巖邑府誌/巖邑年譜

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目次

元亀3年

元亀3年 (1572年/戦国) 冬、箕方原の役(みかたはらのえき)で織田信長の援将平手汎秀(ひらてひろひで)が戦死する。当初は同盟関係にあった織田と武田であったが、この戦で織田が徳川方へ援軍を送った事に信玄が激怒。汎秀の首を岐阜に贈りつけ信長の背約を責めた。信長は怖れて織田掃部(おだかもん) (織田忠寛) を使わして詫びたが信玄は聞かず、これを機に両者は対立して東濃は戦の地となった。

この年、岩村城主の遠山修理亮(とおやましゅうりのすけ)が没する (思うに景任の子あるいは景任)。子が居なかったため織田信長の五子である御坊が養子に出され、歳僅かに 8 歳で跡継ぎとなった。

○元亀三年壬申冬有箕方原之役織田信長
援將平手汎秀戦死初武田織田两氏通好
故信玄忿贈汎秀首於岐阜責信長之背約
信長惶使織田掃部謝之信玄不聴自是两
氏絶好而東濃為戦爭之地也此歳巖邑主
遠山修理亮卒葢景任子或曰即景任無子以織田信
長第五子御坊為嗣年僅八歳

天正元年

天正元年 (1573年/戦国) 春、信玄は高遠の守将 秋山伯耆守晴近(あきやまほうきのもりはるちか)を遣わして東美濃へ進軍。遠山氏族はこれを防ぐべく明智の守将 遠山民部の元に上村 (上矢作) で戦うが敗績。民部父子は斬られ遂に岩村は包囲される。

ここで晴近は人を遣わせ修理夫人を説く。「人生は白駒の隙を過ぐるが如し (十八史略; 人生は戸の隙間から白馬が走り去るのを見ているかように早いものだ)。夫人はまだ若い。誰がために孤城を守るのか。現今晴近には連れ合いが居らず。縁組の意を受けるのであれば兵士たちは鋒鏑 (武器) の患いを免れられるだろう。善い提案ではないだろうか。」夫人は喜んでこれを承諾し、城を挙げて晴近を迎え入れた。

三月、晴近は岩村に入って夫人と婚姻を結ぶ。しかし織田掃部の謀によって信長には知らされなかった。

程なくして晴近は信長の人質として御坊を送った。これに怒った信長は遠山子城の多くに塁壁を築き 兵を増員して守らせ、機を見て巌邑を取り戻そうとした。

修理夫人とは信長の妹である (諸誌が皆信秀の妹、信長の叔母としているのは間違いである。信秀は天文18年 (1547年) に42歳で没しているが、もし生きながらえていればこの年には66歳である。その妹となれば50歳を下ることはまずないだろう。また信長も40歳を過ぎている事からも叔母が若年という事はあり得ない[1])。

四月、信玄が没したため勝頼が家督を継いだ。信玄の死は秘匿されていたが築手の守将 奥平信昌(おくだいらのぶまさ)がこれを察し武田方を離反して三河に戻った。

  1. ^ 信長の祖父である信定が天文7年 (1538年) に没する直前に設けた子であればこの時の修理夫人は34歳。一方、大永7年(1527年)生まれの晴近は46歳となる。

○天正元年癸酉春信玄遣高遠守將秋山伯
耆守晴近侵東美濃遠山氏族等拒之以明
知守將遠山民部為師戦于上村敗績斬民
部父子遂圍巖邑不克於是晴近遣人説修
理夫人曰人生如白駒過隙夫人青年若守
孤城將為誰耶方今晴近無配幸通婚媾之
好則免士卒鋒鏑之患不亦善乎夫人悦而
諾則挙城迎晴近三月晴近入巖邑而與夫
人婚織田掃部爲之媒侯長詐而不知未幾
晴近贈御坊於甲斐曰信長質子也信長忿
則令遠山子城多築砦塁増兵衛而便宜復
巖邑修理夫人乃信長女弟也諸史皆為信秀妹信長叔
母非也若夫信秀以天文十八年卒年四十二至此猶存則當年六十六也其妹必年不
減五十時信長亦年過四十不可有青年之叔母也 
四月信玄薨子勝
頼嗣秘不發喪筑手守將奥平信昌探知信玄
死而復皈于参河

天正2年

天正2年 (1574年/戦国) 2月、勝頼は三河を侵略し新坂に至った。しかし掛川の守将 石川家成の砲弾が遂に勝頼をとらえその笠をかすめた。勝頼はこれに驚き怖れて軍を翻し、東美濃へ向かい遠山子城をすべて落とした。

