広岡分校

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[[File:Hirokabunko01.jpg|thumb|広岡分校跡]]
 
[[File:Hirokabunko01.jpg|thumb|広岡分校跡]]
{{ruby|'''広岡分校'''|ひろおかぶんこう}}<map name="広岡分校跡" lat="35.411979" lon="137.482792"/>は北側の[[農免橋]]下にあった飯沼・広岡の分校。飯沼側から[[大野橋]]を越えた右手に現在でもその石垣が残っている。
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{{ruby|'''広岡分校'''|ひろおかぶんこう}}<map name="広岡分校跡" lat="35.411979" lon="137.482792"/>は北側の[[農免橋]]下にあった飯沼・広岡の学校。飯沼側から[[大野橋]]を越えた右手に現在でもその石垣が残っている。
  
明治の[[w:学制|学制]]が敷かれる前は、飯沼村では[[禅林寺]]で、広岡では[[新杜]]でそれぞれ寺子屋のような事を行っていた。何時しか飯沼と広岡とで一緒にやろまいかという事になり、その村境となる飯沼川 (松沢川) に学校を建てた。開校は阿木の[[稽徴義校]]が開校する一年前の事である。後にこの学校は広岡分校と呼ばれるようになった。
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明治の[[w:学制|学制]]が敷かれる前は、飯沼村では[[禅林寺]]で、広岡では[[新杜]]でそれぞれ寺子屋のような事を行っていた。それが何時しか飯沼と広岡とで一緒にやろまいかという話になり、その村境となる[[飯沼川]] (松沢川) に学校を建てた。開校は阿木の[[稽徴義校]]が開校する一年前の事である。後にこの学校は広岡分校と呼ばれるようになった。
  
 
広岡分校がいつまで使用されたかは不明だが{{要調査}}、{{年号|1911}} 測図の[[:File:明治44年阿木周辺地図.png|地図]]にも"文"と記されている事から、少なくとも明治の終わりまでは使用されていた事が分かる。
 
広岡分校がいつまで使用されたかは不明だが{{要調査}}、{{年号|1911}} 測図の[[:File:明治44年阿木周辺地図.png|地図]]にも"文"と記されている事から、少なくとも明治の終わりまでは使用されていた事が分かる。
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2009年6月22日 (月) 16:22時点における版

広岡分校(ひろおかぶんこう)[MAP]は北側の農免橋下にあった飯沼・広岡の学校。飯沼側から大野橋を越えた右手に現在でもその石垣が残っている。

明治の学制が敷かれる前は、飯沼村では禅林寺で、広岡では新杜でそれぞれ寺子屋のような事を行っていた。それが何時しか飯沼と広岡とで一緒にやろまいかという話になり、その村境となる飯沼川 (松沢川) に学校を建てた。開校は阿木の稽徴義校が開校する一年前の事である。後にこの学校は広岡分校と呼ばれるようになった。

広岡分校がいつまで使用されたかは不明だが[要調査]、1911年 (明治44年) 測図の地図にも"文"と記されている事から、少なくとも明治の終わりまでは使用されていた事が分かる。

写真集

四方山話

  • 角川日本地名大辞典[1]によれば 1881年 (明治14年) 開校と書かれている。ただし新風義校で記述している通りこの内容は疑わしい。
  1. ^ 角川日本地名大辞典 21 岐阜県, 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040012100

参照

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