広岡分校
提供:安岐郷誌
明治の学制が敷かれる前は、飯沼村では禅林寺で、広岡では新杜でそれぞれ寺子屋のような事を行っていた。何時しか飯沼と広岡とで一緒にやろまいかという事になり、その村境となる飯沼川 (松沢川) に学校を建てた。開校は阿木の稽徴義校が開校する一年前の事である。後にこの学校は広岡分校と呼ばれるようになった。
広岡分校がいつまで使用されたかは不明だが[要調査]、1911年 (明治44年) 測図の地図にも"文"と記されている事から、少なくとも明治の終わりまでは使用されていた事が分かる。
写真集
- Hirokabunko01.jpg
09/06/16 広岡分校跡。
- Hirokabunko02.jpg
09/06/16 草むらの中に石垣が見える。
四方山話
- ^ 角川日本地名大辞典 21 岐阜県, 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040012100