4月に至るとこの騒乱はことごとく静まった (遠山子城の詳細は後述)。

○二年甲戌二月勝頼略参河至新坂懸川守
將石川家成砲手卒徂撃勝頼誤中其蓋勝
頼驚惶即迥軍略東美濃悉取遠山子城至
四月盡平遠山十八子城詳見于後

天正3年

天正3年 (1575年/戦国) 5月、勝頼は長篠城の奥平信昌を包囲したが信長の援兵を受けた浜松軍がこれを挟み撃ちにして破った。この戦において武田方の精鋭は殲滅し甲斐軍は撤退を余儀なくされる。

長篠の戦に勝利した信長は岐阜に戻り嫡子の織田信忠を巌邑討伐に差し向けた。対する晴近は嬰城固守、信忠が城を囲んだまま6月から10月となり進退なきまま長期戦に及んだ。しかし城内の食料は尽き援軍も来ない。河尻鎮吉 (秀隆(ひでたか)) は間道から水晶山に陣を敷き、城中を見下ろして矢砲を乱れ撃ち。晴近は防戦の術が尽き遂に降参した。

信長は信忠に命じて晴近と夫人、副将の座光寺等を分嶺(ぶんね) (飯羽間分根) で磔にした。

(金山記によれば信忠は晴近を捕らえて岐阜に檻送し、信長の命で長良川の辺で磔にしたとしている。先に勝頼が奥平信昌夫人を長篠で磔にした事に腹を立てた信長が晴近夫妻を磔にした事で報いたと。

○あるいは夫人を殺したのは信長の意思ではなく、信忠が誤って命を聞き夫人を殺したとも言われている。これはつまり信忠が叔母を殺したという事実となり、これを記した者が信長の叔母であると誤記した。)

○三月乙亥五月勝頼圍奥平信昌於長篠濱
松軍以信長兵援之夾撃大破之武田氏精
鋭眥殱甲斐軍未定義文字 火兓日.png焉信長凱還于岐阜遣嫡
子信忠将兵撃巖邑晴近嬰城固守久之不
能克信忠圍城自六月至十月城中糧盡援
兵不至加之河尻鎮吉間道陣于水晶山而
下瞰城中矢砲乱發晴近防戦術盡遂出降
信長令信忠磔晴近曁夫人副将座光寺等
於分嶺金山記曰信忠囚晴近檻送于岐阜信長命磔于長良川上初勝頼磔奥
平信信昌夫人於長篠信長忿故磔晴近夫妻以報之〇或曰殺夫人者非信長意信忠
過聴其令而殺之然則當時必當有信忠殺叔母之誠故記者訛為信長叔母也

天正4年

天正4年、信長は先の功を賞して河尻肥前守鎮吉を岩村城主とした。鎮吉は伊勢の人間で代々河尻村に住んでおり、故にこれが氏となった。

○四年丙子信長以河尻肥前守鎮吉為巖邑
城主賞先登之功也鎮吉伊勢人世居于河
尻邑遂氏焉

天正10年

天正10年春正月、木曽義昌(きそよしまさ)は苗木城守将 遠山友政により信長と通じて武田に反旗を翻した。義昌の家臣である千村左京がこの変を甲府に伝えると、驚いた勝頼は弟の信盛、従兄弟の信豊等を遣わして義昌を討とうとしたが成し得なかった。

勝頼は自ら出兵し木曽を討つべく諏訪に陣を敷いた。また義昌もこの急を岐阜に告げ信長から信忠の援軍を受けた。森長一 (あるいは森長可) は金山の兵を、河尻鎮吉は岩村兵を指揮し、団平八 (団忠正(だんただまさ))・毛利・河内等の兵がこれらに加わった。伊奈、飯田などの諸城を抜いて高遠を陥とし進んで守将仁科盛信(にしなもりのぶ)小山田昌辰(おやまだまさゆき)等を斬った。これで勝頼は甲府まで後退する事となった。

三月、勝頼は甲府を出でて都留郡(つるぐん)[MAP]まで退くが既に郡民らは反旗を翻しており、狼狽した勝頼は天目山に入った。これに鎮吉と滝川一益が追従して討ち武田氏は滅ぶ事となった。

