文政の改革

提供:安岐郷誌
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岩村藩文政の改革(ぶんせいのかいかく)は江戸時代後期に財政難打開のために行った改革。文政の阿木騒動及び天保の丹羽瀬騒動を引き起こすきっかけとなった。

背景

1824年 (文政7年/江戸後期)、岩村藩の財政は極度に悪化していた。この頃の岩村藩は:

  • 幕府への上納金の年延べ、拝借金を御願い。
  • 藩内領民へ古田、新田、新々田それぞれ石高に応じた追加貢賦の願い (非強制)。
  • 必要に応じて村々の神社森を御用材として伐採。

などを行っており、財政政策として御神木すら手を付けようという困極まった状況であった。槙平の開墾が同年に始まったのも財政再建のための事業と思われる。

改革の内容

1826年 (文政9年/江戸後期)松平乗美(まつだいらのりよし)が領主となった折、先代からの家老であった丹羽瀬清左衛門(にわせせいざえもん)は藩の財政難を打開すべく改革に乗り出した。「国産に関する意見書」を提出し国産所を創設するなど、岩村藩の産業振興を改革の要としたようである。

  • 新田の開拓、養蚕の振興、桐・桑・杉・茶・栗の苗生産などの推奨。
  • 京都や尾張、三河の職人を呼び寄せての絹織物業・窯業の振興。
  • 領民への極端な自給自足の強制。
  • 1827年 (文政10年)、家臣へ報酬として与える米を借り上げ。
  • 1828年 (文政11年)秋、二十七会講 (無尽) の開始。
  • 1830年 (文政13年)慶安御触書、六諭衍義大意の木版を配布し、領民へ倹約と勤労、封建道徳を奨励。

このような厳しい改革の功あって藩の財政もそれなりに回復して行った。またこの改革によって阿木・飯沼を含む岩村藩内の農家に養蚕が広まり、岩村城下で昭和初期まで続く絹織物産業が発展するきっかけともなった。

しかしこの改革は天保の丹羽瀬騒動という顛末を迎えた。

参照

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