巖邑府誌/漆原

提供:安岐郷誌
移動: 案内, 検索

漆原

目次

漆原

漆原上村の南 3〜4 里。民戸九十余り。川に沿って西に位置する。その土壌や貢賦は概ね上村と同じである。昔は生業にできるほどの(あずさ)(うるし)が原野に生えており、そのためこの名が付けられたのであろう。夏の日に魚梁(やな)を設けて多くの(ます)(はよ)を取っている。

○漆原在上村南三四里沿河西其土壌貢 ※1
賦槩比于上村蓋古梓漆為叢満於原野故
名其村也夏日設魚梁多取鱒鰷

※1 民戸九十餘

諏訪社

村の上流に諏訪社[MAP] (漆原神社) がある。言い伝えによれば諏訪頼茂の家臣が乱を避けここに居り、それで諏訪神を祀ったということである。村人の安藤氏はその子孫である。径が十囲にもなる古柏を社樹としている。また八幡祠があり明照城主を祀ったものという。

○諏訪社在邑上流傳言諏訪頼茂家臣避
乱居於此因徙祭諏訪神也邑人安藤氏者
其裔也以古栢径十圍者為社樹又有八幡
祠言明照城主所祭也

大場戸

大場戸 (大馬渡) は明知に出る峡道である。明知譜によれば民部 (遠山景行) が大場戸で戦死したという。このため民部の墓が向戸山にある。土地は遙かに隔てている。

○大場戸出明知之峽道也明知譜曰民部
戦死于大場戸而民部墓在向戸山地界遙
隔矣

明照城跡

明照城跡 (漆原城) は川に沿って東に位置する。その南を箕作 (三作)、北を小井沢という (箕作、小井沢は全て部落である)。小井沢は今は越沢という。松下、萬場もまた部落である。城腰を沢が廻っている。城門は南にあり傍らに箕作の里村である熊野祠がある。土塁や堀がまだ残っている。これは遠山友忠が守っていたところである (友忠の詳細は飯狭記参照)。この里人に掘尾氏とあるのは明照の家臣と言われるがそれ以外は伝わっていない (明照は別名を吾寺、また俗に阿寺という)。

○明照城墟在沿河東其南曰箕作北曰小
井澤箕作小井澤皆部落也 河水遶城腰以南為城門 ※2
傍有熊野祠箕作里社塁塹今猶存乃遠山友忠
所守也友忠詳見于飯狭記其里人有掘尾氏者曰其
先明照家臣也其餘無所傳明照一作吾寺俗作阿寺

※2 小井沢今作越沢松下萬場亦部落也


古文書の翻訳: このページは巖邑府誌を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
Sponsored Link
ツールボックス
Sponsored Link