四月、信長は諸侯に領地を分け与えた。鎮吉を新府 (新府城/山梨県韮崎市) に、長一を貝津 (海津城/長野県長野市松代町) に移した。褒賞はさらに出され、団平八を金山城主とし、長一の弟蘭丸を岩村城主 (五万石) とした[1]。御坊も武田方から解き帰り勝長と冠して (自称は源三郎) 犬山城主となった。

長一と蘭丸は森可成(もりよしなり)の子である (元亀元年、可成は信長の将となり志賀で戦死)。長一 (或いは長可とも) は最初勝蔵と称していたが後に武蔵守と改めた。驍勇絶倫、人は鬼武蔵と呼んでいた。蘭丸は幼くして信長に仕え、聡明で美しく特に篤い寵愛を受けていた。

六月、信長は上京して本能寺に館を敷いていた。丹波亀山の守将明智光秀が謀反を起こし本能寺で信長、蘭丸を併せて討った。時に蘭丸は18歳である。さらに二条城で信忠を討ち、勝長、団平八らも皆死んだ。

ほどなくして光秀は山﨑の戦い羽柴秀吉によって討ち取られ、これで兵権はことごとく羽柴氏が握ることとなった。ここで再び武田の遺臣らによって甲斐、信濃に騒乱が発生し、鎮吉は彼らに殺される事となった。また越後の上杉景勝によって攻め込まれた貝津の長一は川中島まで退き、信長の訃報を聞いてさらに美濃へ戻った。金山も岩村もみな領主が居らず、このため長一自らが取ってこれを治めた。この将は各務兵庫 (各務兵庫助元正(かかむひょうごのすけもとまさ)) を遣わして一時的に岩村を守らせた。

  1. ^ 「信長公記」「兼山記」によれば岩村城を与えられたのが団平八、金山城を与えられたのが蘭丸。

○十年壬午春正月木曽義昌因苗城守將遠
山友政通志於信長義昌臣千村左京上変
于甲府勝頼驚遣弟信盛従弟信豊等撃之
不克於是勝頼自将撃木曽屯于諏訪義昌
告急於岐阜信長即遣信忠援之森長一督 ※1
金山兵河尻鎮吉督巖邑兵曁團平八毛利
河内等兵皆屬為抜伊奈飯田等諸城進陥
高遠斬守将信盛小山田昌辰等勝頼退保
甲府三月出奔于都留郡々人皆叛狼狽入
于天目山鎮吉曁滝川一益追及殺之武田
氏兦四月信長大封諸将従鎮吉於新府長
一於貝津益食秩有差以圑平八為金山主
以長一弟蘭丸為巖邑主釆邑五万石 御坊免皈
冠名勝長自称源三郎 封為犬山主長一蘭丸皆
森可成子成元亀元年可成為信長将戦死于志賀 長一或作長可
初称勝蔵又更武蔵守驍勇絶倫人呼鬼武
蔵蘭丸少侍信長聰瑟姿色寵睦特渥六月
信長上京館于本能寺丹波亀山守将明智
光秀弑信長於本能寺併殺蘭丸死時年十
八又弑信忠於二条城勝長團平八等皆死
未幾羽柴秀吉討光秀大破之於山﨑光秀走
死自是兵権盡皈于羽柴氏於是甲斐信濃
又乱鎮吉為乱兵所殺越後景勝攻貝津信
人為内應長一退保河中嶋又聞信長之訃
而引還於美濃時金山巖邑皆無主故長一
自取領之遣其将各務兵庫假守巖邑

※1 長一本作長可

天正11年

天正11年、長一は遠山友政を攻めて苗木城領を併せた (三城の領村併せて十二万石、俗に言う岩村釆邑十二萬石とはこの時のものを指すのだろう)。長一はこの年に羽柴氏の召募に応じて岐阜を撃ち米田、柁田、曽根、郡上などの諸城を落としている。

○十一年癸未長一又遂遠山友政併領苗城
三城領邑合十二万石也俗言古巖邑釆邑十二萬石葢指此時也此歳又應
羽柴氏召募撃岐阜降米田柁田曽根郡上
諸城

天正12年

天正12年春三月、長一は羽黒での浜松軍との戦 (羽黒の戦い) に敗績して大いに恥じ入る。四月、長一はふたたび長久手で戦う事となり自ら必死を命じた。遺書を用意し、兵士の戦袍もすべて白にして必死を示した。戦では率先して陣中で砲に当たり倒れた。時に27歳であった。

弟の仙千代 (後の森忠政) が遺封を継いだがまだ冠しておらず、代わって家臣の林道休が朝請を奉じた。林新右衛門が仮で金山を守り、巖邑は元のまま仮で各務が守った。冠して右近大夫忠政と名付いた仙千代は羽柴氏に仕えた。

