広岡

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* 阿木村が中津川市に編入された時に広岡だけは阿木の小字とならないで「中津川市広岡」とした。これはあまり認知されないまま廃れたが、角川日本地名大辞典[[角川日本地名大辞典]]のように古い住所録や地名辞典などには阿木とは独立した地区として書かれている事がある。
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* 阿木村が中津川市に編入された時に旧[[飯沼村]]と広岡新田は阿木の小字とならないで「中津川市飯沼」「中津川市広岡」とした。飯沼は現在もその通りであるが広岡はあまり認知されないまま廃れてしまった。ただし角川日本地名大辞典[[角川日本地名大辞典]]のように古い住所録や地名辞典などには広岡を阿木とは独立した地区として書いているものもある。
 
* [[巖邑府誌]]などの古文献では廣阜、広阜という字を当てている。阜は小高い丘の意味。
 
* [[巖邑府誌]]などの古文献では廣阜、広阜という字を当てている。阜は小高い丘の意味。
 
* 寅新田とは何処か?{{要調査}}
 
* 寅新田とは何処か?{{要調査}}

2013年1月6日 (日) 02:46時点における最新版

阿木二分団

広岡(ひろおか)[MAP]は藤上の東で大根木の北にあり阿木山川上断層に沿って存在する集落。

目次

[編集] 沿革

元は江戸時代の初期に旧大野村の新田として開拓された地域である。後に大野と別れ、広岡新田(ひろおかしんでん)として阿木の枝村となった (開拓者慰霊碑参照)。広岡新田は現在の二分団のうち飯沼地内 (大野地区) を除く中組 (旧大柳新田)、牧野、下広岡、清水に相当しており、このため現在でも大野を除く二分団全体を指して「広岡」と呼ぶことがある。

  • 1604年 (慶長9年/江戸初期) 岩村藩主導で本格的に大野を開拓[1]
  • 慶安年間 (1648-1651年/江戸初期) 戸口が増え小字も大野、右衛門平、大柳、広岡など新田部落を成す[1]
  • 1679年 (延宝7年/江戸初期) 広岡新田109石。
  • 1703年 (元禄16年/江戸初期) 大野新田村56軒158石が広岡新田村として阿木村の枝郷となる[1]
  • 1957年 (昭和32年) 阿木村が中津川市に編入。

[編集] 地形

広岡は天狗森山橋ヶ谷山の山際に沿って伸びており川上断層で生活域と山林が別れている。山岳部から流出した土砂によって広岡扇状地(ひろおかせんじょうち)と呼ばれる特徴的な地形を成している。土地のほとんどは山から流出した花崗岩の土砂を基盤とした第四紀層である。

[編集] 範囲

広岡という言葉が示す範囲はあいまいで以下の通り幾つかあるため解釈には注意が必要である。

  1. 下広岡(特に字広岡の周辺)
  2. 下広岡と清水(第9区)
  3. 大野を除く二分団全体
  4. 二分団全体

新杜から六地蔵の辻付近を境に東を上広岡(かみひろおか)、西を下広岡(しもひろおか)とも呼ぶ。

[編集] エピソード

  • 阿木村が中津川市に編入された時に旧飯沼村と広岡新田は阿木の小字とならないで「中津川市飯沼」「中津川市広岡」とした。飯沼は現在もその通りであるが広岡はあまり認知されないまま廃れてしまった。ただし角川日本地名大辞典角川日本地名大辞典のように古い住所録や地名辞典などには広岡を阿木とは独立した地区として書いているものもある。
  • 巖邑府誌などの古文献では廣阜、広阜という字を当てている。阜は小高い丘の意味。
  • 寅新田とは何処か?[要調査]
  1. ^ 1.0 1.1 1.2 開拓者慰霊碑

[編集] 関連項目

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