天台宗で堂閣に観音仏を安置していたという。堂閣と門の礎は今もなお残っている。

平尾徳卿に萬松寺を過ぎる詩がある。祇樹林瑞人跡稀、禅関空鎖帯斜暉、紅塵洗盡間池水、白藕清光風裏飛。

この境内では駿馬を馳す事が出来る。両端には花樹を植えており桜花馬場と呼ばれている。堂の傍らに機子(はたご)池という池には弁財天を祭っている。木々が鬱蒼としており昼でも暗く、祇園精舎の霊場という雰囲気である。堂閣は何度も兵火に遭い滅んで今は草堂に観音仏が安置されているのみである。永貞の祖先盛房が観音祠の額字を書き今も残っている。臨済宗の黒衣僧が寺務を掌っている。

いつの時代にこの寺を廃したかは分かっていない。里老の話によれば昔は山田の賦三分の一をここの寺領としていたと云う。

天正の初めに明知城主遠山民部が上村で戦死し、その子が僧となってここの住職となった。あるとき田丸具安が岩村城を領した折にその僧が基を善くし、しばしば具安に仕えて諸城府の地理(事情や様子)を尽くした。程なく石田氏の難 (関ヶ原の戦い) があり、家康公からの命を請けた遠山友政が岩村城を攻めた (田丸氏は西軍についた)。この時に飯高の僧と和田彦五郎が里人を導いた (東軍についた)

彦五郎 (助右衛門とも言う) は小里城主和田内作の子で落ちぶれてこの村に居た (現在和田という地名があるのが氏の居た所である)。これもまた岩村の地理を知ったものである。ここで飯高の僧は髪を束ね、自らを遠山勘右衛門と称して村民を率いて城府の南に布陣した。また友政の軍も飯狭に布陣した。相対して争い城兵が敗れ、具安は投降した。一段落した後、岩村領の一万石を二人で分けて、明知 (遠山勘右衛門) は七千石、小里 (和田彦五郎) は二千石を治めて故地を復興した。

○妙法山萬松寺在飯髙接于城府南郊其
開基未審傳言舊天台宗也堂閣門礎今猶 ※1
在其境内可馳駿馬両邉栽花樹呼曰櫻花
馬場堂傍有池名機子(ハタゴ)池々渚祭辨財天山
樹森々日色晝暗可謂祇林霊塲也許多堂
閣皆罹兵災而亡今唯有草堂安置観音佛 ※2
而巳矣又臨齋黒衣僧掌寺務不知何時廢
之也甞聞俚老之言曰昔者山田之賦以三
之一為其寺領天正初明知府主遠山民部
戰死于上村其子為僧住職于此會田丸具
安領岩邑府其僧以善基數侍具安悉諸城
府之地理未幾有石田氏之難遠山友政奉
䑓命来攻巖邑飯髙僧曁和田彦五郎為郷
導彦五郎一作助右ヱ門小里城将和田内作子落
魄来居於邑中今有地名和田其所居也亦善知巖邑之
地理者也於是飯髙僧束髪自称遠山勘右
衛門自率村民軍于城府南友政又軍于飯
狭相為掎角城兵潰而具安降事平之後分
巖邑領一萬石封二人明知知七千石小里知
三千石皆復其故地以

※1 平尾徳卿有過萬松寺詩 祇樹林瑞人跡稀禅関空鎖帯斜暉紅塵洗盡間池水白藕清光風裏飛 / ※2 永貞髙祖盛房書観音詞額字今現存

大聖公 (松平家乗) が岩村に封じられた時、総村二万石で山田は一村全て封域にあった。これに対して明知氏は、山田の賦税の三分の一は元は萬松寺領であり、元は私も萬松寺に居たし、つまり私の領地だと訴えた。公は、幸いにして祖宗の霊に頼りかたじけなくも土地建物を封を賜った、山田の一村は封域の中であり、すなわちその権利も公府にあって、簡単に与える訳にはゆかないという。双方の訴えは長い間決着が付かなかった。幕府はこれを憂い尾張公に二家を和解させようとした。尾張の郵吏はとりあえずその租税を納めていたのが毎年の例となり遂に尾張領になったという。