○十二年甲申春三月長一與濱松軍戦于羽
黒敗績長一大愧之四月復戦于長久手長
一自命必死預作遺書士卒戦袍皆白示必
死也及戦率先衝陣中砲而死時年二十七
弟仙千代襲遺封時未冠家臣林道休代奉
朝請林新右衛門假守金山各務假守巖邑如
故仙千代冠名右近大夫忠政賜羽柴氏

文禄4年

文禄4年 (1595年)、森忠政を川中島 (海津城) に移し (岩村の森氏支配は14年)、田丸中務大輔具安(たまるなかつかさおおすけともやす) (田丸直昌) を岩村に転封した (蘭丸の旧封から一万石を減じて四万石)。

具安は伊勢国司北畠家の庶族であり、その父具忠は田丸城に入っていたことから氏を田丸と改めている。初めは蒲生氏郷(がもううじさと)松嶋を主としており (今松坂とあるのがこれである) 具安もこれに仕えていた。氏郷は貴族の子孫として善く扱い具安の妻に自分の娘を嫁がせている。

氏郷が陸奥 (会津) 封となると具安は三春(みはる) (須賀川城/福島県須賀川市) を守った。ここで氏郷が没し、その子秀行は宇都宮へ移され具安は岩村に封じられた[1]

  1. ^ 秀吉の命で海津城に移った後、秀吉の没後に家康の命で岩村城へ移っている。

○文禄四年乙未徙忠政於河中嶋巖邑為森氏子城十
四年
封田丸中務大輔具安於巖邑食邑四萬石減蘭丸
舊封一万石 
具安伊勢北畠庶続其父具忠城田丸
故更氏焉初蒲生氏郷主於松嶋今謂松坂是也
具安徃從之氏郷以華胄而善待之妻以女
逮氏郷領陸奥而具安守三春至此氏郷卒
徙其子秀行於宇都宮別封具安於巖邑

慶長5年

慶長5年 (1600年)、会津侯景勝 (上杉景勝) が家康の呼び出しに応じなかった事から、六月、家康自ら諸軍を率いて東征に向かった (会津討伐)。この隙を突いて石田三成が西方の諸侯を束ね乱を仕掛けた。具安はこの党に加わり、将を遣わして鶴峯城や高山城などの砦を守らせた。

九月、御軍は関ヶ原で大勝。遠山友政は苗木城へ戻ることが出来た (苗木城主河尻肥後守直次も三成の党であったため、友政は直次を追いやり苗木城に復帰した)。十月、友政を遣わして岩村を攻め、具安は出家の身となった (具安は蒲生氏に寄って死に、その子直茂は再び蒲生氏の家臣となった)。

○慶長五年子庚會津候景勝不来朝夏六月
神祖督諸軍東征石田三成覘其虚連西方
諸侯作乱具安其黨也遣其将守鶴峯高山
等砦秋九月䑓軍大捷于関原遠山友政復
皈苗城苗城守将河尻肥後守直次亦三成之黨也至是友政遂直次復入苗城
冬十月遣友政攻巌邑具安薙髪出降具安寄死
于蒲生氏其子遂為其臣也

慶長6年

慶長6年 (1601年) 正月、大聖公 (松平家乗) を封じて巖邑侯 (二万石) とする。公は三河の公族である。先代の松明公 (乗元) から大給(おぎゅう)に入り代々この城を守っている。いわゆる大給松平氏である。父の梅香公 (真乗) は姉川、三方原、長篠、高天神などで功績を成し、天正10年 (1582年) 3月10日に没した。齢僅か8才で家督を継いだ公に代わって公族で長久手・蟹江で功績のある松平近正がその衆を領した[1]

天正18年、公は上毛野国那和庄 (群馬県伊勢崎市) (一万石) を与えられた。関ヶ原の役では吉田城に駐屯して海路の要衝に備え、また桑名城を攻めて守将民家 (誤記/氏家貞和) を降ろした。この年に俸給を倍として巖邑に移った。

○六年辛丑春正月封
大聖公諱家乗 為巌邑候食邑二万石 
公即参河公族自先世松明公諱乗元 城大給
世々守焉人呼曰大給松平氏 顕考梅香
諱真乗 有姊川箕方原長篠高天神等之績
以天正十年三月十日而薨 公嗣齢僅八
歳 公族近正代領其衆有長久手蟹江之
慶長五年近正守伏見而死節即豊後府内公祖 十八年封
公於上毛野那和采邑一万石 於是関原之後
公軍屯于吉田以備海路之要衝攻桑名降
守將民家此年倍秩徙于巌邑

  1. ^ 慶長5年、近正は伏見城を守って死んだ。これは豊後国府内藩主の公祖である。

慶長19年

慶長19年 (1614年) 正月、功臣の地位順序を定める。家乗公および浜松侯[1]を以て五階大夫の右となる。2月19日、齢40で家乗公が没すると嫡君の源高公 (諱は乗寿) が齢15歳で遺封を受けた。冬10月、我が軍は大坂城を囲む (大坂の役)。乗寿公は美濃の将士を率いて牧方(ひらかた)に陣を敷いた。

  1. ^ 浜松公の名は家広。これを櫻井松平氏という。現在の尼崎公の祖先である。

○十九年甲寅春正月朔定功臣列以
公曁濱松侯為五階大夫之右濱松侯名家廣此謂櫻井
松平氏即今尼崎侯之先
二月十九日
公薨齢四十 嫡居源高公諱乗壽 齢十五承
遺封冬十月 䑓軍圍大坂
公率美濃将士軍于牧方

元和元年

元和元年 (1615年) 夏5月、我が軍は再び大坂城を取り囲んだ (大坂夏の陣)。乗寿公は再び美濃・信濃の将士を率いて枚方に軍を進め遂に森口に至る。大坂城は陥落し、敗兵を負って殺し首57級を斬った。

○元和元年乙卯夏五月 䑓軍再圍大坂
公又率美濃信濃将士軍于牧方遂至森口
城陥追殺敗兵斬首五十七級

寛永15年

寛永15年 (1638年)、乗寿公は采邑を増やして浜松に移封された (大給氏が封していたのは2主38年間)。岩村には丹羽式部大輔氏信が封じられた (式部大輔は他書では式部少輔という)。氏信は伊勢の人で一色の庶族である。あるいは姓良峰の子孫とも云う。尾張丹羽郡に居たためこれを氏とし、父の氏次は自らを勘介と称した。

かつて織田信雄に付き (代々尾張岩崎に居る)、長久手・蟹江で功績があった。また小田原の役に従ったが信雄はこの役では功が無く改易させられた。これにより氏次は神祖 (徳川家康) に付いた。

慶長5年、氏定 (氏次の間違い) は石田の乱 (関ヶ原の戦い) に従い三河伊保に封じられたが、同年に病で没したため氏信が僅か数歳で遺封を継いだ。慶長19年、大阪の役では堀直寄と氏信は水野勝成に付いて住吉に布陣し芦嶋まで進軍した。氏信は既に二十歳であった。元和元年5月、我が軍が再び大坂を囲んだ。勝成、直寄、氏信らは大和道を取り片山で敵に遭う。氏信が先頭で陣を陥落し首19級を斬る。氏信は勇敢でおごり高ぶっておりしばしば大臣を侮っていたため久しく功賞は無かったが、これで領地を倍にして岩村に移った (伊保一万石を除き岩村二万石に改める)。

○寛永十五年戊寅 公徙封於濱松増加采
大給氏先封二主三十八年 封丹羽式部大輔氏信為
巖邑侯氏信其先伊勢人一色庶族或曰姓
良峰後裔徙居于尾張丹羽郡因氏焉父氏
次自称勘介嘗隷于織田信雄世居于尾張岩﨑 
長久手蟹江之績又從小田原之役此役也信
雄無功而廢自是氏次属于
神祖慶長五年從定石田之乱封参河伊保
此歳病卒氏信承遺封時僅數歳十九年大
坂之役堀直寄曁氏信從水野勝成軍于住
吉進至芦嶋氏信己弱冠元和元年五月
䑓軍再圍大坂勝成直寄氏信等取大和道
遭敵於片山氏信先登陷陣斬首十九級氏
信勇敢驕慢數侮大臣故久無賞功至此倍
秩徙于巖邑除伊保一万石更岩邑二万石