この言い伝えが本当かどうかは分かっていない。調べてみると国家は関ヶ原の大勝をうけた後に天下の多くが定まり、この時に多くの功臣公子を封じた。薩摩君 (名を忠吉) (松平忠吉) は特に戦績が著しく尾張に封じられ清洲に都を置いた。つまり二家を和解させた尾張侯とは薩摩君である。当時、二家は和解に従うことを承知せず互いに拒み、このため尾張の郵吏が仮にその租税を収め官裁が下るのを待ったのだろう。程なくして薩摩君が亡くなり (慶長12年 (1607年/江戸初期) 3月忠吉没) 国が除かれ左衛君 (名は義直) (徳川義直) が尾張に封ぜられた (同年4月)。つまり紛争の田は既に官に没せられ改めて左衛君の封域の中に入れたのであろう。

草堂の傍らに古墳がある (東北隅にあり)。明知相模守の墓であるという。または上村で死んだ民部の墓であるとも云う。どちらが正しいのかは分かっていない。

大聖公封巖邑侯采邑二萬石山田一村全
在封域於是明知氏訟曰山田賦税三之一
舊属于萬松寺領僕先職于萬松寺則此僕
之領也 公曰幸頼 祖宗之霊而辱賜第
土之封山田一村入封域之中其券載在
公府不敢易與人也獄久不決執政患之敎
尾張候和解二家於是尾張郵吏権収其租
税比年為例遂為尾張領云所傳信然未明
鬯也按國家載籍関原大捷之後天下之事
大定於是大封功臣以公子薩摩君名忠吉 
績特著封尾張侯都于清洲然則和解二家
之尾張侯乃薩摩君也想二家不肯從其和
解而相扺故尾張郵吏権収其租税以侍
官裁之下也未幾薩摩君薨國除慶長十二年三月忠
吉卒
而左衛君名義直 封尾張侯同年閏四月 則爭田
既没于 官而更入左衛君封域之中也草
堂之傍在東北隅有古墳曰明知相模守墓也或
曰死於上村民部墓是也未知孰是山下有
一霊石曰祈之可治瘡癤因名瘡佛云

木葉石

木葉石は村の山 (久保原の境) にある。赤粘土の塊のようである。ある物は砕片を成し、あるものは層を成している。手に取り割ってみると中には描いたかのような鮮明な木の葉の葉脈跡がある[1]。好事者はこれを取って奇玩としている。これが何であるのかは分かっていない。しばらくこれを記して、博物に通じた君子を待って折衷する。

  1. ^ 瑞浪層群に含まれている木の葉の化石と思われる。江戸時代中期にはまだ古生物学がなく古生物の痕跡という認識がなかった。

○木葉石在邑山久保原界如赤埴為塊或作片
或作層以手折之中成文理木葉痕如畵鮮
明可愛好事者采為竒翫未審為何物也姑
記之蹊博物君子而折衷

春日神廟

春日神廟[MAP]は岑通 (根通) の林の中にある。

○春日神廟在岑通林中

東巖山盛久寺

東巖山盛久寺[MAP]は花白にある。曹洞宗で慶長2年 (1597年/安土桃山) 3月に善玖和尚が建てた。或いは各務氏が仮に城府を守るときに既にこの寺があったとも云う。現在盛巖寺の属末である (寺の傍らに庚申と閻魔堂がある)。また田澤に大恩寺という地名があるのは廃寺の跡であろう。

○東巖山盛久寺在花白曹洞宗慶長二年
三月和尚善玖建之或曰各務氏假守城府
之時已有其寺即今為盛巖寺属末也寺傍有庚
申及閻羅堂 
又田澤有地名大恩寺蓋廃寺之趾

城岑

城岑は田沢山にある古城跡である。特に伝えられている話もない。

○城岑在田澤山故城墟也殊無傳説

山田は東西南を明知領に接しており城府領はここまでである。また城府西南の一つの道がここをよぎり名越(なごや)に通じている。

○山田東西南皆接于明智領邑而城府領
限于此又城府西南一道過此可以適名越
府也


古文書の翻訳: このページは巖邑府誌を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

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