正保3年

正保3年 (1646年) 5月11日、氏信が51歳で没すると丹羽氏定 (氏信嫡子) が家督を継いだ。

○正保三年丙戌五月十一日氏信卒年五十
一候氏定立氏信嫡子

明暦3年

明暦3年 (1657年) 4月16日、43歳で氏定が没すると丹羽氏純侯が家督を継いだ (3代は全て式部大輔を称する)。

○明暦三年丁酉四月十六日氏定卒年四十
三侯氏純立三世皆称式部大輔

延寶2年

延宝2年 (1674年) 9月27日、38歳で氏純が没すると長門守丹羽氏明が継いだ。

○延寶二年甲寅九月二十七日氏純卒年三
十八候長門守氏明立

貞享3年

貞享3年 (1686年) 3月2日、20歳で氏明が没する。子が無かったため弟の和泉守丹羽氏音が継いだ。

○貞亨三年丙寅三月二日氏明卒年二十無
子弟和泉守氏音立

元禄15年

元禄15年 (1702年)、氏音に罪があり越後に左遷された (丹羽氏が岩村の主であったのは5代およそ65年である)。

これ以前に村山某という者が氏音に富国の政策を勧めた。氏音はこの策を信任して山村の考えた新法を作ったが、世襲代々の地を削るよう定めたため士民の恨みを受けた。これで家臣20人余りが連名して山村の横専を訴えたため氏音はやむを得ず飲んだ。しかし山村は江戸に足を運びこの冤罪を幕府に訴えた。これで幕府が協議し氏音の失態とし遂に采邑の半分を削り越後高柳に堕とされた (元禄の山村騒動)

この説は私の聞くところと少々違っている。霧城筆記を読むと山村某は精忠の士であるという。妻木某がこれを傾けようと画策し諸士を誘い連名して訴えたと。山村もまた去ることを請い氏音もやむを得ず山村を追う云々と。

継いで龍玄公 (諱を松平乗紀) が岩村侯となった (采邑二万石)。公は源高公の庶孫である。顕考瑞祥公 (諱を松平乗政、嫡祖母松樹夫人は石川康通の女である故に始めは石川氏を冒していた) 朝請の勤めで始めは信濃小諸に封を受けた (采邑二万石)。乗紀公はこの封を承り後に岩村へ移る (采邑は同じ)。経営行事は官家の封籍に詳しく書かれている。

○元禄十五年壬午氏音有罪左遷于越後丹羽
氏主岩邑五世凢六十五年 
先是山村某者以富國之術
説氏音氏音信任之山村妄造新法又定削
世襲之秩士民怨之於是家臣二十餘人連
署訴山村之恣横氏音不得己而遂之山村 ※1
又踵於東部訴其冤於廰於是執政建議以
為氏音不明之所致也遂削采邑之半貶于
越後高柳以
龍玄公諱乗紀 為巌邑候采邑二万石
公乃 源高公庶孫 顕考
瑞祥公諱乗政嫡祖母松樹夫人者石川康通女故初冐石川氏
以朝請之勤始受封於小諸采邑二万石
公承其封至此徙巖邑采邑如故經営行事詳于
官家封籍

※1 此説及余所聞嘗読霧城筆記云山村某精忠之士妻木某欲傾之誘諸士連署訴之山村亦乞公氏音不得止事遂逐山村云々

享保元年

享保元年 (1716年) 12月25日、乗紀公が江戸で没する。享年43歳であった。

○享保元年丙申冬十二月二十五日
公薨于東部享歳四十三

享保2年

享保2年 (1717年) 2月、慈仙公 (諱を松平乗賢) が継ぐ (龍玄公の嫡子)。

○二月丁酉春二月
慈仙公諱乗賢 龍玄公嫡子

享保20年

享保20年 (1735年)、西宮輔導 (西丸老中) の勤めで西美濃および駿河の采邑を賜う (旧領地と併せて三万石)。

○二十年乙卯以西宮輔導之勤加賜西美濃
曁駿河采地合𦾔秩三万石

延享3年

延享3年 (1746年) 5月8日、乗賢公が江戸で没する。享年54。経営行事は官家の封籍に詳しく書かれている。嫡子の大音君 (諱は乗恒) は既に没していたため今候 (諱は乗薀) が養子となり治めた。故佐倉侯 (諱は乗邑) 庶公子で源高公の嫡流である。

○延享三年丙寅夏五月八日
公薨于東部享齢五十四年經営行事悉于
官家封籍 嫡大音君諱乗恒 先卒是以
今候諱乗薀 入承統即
故佐倉候諱乗邑 庶公子而
源高公嫡流也

寛延元年

寛延元年 (1748年) 6月、乗薀公は朝鮮通信使の洪啓禧らを近江八幡館で接待。

国の幸は永遠である。

○寛延元年戊辰夏六月
公饗朝鮮行人洪啓禧等於近江八幡舘
國祚無窮


古文書の翻訳: このページは巖邑府誌を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

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